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手のひらの図像学.9 奥州白石噺

湯沢市岩崎八幡神社の絵馬

仇討ちの絵馬


 湯沢市岩崎の八幡神社を訪れた際に気になった絵馬。二対一の戦いの場面は仇討を描いたものと思われたが、その時思い浮かぶのは「曽我兄弟の仇討ち」という言葉ぐらいで、それも全く根拠のないものだった。ところが、偶然語り部の中川文子さんから「奥州白石噺」という物語の存在を聞き、その疑問が解けたのである。以下物語の内容を紹介してみよう。

奥州白石噺

 寛永十三年(一六三六)のある日、奥州白石の百姓の娘姉妹が父親の与太郎と共に田の草取りをしていたところ、たまたま通りかかった(伊達政宗の家臣片倉小十郎の剣術の師)の袴に妹が投げた草が当たり、激怒した団七が娘を手打ちにしようとするのをかばった父親が斬り殺されてしまった。それを聞いた病床の母親も後を追うように亡くなってしまった。
 その後復讐を誓った姉妹は江戸へ出て、当代一の武芸者として有名であった由比正雪の門人となり、姉は、妹はと名付けられる。五年の厳しい修行の末、姉は薙刀、妹は鎖鎌と手裏剣の技を身に着け、片倉小十郎に仇討ちの許可を得て、白石川六本松河原にて、片倉家の家臣と多くの見物人が見守る中、見事本懐を成し遂げる。
 親の仇とは言え、武士を殺した罪を償うため、姉妹はその場で自害しようとしたが、周りの人たちに止められて思いとどまり、出家して生涯を仏に仕えて暮らした。


 ここで再び問題の絵馬をよく見てみると、中央の男性と戦っている二人は女性で、それぞれ手に薙刀と鎖鎌を持っていることがわかる。ゆえにこの絵馬は「奥州白石噺」の仇討ちの場面を描いたもので、中央は団七、右は宮城野、左は信夫の姿であると解釈できる。この物語には元になる事件が実際にあったとも言われているが、その真偽のほどは不明である。しかし、地元白石では苦難を乗り越えて親の仇討ちを成し遂げた宮城野、信夫姉妹は孝女の鑑として長く語り伝えられている。
 百姓の姉妹が父の仇(武士)を討つというストーリーが民衆の心をとらえ、歌舞伎や人形浄瑠璃の『碁太平記白石噺』という演目は評判を呼び、読本も『奥州白石女敵討』『奥州仙台領白石女敵討』『白石女敵討』『慶安太平記』など幾種も出されている。
 また、三人一組で仇討ちの場面を再現しながら踊る「団七踊り」という民俗芸能は全国的な広がりをみせている。
 秋田県内には「団七踊り」は伝承されていないが、民謡秋田音頭の歌詞に「コラ奥州仙台白石城下で 女の敵討ち 姉は宮城野妹は信夫 団七首落とす」とあるのをはじめ、由利本荘市の屋敷番楽の演目に「志賀団七」があり、近年は上演されていないが、羽後町の野中人形芝居の演目にも「奥州白石噺」があることから、かつては県内でもよく知られた物語であったことがわかる。
 残念ながら自分の住む湯沢には「奥州白石噺」に関する郷土芸能は伝わっていなかった。しかし、実はこの湯沢こそがこの物語と深い因縁で結ばれていた土地だったのである。

湯仙寺の宝物

 湯沢市吹張町の湯仙寺に祀られる「あごなし地蔵(阿保原地蔵)」は、弘法大師の作と伝わる木像で、元奥州白石三澤村阿保原圓福寺に所蔵されていたものであった。この像に宮城野・信夫姉妹が敵討ちの成就を祈願したという由来があり、歯痛・口内の病にご利益があるとして信仰を集めていた。
 また、 この寺の宝物として宮城野・信夫姉妹が仇討ち祈願とその成就後に奉納した品々があり、くも貝と鐵の鞋と仇討ちに使用した薙刀と鎖鎌が所蔵されていた。このうち、くも貝は百年に一度角が生えると言われており、その角が生え揃うまで。そして鐵の鞋はそれが擦り切れるまでの長い年月がかかったとしても、必ず仇討ちをやり遂げるという強い意志を示したものであった。
 宮城野・信夫姉妹に関わりの深い地蔵尊と宝物が湯沢のお寺に納められることになったのには次のようないきさつがあった。
 「阿保原地蔵尊の出開張で湯沢に来た際に、ついてきた法師が急病で亡くなり、二人の俗人も消え去った。なんとか後始末はすませたが、地蔵尊と宝物を残された家では家族が謎の病にかかり、神託によるとこれは地蔵様の祟りで、その家より東方の寺に納めよとのことだったので、湯仙寺へ納められることになった。」
 以上の内容は昭和五年(一九三〇)刊の『ゆざわ』(湯澤タイムス社)によったが、平成九年(一九九七)刊の『秋田のお寺』(秋田魁新報社)にも同様の記述があるので、現在もまだ地蔵尊と宝物があるものと思って湯仙寺を訪ねてみた。

