楽しむ罪悪感
こころが転がって出会った冬至から
嗅覚を使った瞑想のようなものを毎朝続けている。
寒い朝には起きたまま、布団の上で身体を簡単に動かしての五分くらいのもの。
始めた頃は香りを嗅ぐとキーワードのようなものがポンポン浮かんできた。
今は香りに慣れてきたのか言葉が静まって
香りに満たされた身体の奥で何て置き換えればいいのか解らないものがもよもよと蠢くようになって、
無理に言葉にすると違うと感じるのと
言葉にすることで、もよもよの殆どが抜け落ちていく気がして日記に書けず悩んでいた。
これは何の感触なんだろう?
何時のなんだろう?
誰の…?
そんな意味不明な感覚をただ面白がるように続けていると、時折、スッと隙間に落ちたようなひと呼吸のうちに、その感覚に納得させられてしまうことがある。
今朝は衝撃的で
「私は
この命を楽しんで生きることに罪悪感を覚える」
と言うことだった。
何故だろう?
自然が好きと言いながら、
自然に分けて貰っている命に罪悪感……謎だ。
この“おもしれぇ”ことをしそうな自分という命の表れが、社会的には良くないと思っている。
適合しないと生きられない。
すっぽんぽんで外へ出たら恥ずかしいよね。
申し訳なさ
どう言葉にしても、
『素直に生きていないことへの罪悪感』
なのかもしれない。
ごめんなさい。
ただ、こういったこと感じても、
「おもしれぇ」と歓べるようになったのは
身体を養えているからなのかもしれない。
