418 蝉谷めぐ実著『見えるか保己一』を読んで、見えるものと見えないものを考える
2026年の初夏、蝉谷めぐ実著『見えるか保己一』を「5時に夢中」のエンタメ番付で新潮社・中瀬ゆかりが紹介していた。その鮮やかなカバーが印象に残り、手にすることにした。このカバーは及川真雪が担当していた。詳細はこちら。
読み進めるうちに、私にとってこの物語は話題の作品とか見事な歴史小説であること以上の重みを感じ始めた。偶然なのだが。
江戸の偉人伝でありながら
主人公は、幼くして視力を失ってしまう。それでもまだ目の見えていたうちに磨いた感性と抜群の記憶力を駆使して、『群書類従』の編纂ほか江戸時代にこれまでの日本の文献をいっきにまとめ上げた偉人、塙保己一。
江戸時代は版木によって出版されるようになったのだが、それ以前は書き写していたこともあるし、版木は消えて行く運命でもあって、過去の書籍の散逸は大問題だった。発掘し定本として整えて印刷する。版木も残す。こういうことを最初にやったのだ。このおかげで多くの書籍が現代まで残った。また、合理主義な保己一は、原稿を20字×20行に統一した。これがいまもなお原稿用紙のスタンダードになっている。
著者は、その半生を実直な伝記としてだけではなく、章ごとにテーマを設け、人間性に焦点を当て、続き物の講談や芝居を思わせる濃密なエンターテインメントとして描き出している。
変化する「見えるか」の意味
特徴的なのは、各章のタイトルが最終章を除いて「同音異義語」のダブルミーニングになっていることだ。物語が進むにつれて「見えるか」という問いの意味も変わってくる。視覚を失った保己一が江戸社会の中で、按摩や借金取り立てといった「与えられた仕事」に馴染まず、それでも他人には見えない何かを掴み取っていき頂点にまで到達する成長譚としてもおもしろい。
だがそれだけではない。彼に見えていたもの、そして残念ながら見えなかったものを著者は丁寧に物語の展開で読者に見せていく。その鮮やかさは、カバーの鮮やかさにも通じて力強い。
自分は、偶然この本を眼科の待合室で読んでいることに気付いた。電子版なのでスマホがあればどこでも読める便利さから、反射的に本を開く。この日も混雑していて三十分は待たされたので読みふけっていた。
もはや他人事ではない
ようやく受け付けてくれていろいろ検査をする。自覚症状はあまりなかったものの、そういえば眼科の健康診断をしていなかったので来たわけだが、驚いたことに「白内障ですね」と言われた。
「四段階あるとして、一・五といったところでしょう」と医師。「二になったら文字はほとんど読めなくなります」
盲目になるわけではなく、ぼやけたり滲んだりして読みにくくなるらしい。「どうします? 手術しますか? みなさん早めにやってよかったっておっしゃっていますよ」
やるしかない。
こんなことで、まさか、『見えるか保己一』を読む特別な意味を自分が抱えてしまうことになるとは思わなかった。これはたぶん、ひとりで釣りに行ったら珍しく大物が釣れたものの、船でのんびりヘミングウェイの『老人と海』を読んでいたらサメに襲われた、みたいなものだろう。
このあと手術は一ヵ月待ちと言われ、さらに手術は簡単なものだが、なにかが原因で失明することもゼロではない、と説明を受けた。万に一つとはいえリスクはある。手術してもしなくても「見えなくなる」可能性はあるのだ。
もはや他人事ではない。
保己一が光を失いながらも、己の感覚と思考だけを頼りに生き抜こうとする姿を追うとき、その凄味に圧倒されてしまう。自分は光を失ったら、とてもこんな風に生きて行くことはできそうにない、と早々に諦めた。
昨日何食べたかも覚えていないオヤジが、どうしろってんだ、と思った。
──ここからネタバレあります──
美しいだけの話にしない
物語の終盤、保己一は一つの結論に達する。それは「信じるべきは血縁」という泥臭いものだ。そして、目の代わりを務めることを決意する娘・とせ子の姿が描かれる。親子の「絆」といった生やさしいものではない。とせ子の母は彼女を産んだあとに、保己一との生活を諦めて行方をくらましてしまうのだ。弟子と浮気して。
血縁と言っても、その中身は千差万別。愛憎の絡み合い。さらに金銭的な問題もあるだろう。だから血縁は救いになると同時に呪いとなる可能性だってある。このあたりは多くのホラー作品に描かれているに違いない。
幸い、保己一は自分の仕事をきっちりとやり遂げながら、人生をまっとうする。
ただ著者はそんな美しい話としてまとめたわけではない。幼少期から友として折々に現れる男がいて、その男との関係性について保己一はまったくわかっていなかった。弟子もだ。妻と浮気していなくなった弟子とは、思いがけない展開がある。
視野狭窄を突き破る
先日読んだ朝井リョウ著『イン・ザ・メガチャーチ』では、信じたい物語に依存して視野狭窄に陥る人物が描かれた。見えている人も見えなくなる。見えない人にも見えるものがあるのか、と言えば、確かにありそうだ。が、それでも人間関係となると難しい。
「見えるか」という問いは、そうした狭い閉鎖空間を突き破る生命力であると同時に、あえて見ないことによる平穏も含まれるのかもしれない。見えてしまう不幸、見えなかった幸せ。見えない不幸、見える幸せ。そう考えたとき、簡単に答えなど出せないことに気付く。
白内障の手術は片方ずつやることになる。果たして、私は今後、何を見て、何を見なくなるのか。少しばかりの懸念に震えつつその時が来るのを待つ。近所のおかみさんから「私もやったけど、ちょちょいのちょいだったよ」と言われたからといって、安閑としてはいられない。
保己一は耳も良かった。残念ながら私は突発性難聴から、だいぶ聴力を失った。残された能力は人間として心もとない。
この夏、『見えるか保己一』と過ごした時間を忘れることはないだろう。せめてそれぐらいの記憶力はあって欲しい。
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