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蔦重はどうやって歌麿を育てたか?|江戸の仕掛人 蔦屋重三郎

若くて貧乏な荒削りの画工歌麿に秘められた類いまれな才能を見抜いた蔦重は、自宅に居候させ、美人を描かせたら右に出る者がいない浮世絵師に育てた。蔦重は、どう仕掛けたのか。新刊『江戸の仕掛人 蔦屋重三郎』(城島明彦 著、ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。

〝最大のライバル〟清長

「六大浮世絵師」といえば、鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、安藤広重を指すが、蔦重は後発の書肆であるにもかかわらず、春信を除いたすべての画家と関わっていた点が出色で、特に蔦重が活躍した江戸中期から後期にかけて関わった「3大浮世絵師」を活躍順に挙げると、春信、清長、歌麿ということになる。

春信は、多色ずりの木版画「錦絵」の創始者として知られ、繊細で流麗な絵を描いた明和期(1764~1772年)を代表する浮世絵師で、清長が天明期を代表する浮世絵師なら、歌麿は寛政期以降を代表する浮世絵師だった。

式亭しきてい三馬さんばは『稗史くさぞうし億説こじつけ年代記ねんだいき』のなかで、清長と歌麿を次のように評した。

「鳥居清長、当世風の女絵一流を書きだす。世に清長風という」

「うた麿、当時の女絵を新たに工夫する」

歌麿は、当初から才能はあったが、努力もすごかった。歌麿がトップスターの座に君臨するまでの浮世絵界の大スターは鳥居清長で、何人もの女性を同一画面で描く際の構図が絶妙で、歌麿は清長の真似をすることで追いつこうと必死に頑張り、やがて独自の絵を完成させ、ついには清長人気を抜き去ることに成功したのである。

清長が描いた美人画は、三大揃物さんだいそろいものといわれる「当世とうせい遊里ゆうり美人合びじんあわせ」「風俗東之錦あずまのにしき」「美南見みなみ十二候じゅうにこう」に見られるように、背が高く健康的で清楚な全身像の女性だったが、歌麿のそれは、体の部分を省いて上半身だけを描いた「大首絵」からわかるように、繊細で色っぽい顔の表情に大きな特徴があった。

清長と歌麿は、清長が1歳上と年齢こそ近似していたが、それ以外は何から何まで対照的で、性格の違いも顕著だった。

清長は温厚でおとなしく、周囲と協調するタイプだったが、歌麿は個性的で気性も好き嫌いも激しく、周囲に溶け込めないタイプだった点が2人の天才画家の違いである。

ダブル対決(西村屋 VS 蔦重、清長 VS 歌麿)

清長をほぼ独占していた版元は、「永寿堂」の屋号で日本橋馬喰町二丁目で地本問屋を営む初代の西村屋与八だった。鳥居清長らの錦絵で売り出し、清長人気に火をつけたのだが、初代は歌麿にチャンスは与えはしたものの、隠れた才能に気づかず、清長に目をかけ、歌麿を干したことで繊細で誇り高い歌麿は傷ついていた。

一方、蔦重は清長を起用して「雪月花東風流」などを手掛けたものの、清長という逸材には〝西村屋からの借り物〟という意識がついてまわり、誰か別の浮世絵師を育成する必要性を痛感していた。そんなときに、くすぶっている歌麿が目についたのだ。蔦重は歌麿を〝清長の対抗馬〟に育てようとして拾い、自宅に居候までさせて、才能に磨きをかけさせた。

歌麿は、蔦重の期待に応えて〝覚醒〟し、新境地を開拓、さまざまな仕事をこなしながら、ついには美人画の「大首絵」という新技法で浮世絵人気を独り占めにする。ものの見事に開花し、大活躍するようになった歌麿を、初代はどんな思いで見ていたのだろうか。

