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手のひらの図像学.20 読めない石碑.2

謎の石碑



 湯沢市倉内の熊野神社と新山神社の社殿の間に立つ石碑。 
 数年前に初めてこの石碑に相対した時、碑文中央の「蟲」と「消除」の文字だけが目に入り、しかも一番上の文字が「怨」に見えたので、稲の害虫を怨み、その駆除を願った石碑であろうと勝手に解釈し、その場を立ち去ったのであった。しかし、後に再びこの場所を訪れ、碑面を詳細に見てみると、どうやらそうではないらしいことが分かってきた。
 万延元年(一八六〇)庚申の年の四月十五日に倉内の若連中(今日の若者会)の発願によって建てられた石碑であり、風化が激しい中で右側面には
「□□ 寄進肝煎□□」
と読み取れる文があり、当時の肝煎が若連中に推されて寄進者になったものか、あるいは石碑の建立に際して石材や石工の手間賃を寄付したとも考えられる。
 さて、肝心なのは中央の碑文である。まず、上部の種字の読みはカで地蔵菩薩を表し、下部の種字はボローンで一字金輪仏頂を表していることがわかる。そして、その間の漢字の一文字目はよく見ると「怨」ではなく、「死」の下に「心」で一文字となっている。この文字は漢和辞典には無く、異体字にも見当たらなかった。それではいったい何と読み何を意味しているのだろうか。


 虫に関する石碑を探して歩く過程において、辞書に無い字(造字)や明らかに誤字と思われる碑文に出会うことがある。新山神社の左脇の嘉永四年(一八五一)六月建立の石碑も、「青面金剛童子」ではなく「清面金剛童子」(図32)と彫られている。しかしそれは明治以前に書かれた文章にはよくあることで、碑文作者の知識の無さを表しているというよりも、字の音が合っていればそれほど正確な文字にこだわらない風潮があったことが感じられる。そればかりか、ひとつの文章の中で何度も同じ固有名詞が出てくる場合、そのたびごとにわざと表記を変えている例もあり(菅江真澄の著書参照)、当時は表記の正確さよりも同じ言葉の繰り返しを嫌う感性の方が優先されていたらしい。
 庚申塔の中で三尸塔と呼ばれる分類がある。これは庚申信仰の根幹である「三尸虫を体内から駆除しその禍を絶つ」という目的を文にして彫り込んだ石碑のことで、その文例としては「三尸塔」「絶三尸罪」「三尸去」「庚申屍去」「除三虫碑」「三屍蟲降伏」「三屍蟲降伏之碑」「庚申自三屍蟲降伏碑」などが挙げられる。「尸」=「屍」(しかばね)であるため、石碑では「三屍蟲」と刻まれている例も多い。
 これらをふまえて自説を述べると、「死」+「心」の文字は碑文考案者や揮毫者又は石工の造字であり、それはシという音から考えられたもので、本来は「屍」の文字があてられるべきものであった。中央の碑文を自説に基いて修正すると次のようになる。

 

種字(地蔵菩薩) 屍蟲消除断□ 種字(一字金輪仏頂)


 道教のカミで例えると、地蔵菩薩は大地のカミを、一字金鱗仏頂は月や北極星を表すので、天帝を意味すると思われる。「屍蟲消除断□」という文言、六十年に一度の庚申の年に建立されていること、この碑に接するようにして青面金剛童子碑が立っていることを合わせ見ると、この石碑は三尸塔に間違いないと思われる。藤田栄子氏の著書『庚申』(秋田文化出版株式会社刊・一九九四年)には「残念なことに、秋田県の庚申塔には三尸という文字を見つけ出すことはできない」とあるので、この石碑がそうだと確定されれば、秋田県内唯一の例ということになる。

 倉内地区には仏教寺院は無かったが、東光院という修験寺院があった。倉内在住の医師須田春育(宝暦一三~弘化二年・一七六三~一八四六年)の書き残した随筆『見聞百物語』にも東光院に関する記述があり、須田家の隣であったこと、先祖は柳田治兵衛尉の家来鈴木伝五郎の孫で、正保三年(一六四六)に山伏となって倉内に居住するようになったことなどが記されている。また、『はたのの昔語り(九)』(幡野郷土史クラブ・一九八六発行)によると、鈴木氏は後に村上姓となり、明治の初めころまでは修験を続けていたとされている。
 熊野・新山神社境内に立つ他の庚申塔や出羽三山碑にも東光院の名が見られるので、おそらく倉内地区の石碑の建立や供養・祈祷にはほぼ東光院が関わっていたと思われる。そしてもちろん、この三尸塔の建立を主導したのも東光院であったと推測されるのである。 
 時は幕末、新しい時代の波がすぐそこまで迫っていた。長く続けられてきた庚申待ちの行事も形骸化し、地域住民のレクリエーションの場と化しつつあった。その中で訪れた六十年に一度の庚申の年。一人の修験者はこれを記念して大規模な供養を行い、三尸虫消除を刻んだ石碑を建立し、庚申待本来の意味を再認識させようとしたのではなかったか。たとえそれが最後の造立になるだろうことを薄々感じていたとしても。

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