 湯仙寺は現在無住の寺で檀家の人たちによって管理されている。管理を任されている小棚木茂さんに鍵を開けてもらい、寺の中を拝観し撮影させていただいた。ここは元真言宗の寺院で佐竹南家の祈祷所であったが、明治以降天台宗となった。本尊の不動明王像と像、像の三体は桃山時代の作とされ、湯沢市指定有形文化財となっている。半世紀ほど前のまだ茅葺屋根の建物だった時代には、その前を通ると太鼓の音がよく聞こえていたが、今にして思えばご祈祷の最中だったのだろう。
 本堂には本尊以外にも沢山の像があったが、木造の地蔵尊や宝物らしきものは見当たらなかった。位牌所に大きな地蔵尊が祀られていたが石像であった。

謎の仏像

 ただ一体気になる木像があった。左腕が欠損していたがその形態から、薬師如来の坐像と思われた。特徴的なのは目と耳が無いことで、横から見るとおとがいも無いように見えるので、「あごなし」という言葉に合致しているとも思われた。あごの部分には点々と削り取られた跡が見られる。おそらくこれは、歯痛などで苦しむ信者たちがその治癒を祈って削り取って持ち帰り、煎じて飲んだのではないかと思う。また、目や耳もその病気に苦しむ人たちが薬師像をさすりながら祈りを捧げたため、長い年月の間にすり減って無くなってしまったとも考えられる。そうすると、各地の寺院でよく目にする「おびんずる様」的な仏像と言えようか。
 そして、もう一つのとらえ方としては、初めからそう作られた像とみなすこと。微かな目の彫りや全く目を彫らない造作は、霊木から出現しつつある神仏のおぼろげな姿を表現した「霊木化現仏」に見られる様式である。湯沢市内に残る三体の古仏、松岡の白山女神像、土沢の十一面観音像、杉沢の千手観音像も霊木化現仏とされており、もし初めから目が彫られていなかったとすると、この薬師像も霊木に彫られた像としてその作例に加わることになろう。また、耳の突起を造らない様式は、白山女神像、杉沢千手観音像と共通している。ただし、江戸初期開山の湯仙寺においてこの像の存在は異質な感じを受けるので、何らかの事情で他の寺院からもたらされたものと思われる。
 訪問の結果、あごなし地蔵も宝物も見つけることはできなかった。一時は件の木像がそれかと思ったが、どう見ても地蔵尊には見えず、薬師が地蔵と誤って伝えられるとも思われなかった。住職がいない現在これ以上詳しい情報も得られず、調査は暗礁に乗り上げてしまった。地蔵尊と宝物はいったい何処へいってしまったのだろうか。

宮城野信夫三百年祭

 ここで一冊の本との出会いがその謎を解くことになる。前述の「奥州白石噺」を題材とした民俗芸能「団七踊り」について、広く調査研究してまとめられた『全国縦断 団七踊り』(著・新葉社・平成十四年刊)が湯沢図書館に所蔵されていたので、何気なく手にとってページをめくっていると、ある記事のところでピタリと手が止まった。それは、宮城野・信夫姉妹の仇討ちの年から三百年を記念して昭和十四年(一九三九)、宮城県白石町(現白石市)にて開催された「宮城野信夫三百年祭」の記録であった。
 当時の地元紙(不忘新聞)の記事によると、様々な関連行事が行われる中、五月七日の式典では土井晩翠氏詩碑除幕式・三百年祭式典記念碑除幕式・(姉妹の父親)の法名披露「願成院釋了俊」と並んで「薙刀鎖鎌を寄贈したる秋田縣湯澤町大沼平次郎氏及び芳賀好之助氏に対する感謝状贈呈」が執り行われていたことがわかる。
 また、専念寺では『白石噺』史料展覧會が開催されており、「秋田縣湯澤町湯仙寺に七十年前から保管されてゐた両女使用の薙刀及鎖鎌、阿保原地蔵尊木造を始め門外不出の珍品逸物が陳列される」と展示の目玉として紹介されている。
 結論として言えるのは、湯仙寺に納められていた宝物と地蔵尊は、今から八十年ほど前に「宮城野信夫三百年祭」の開催に合わせて縁の地に返納されていたということ。記事に地蔵尊返納の記述は無いが、現在専念寺に所蔵されている宝物を入れた箱の蓋の裏書きには次のように記されている。

湯仙寺の宝物


 昭和拾四年五月一日 秋田縣雄勝郡湯澤町
      奉納       大沼平次郎
                六十七才
           仝所
               芳賀好之助
                四十五才


   秋田縣湯澤町
 地蔵尊奉還方
   渡邊豊吉
   新田源八郎
   鈴木良治

 このように地蔵尊奉還方の名前も記されているので、専念寺かどうかは不明であるが、この時白石町の寺院に奉還されたことは間違いない。
 一枚の絵馬がきっかけとなって知ることとなった湯沢と白石の不思議な縁。そして今更ながらに、民衆の心を揺り動かす物語の力は現実をも超えているのだと思い知らされる。

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