清長は、サナギから蝶へと脱皮して大変身を遂げた歌麿とは対照的に、新境地は目指さず、〝清長風〟を続けた結果、次第に人気が離散していったのだった。

「永寿堂」西村屋与八は3代目まで続き、2代目与八には鱗形屋孫兵衛の次男が養子として入り、筆禍後に落ち込んだ山東京伝を励まして『昔語むかしがたり紫色挙ゆかりのいろあげ』を書かせ、柳亭種彦を世に出すなど、辣腕を振るった。なかでも柳亭種彦りゅうていたねひこの『お仲清七(おなかせいしち)正本製しょうほんじたて楽屋続絵がくやのつづきえ』(正本は芝居の脚本)は、画工に国貞を起用したことも受け、ベストセラーとなっている。

その大ヒットをただ指をくわえて見ていなかった同業者が鶴屋喜右衛門で、種彦に声をかけ、画工に豊国を起用した『偐紫にせむらさき田舎源氏いなかげんじ』を1829(文政12)年に刊行すると、以後14年も続く〝源氏ブーム〟を巻き起こしたのだった。

歌麿はどういう性格だったのか

再び歌麿の話である。

歌麿の性格を一言でいうと、「傲岸不遜」。腕に自信があったからか、負けず嫌いで鼻っ柱が強く、意固地な性格だったが、研究熱心で当初は北尾重政を模倣し、次いで清長や春章を模倣した。たとえば、東京国立博物館蔵の大判錦絵「当世とうせい踊子揃おどりこぞろえ 鷺娘さぎむすめ」(1775〈安永4〉年)「青楼せいろう仁和嘉にわか女芸者之部おんなげいしゃのぶ」(1783〈天明3〉年)からは、清長や春章を模倣したことがはっきりと見てとれる。

なぜ模倣したかといえば、素直に素晴らしいと思った浮世絵師を越えるには、模倣から入ってその技法を盗み取り、それを越える作品を描こうとする貪欲な信念と気骨が歌麿にはあったのである。執念と呼んだ方がいいかもしれない。

それが、寛政年間(制作年は特定できない)の作品になると、進化する。たとえば、大判錦絵「婦人相学ふじんそうがく十躰じってい」のうちの1枚で、タオルを手にした湯上りの女のはだけた胸元から片乳が覗く「浮気之相」では、背景を描かずに「雲母」をべったりと塗るなど、独創色がきわだった。ここまで女の色気を感じさせる絵はそれまでなかったのである。

名画を模写して腕を磨こうとする画学生や画家は、昔も今もいっぱいいるが、そうすることで大きく飛躍する者は限られている。飛躍できる者とそうでない者との差は、努力の差ではなく、才能の差である。だが、それだけでは成功できない。その才能を活かせるチャンスを与えてくれる人の助けがいる。それが蔦重だった。

蔦重がいなければ、歌麿は類いまれな才能を発揮できないまま、陽のあたる場所へ出ることもできず、埋もれたままで生涯を終えていたかもしれない。

歌麿は女性の内面や日常に鋭く切り込んだ
(『婦人相学十躰 煙管持』(東京国立博物館/ColBase)

〝秘蔵っ子〟歌麿、羽ばたく

天明狂歌ブームは、浮世絵にも影響を与えた。その傾向は、歌麿といえど無視できなかった。天明年間の歌麿の主な仕事を追ってみると、次のようになる。

天明4(1784)年 歌麿32歳・蔦重35歳
〇女流戯作者亀遊きゆう(喜三二門人)の黄表紙『亀遊双帋きゆうそうし』の挿絵
〇黄表紙の体裁をとった狂歌2種の挿絵―『ふとい』(角書「後編 栗の木」)と『金平きんひら子供遊こどもあそび』(中本2巻2冊)
〇日記・地誌『古湊こみなと道中記』の挿絵
〇志水燕十作の艶本『とこよぐさ』(小本1冊)の挿絵

