見出し画像

手のひらの図像学.3 玉楼人酔杏花天


清代の皿


中国の皿

 「花の都フィレンツェ」。イタリアトスカーナ地方の中心都市であり、メディチ家の庇護のもとルネッサンス文化が大輪の花を咲かせたまち。かつて私はイタリアへの新婚旅行の際にこのまちを訪れたことがある。その当時、大聖堂やウフィッツィ美術館へ通じるメインストリートは観光客で賑わっていたが、一本裏の通りに入ると表通りの喧騒がまるで嘘のように静かで、行き交う人もほとんど無かった。どこまでも続く褐色の街並みの中、石畳の路を踏みしめながら歩いていると、一瞬中世の世界に迷い込んでしまったのではないかという眩暈に似た感覚に襲われるのであった。そして、先の見通せない湾曲した路地をしばらく行くと急に視界が開け、小さな広場に辿り着いた。
 ヨーロッパのまちの広場には露店がつきものであるが、そこも蚤の市の会場として数軒の露店が建ち並び、店主の自慢の品々を路上に陳列していた。そして、そこに建つ一軒のアンティークショップのガラスケースの中、数多のアクセサリーに埋もれるようにしてこの皿はあった。
 「清の時代のものです」と女主人は言った(もちろんイタリア語で)。ケースの中では上にアクセサリーが乗せられていて全体像が見えなかったが、中から取り出されたのを見ると、それは直径十三センチほどの漆塗りの小皿で全面に蒔絵がほどこされていた。長い年月を経たためか、漆は所々ひび割れ、蒔絵の金は色あせて輝きを失っていたが、なぜか私の興味を惹きつける不思議な魅力があった。
 値段を聞くと二万リラ(約二千円)だと言うので、すぐに買い求めることにした。はるばるイタリアまで来て西洋アンティークを買わずに、中国の古びた皿を買って帰るというのも変な話しだと思われるかもしれない。しかし、私はせっかくの緻密な蒔絵が人目にふれること無く、ずっとアクセサリー置き場として使われているという状況を見るに忍びなかった。なんとかこの皿を苦界から救い出してやりたかったのである。ちなみに、この時妻も二万リラで卓上スタンドを買い求めたが、帰国の後日本仕様に改造して今も使い続けている。
 今から数百年前、名も無き職人の手によって作られた一枚の皿。清の都北京を旅立ち、八千キロという気の遠くなるような長い道のりを経て、ようやく辿り着いたのはフィレンツェという都。それを最初に手にしたのは異国趣味の貴族であったか、それとも毛織物の取引で財をなした商人であったか、はたまた教会のフレスコ画を依頼された画家であっただろうか。いずれにせよ、その後の長い年月の間様々な人の手に渡り、最後は街外れのアンティークショップのガラスケースを安住の地として長い眠りについていた。アクセサリーの波間に身を隠し、そのまま裏方としてひっそりと朽ち果てていく定めを受け入れていたはずであった。ところがある日、物好きな旅行者によってケースから急に取り出されると、飛行機に乗せられて今度は逆に東へ東へと向かい、あっという間に生まれ故郷の上を飛び越して極東の島国へと連れてこられることになったのである。
 もちろん、この皿の辿った数奇な運命は多分に私の想像の産物であり、現実はもっと単純でつまらないものかもしれない。しかし、そう想うだけで消えかかった金泥も、漆のひび割れのひとつひとつも、何やらいわくありげに見えてくるではないか。
 旅行中はじっくり見る暇が無かったので、日本に帰国した後皿の図柄について調べてみたが、何か物語の一場面を表しているのだろうという程度で、それ以上詳しいことは解らなかった。あれから四半世紀を経て今再びこの皿に相対すると、あの時見えなかったものが朧気ながら形となって現れてきた。