天明5(1785)年 歌麿33歳・蔦重36歳
〇狂歌双六『夷歌連中えびすうたれんちゅう双六すごろく』(1枚)の挿絵を「画工筆綾丸」で描く

天明6(1786)年 歌麿34歳・蔦重37歳
〇狂歌絵本『絵本江戸爵えどすゞめ』(半紙本3巻3冊/大英博物館所蔵)
〇狂歌絵本『潮干のつと*』(大本1帖/あけら菅江) 
 *潮干狩りの土産=貝

天明7(1787)年 歌麿35歳・蔦重38歳
〇狂歌絵本『絵本ことばの花』(半紙本5冊)蔦重、序を号「重三郎」で書く

「頃や、よし」と蔦重は判断し、歌麿に「よく我慢した。これから大々的に売り出すから、そのつもりでやってくれ」と発破をかけ、「虫」をテーマにした絵を描かせた。

すると、観察力に目をみはるものがあり、歌麿は新境地を開いた。翌1888(天明8)年正月に発売されるや、絶賛の嵐となった絵本『画本えほん虫撰むしえらみ』(大本2冊)が、それである。歌麿の知名度は急上昇した。と同時に、蔦重の才能を発掘する眼力や出版人としてのプロデュース力が尋常ではないことも、改めて実証されたのである。

絵本『画本虫撰』が世に出た明くる年(1889〈天明9〉年)には、1月29日に「改元」があって、寛政元年となった。その年に歌麿は、狂歌絵本『狂月望きょうげつぼう』(大本1帖/紀定丸編)をはじめ、黄表紙、黄表紙仕立ての咄本など5冊の挿絵を描いた。

○黄表紙『嗚呼ああ奇々羅ききら金鶏きんけい』(中本2巻2冊/山東京伝/角書「淀屋宝物 東都名物」)
○黄表紙仕立て咄本『炉開ろひらき噺口切はなしのくちきり』(中本2巻2冊/うき世伊之介)
○狂歌絵本『絵本譬喩節たとえのふし』(半紙本3冊)
○狂歌絵本『絵本和歌えびす』(半紙本1冊/宿屋飯盛)
○狂歌絵本『絵本百囀ももさえずり』(半紙本2冊/奇々羅金鶏撰)

明くる寛政2(1790)年も6冊の本に挿絵を描き、蔦重も歌麿も乗りに乗った感があり、耕書堂が発行する本はどんどん増え続け、蔦重の知名度も上がっていった。

蔦重が「歌麿のお披露目」を演出

ここで少し時代を遡る。1782(天明2)年秋のある日のことである。上野は忍岡しのぶがおかにある料亭で「戯作者の会」が開催され、大勢の招待客が集った。彼らは、江戸文化を代表する著名人たちばかりだった。

戯作者では、恋川春町、朋誠堂ほうせいどう喜三二きさんじ志水しみず燕十えんじゅう立川たてかわ焉馬えんまら。狂歌師では、四方赤良よものあから大田おおた南畝なんぽ)、朱楽あけら菅江かんこう、森羅万象、南陀伽なんだか紫蘭しらん山手馬鹿人やまてのばかひとら。浮世絵師では、北尾重政、勝川春章、鳥居清長ら。

招いたのは歌麿で、事前に、こんな口上書を通知していた。

「口演 此度このたび画工哥麿もうすは、すり(摺)物にてさんぬる天明二のとし秋、忍ぶ岡にて戯作者の会いたし候より、作者とさく者のママよく、今はみな〳〵親身のごとくなり候も、ひとえに縁むすぶの神、人々うた麿大明神と尊契そんけいし御うやまひくださレ(=返り点)被下候るべく。 以上
  四方作者どもへ
       うた麿大明神 」 

この案内文は、大田南畝が自宅を訪れた者から入手し、記録していた『蜀山人しょくさんじん判取帳はんとりちょう』に貼ってあった摺物の一つで、その文面からは「会の主催者は歌麿」ということになるが、「金を出したのは蔦重」だった。会の目的は、単なる文壇仲間の親睦会ではなく、「歌麿を蔦重専属として大々的に売り出すための披露パーティー」と蔦重は位置づけていたのである。忍岡にある料亭を会場に選んだのは、当時、歌麿が住んでいた場所が忍岡だったからで、そういうところにも蔦重の細かい心配りがあった。