蒔絵と物語

 この皿を見て、まず目に入るのは馬上の人物と従者である。線描が消えてしまっているので細部は想像するしかないが、立ち止まった馬が胴体をねじって振り返らんとする一瞬を見事に捉えている。馬上の人物は冠を被り、従者を引き連れていることから、位の高い人物であることが推測される。今は鞍の一部しか判別できないが、おそらく元々は立派な馬具が描かれていたのではないかと思われる。柳はそこが水辺であることを示しており、また浮島や破線で表現されたさざ波も見られるので、背景の黒漆部分は湖面であることが判る。
 跪く従者の視線は馬上の主人に向けられているが、主人の視線は湖上に浮かぶ楼閣へと向けられ、それはその一室から欄干にもたれかかって外を眺めている女性の視線と相和し、二人の浅からぬ関係を暗示することとなる。上方に棚引く霞の彼方、湖上に突き出た岬の奥には寺院風の建物が遥かに望まれ、おそらくここは多くの文人墨客が訪れた景勝の地であろうことを想像させる。
 まことに驚くべきことには、人物、馬、柳、楼閣、霞、岬、寺院、近景から遠景に至るまで、これら全てが皿の底面わずか直径九センチばかりの円の中に描かれているのである。私はこの名も無き蒔絵師の力量に感嘆せざるを得ない。

 この絵柄が物語の一場面を表しているとするならば、その解明のヒントとなるのは中央上部に書かれた言葉である。

玉楼人醉
 杏花天


 かつて詩の一節だろうと推測し、中国の各時代の名詩の中にこの句を探したが見つからなかった。ところが最近になって、これは中国の小説や伝承の中ではよく登場するフレーズであることが判ってきた。

 呉伯宗(一三三四~一三八四)は明朝になってから最初に行われた科挙に首席で合格(状元)した秀才であった。彼の撰になる『栄進集』に次の絶句がある。

君王馬上索詩篇 杜甫詩中借一联
 金勒馬嘶芳草地 玉楼人醉杏花天
    『大駕春巡詩應制』呉伯宗       

 君王馬上に詩篇を索め
 杜甫詩中の一联を借りる
 金勒の馬は嘶く芳草の地
 玉楼の人は醉う杏花の天 


 明の建国者朱元璋(洪武帝)と共に春の野を巡って遊んだ時、馬上で詩作にふけっていた皇帝から、急に何か良い句はないかと促されたので、とっさに杜甫の詩から対句(一联)を借りて詠んだという意味合いである。
 「金勒馬」とは金の馬具で飾られた馬のことで、身分の高い人の乗る馬を指す。また、「芳草地」は春の若草が芳しく香る場所、「杏花天」とは杏の花が盛りの春爛漫の季節を表している。末尾の「地」と「天」が対になっているのはもちろんのこと、「芳草」の緑と「杏花」の白(又は薄紅色)が色彩的にも見事なコントラストをなしている。
 伯宗の言葉が正しいとすれば「金勒馬嘶芳草地 玉楼人醉杏花天」の対句の起源は唐代にまで遡ることとなる。しかし、杜甫の作品の中にはこの対句は見当たらない。

 唐代の詩で「杏花」が詠われていることで広く知られているのは、杜牧の「清明」という詩である。

清明時節雨紛紛 路上行人欲断魂
 借問酒家何処有 牧童遥指杏花村

 清明の時節雨紛紛
 路上の行人魂を断たんとす
 借問す酒家は何処にか有る
 牧童遥かに指す杏花村


 清明節の頃霧雨がしとしとと降り続き、道行く私の心を悲しみでしめつける。飲み屋はどこかと尋ねると、牛飼いの子どもは遥か彼方の杏の花の咲く村を指さした。という意味合いであろうか。
 清明節については後に詳説するが、この詩では四月の初め頃を意味している。すべてが朧気に霞む春の景色の中、雨に濡れながら一人歩いていると、過ぎ去りし日々の様々な思い出がよみがえり、詩人の胸を締め付けるのだろう。鬱々とした空気の中、彼方に見える杏の花が白く輝く様は一点の希望のように思われる。
 日本人にとっての桜と同様に、中国人にとって杏の花は桃とは又違った特別な意味を持っているような気がしてならない。

杏の花

妓女と皇帝

 宋の徽宗皇帝の時代を舞台に、梁山泊に集う百八人の英雄たちの活躍を描いた物語『水滸伝』。その第百一回、春たけなわの季節、玉津圃という行楽地が人波で溢れかえる様が詩で喩えられている。

上苑花開堤柳眠 遊人隊里雑嬋娟
 金勒馬嘶芳草地 玉楼人醉杏花天

 上苑花開いて堤柳眠り
 遊人の隊里に嬋娟(美女)雑わる
 金勒(金のくつわ)の馬は嘶く芳草の地
 玉楼の人は醉う杏花の天
            (駒田信二訳)