文中の「作者とさく者の中よく」は「作者と作者の仲良く」の意味だとわかるが、「偏に縁むすぶの神。人々うた麿大明神と尊契そんけいし御うやまひ可被下候くださるべくそうろう」は言葉足らずでわかりにくい。次のように言葉を補って解釈するとわかりやすくなるだろう。

「作者仲間が親身になれたのは、ひとえに縁結びの神のご利益、すなわち、この歌麿のおかげでありますから、どうか皆様、この私めを〝うた麿大明神〟と尊敬かつ契りを結んでくださるようお願いする次第であります」

読者のなかには、「招待客には歌麿よりはるかに年配の人もいるにもかかわらず、自分自身を〝うた麿大明神〟などと呼ぶのは傲岸不遜ではないか」と思う方もおられよう。だが、会場に集まった戯作者や画工たちは、歌麿が前年に画工としてたずさわった黄表紙に事寄ことよせて、わざとそのような言い方をしたということがよくわかっていたから、無礼でとも思わなかったし、違和感も覚えなかったのである。

そのわけを説明しよう。前年の1781(天明元)年、蔦重は、歌麿を大々的に売り出すための秘策を練った。そして先ず〝軽いウォーミングアップ〟として志水燕十の黄表紙『身貌みなり大通神略だいつうじんりゃく縁起えんぎ』の挿絵を画く仕事を歌麿に割り振った。

戯作者の志水燕十は歌麿と同じ石燕門下の兄弟子であり、日頃から親しい間柄。そういう配慮も蔦重はしたのである。そのとき、それまで「豊章」と名乗っていた歌麿に初めて「歌麿」を名乗らせた。そういう仕掛けをさらっとやってのけるのが蔦重なのだ。

文=城島明彦

本書では、歌麿のほか平賀源内や山東京伝、写楽など、蔦重と関わりの深かった人物について、掘り下げて解説しています。大河ドラマ『べらぼう』がもっと面白くなる一冊、鑑賞のお供にぜひ!

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<本書の目次>
子 江戸の仕掛人 まじめなる口上
丑 遊郭案内仕掛人 「吉原細見」と蔦重
寅 文芸仕掛人 源内の多芸多才に痺れた蔦重
卯 偉才発掘仕掛人 山東京伝は文画二刀流
辰 新ジャンル仕掛人 黄表紙で大躍進
巳 催事仕掛人 空前絶後の狂歌ブームを演出
午 権力と戦う仕掛人 筆禍事件の波紋
未 浮世絵仕掛人 歌麿の光と影
申 大首絵仕掛人 写楽の謎と真実
酉 重版仕掛人 奇想天外な発想と商才
戌 未来仕掛人 〝出版革命児〟の死に至る病
亥 令和の似非仕掛人 「跋」に名を借りた〝逃げ口上〟

城島明彦(じょうじま あきひこ)
昭和21年三重県生まれ。早稲田大学政経学部卒業。東宝を経て、ソニー勤務時に「けさらんぱさらん」でオール讀物新人賞を受賞し、作家となる。『ソニー燃ゆ』『ソニーを踏み台にした男たち』などのノンフィクションから、『恐怖がたり42夜』『横濱幻想奇譚』などの小説、歴史上の人物検証『裏・義経本』や『現代語で読む野菊の墓』『「世界の大富豪」成功の法則』『広報がダメだから社長が謝罪会見をする!』など著書多数。「いつか読んでみたかった日本の名著」の現代語訳に 『五輪書』(宮本武蔵・著)、『吉田松陰「留魂録」』、『養生訓』(貝原益軒・著) 、『石田梅岩「都鄙問答」』、『葉隠』(いずれも致知出版社)、古典の現代語抄訳に『超約版 方丈記』(小社刊)がある。

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