 その後の展開では、東京(開封)の役人王慶が遊びに向かった玉津圃で嬌秀という美女と出会い、互いに一目惚れをし、深い仲となって密会を重ねることになる。その意味でこの対句は男女の出会いを暗示しているとも言える。
 『水滸伝』には英雄豪傑たちの他にも幾人もの美女たちが登場する。中でも最も有名なのは李師師である。彼女は宋代に実在した妓女で、開封(北宋の首都)一の名妓として評判であった。辞書でひくと妓女には様々な意味があるが、この場合日本で言う花魁に例えられる存在と言えるかも知れない。また、徽宗皇帝の寵愛を受けていたことで知られ、宮中から師師の邸宅まで通じる抜け穴を掘って、夜な夜な通っていたという話しも伝わっている。
 物語では梁山泊は反逆者の集まりとみなされていたが、首領の宋江はその汚名を晴らし、招安(許されて官軍となること)されることを望んでいた。これに大きな役割を果たしたのが他ならぬ師師であった。
 その第七十二回、宋江が李逵や燕青らの部下を従えて元宵節の灯籠祭り見物に開封に向かう場面があるが、実は宋江は李師師とつながりを付け、そこへ通って来ると噂されていた徽宗と対面して直談判し、招安の許しを得ることを目論んでいたのであった。李逵が騒動を起こしたため計画は失敗したが、燕青の芸才と男ぶりに惹かれた師師が、後に再度徽宗との対面をとりなして無事招安にこぎつけたのである。

淡く妝い、脂粉(紅と白粉)を施さず、絹素を衣、艶服無し。
 新に浴してまさに罷む、嬌艶水を出た芙蓉の如し。


 『李師師外伝』には、師師は薄化粧で簡素な衣を纏っていても、水上に咲く芙蓉(蓮)の花のようであると表現されている。そこにあるのは、男に頼らなければ生きられない、なよなよとした薄幸の美女ではなく、義侠心があり一本芯が通った女性の凛とした美しさである。同書には宋が金に滅ぼされた後、金軍の大将に召しだされたが、従うことを潔しとせず、金の簪を喉に突き立てて死のうとしたが死ねず、遂には簪を飲み込んで自害したと記されている。また、南方に落ち延びて資産家の側室になったとも言われている。
 徽宗皇帝は政治に疎い趣味人として知られ、特にその画才は賞賛されており、我が国に伝わる「桃鳩図」は彼の自筆の傑作として国宝に指定されている。実は「金勒馬嘶芳草地 玉楼人醉杏花天」とは徽宗が李師師に送った画の画題だという話も伝わっているのである(『李師師外伝』にあり)。この画題はポピュラーなものらしく、多くの画家が作品を描いており、描き方は様々であるが、馬上の男性・従者・楼閣の女性というモチーフは共通している。これはその一例であるが、一見して冒頭の皿の蒔絵と似通っていることがわかる。
 この皿もまたその伝統的な画題を踏襲したものだとすれば、馬上の男性と楼閣の女性は、お忍びで通う徽宗皇帝とそれを待ちわびる李師師の姿であると思えてくるのである。

玉楼人酔杏花天

白蛇と青年

 明代の小説集『清平山堂話本』(洪楩著)のなかに「西湖三塔記」という物語が収録されている。

奚宣賛という青年が清明節に西湖(中国浙江省杭州市にある湖)のほとりに出かけた時、迷子の少女を助けたことから、その母と祖母と称する妖怪に取り憑かれてしまい、招かれた家に閉じ込められ、母親に関係を迫られた挙句殺されそうになる。この時は娘が逃してくれたが、翌年の清明節に再び拉致され、また娘に逃がしてもらう。その頃、宣賛の家に立ち寄った道士の叔父が異変を察知し、神将を使わして三人を捉えたところ、その正体は母は白蛇、祖母は獺、娘は鷄の妖怪であった。道士は鉄の籠に三妖怪を閉じ込めて西湖の中心に沈め、その上に三つの石塔を建ててこれを鎮めた。宣賛は叔父に弟子入りして、めでたく一生を終えた。


 以上がそのあらすじであるが、実は二度目の清明節の場面にも例の対句が挿入されているのである。

家家禁火花含火 處處蔵煙柳吐煙
 金勒馬嘶芳草地 玉楼人醉杏花天

 家々火を禁じて花は火を含み
 處々煙を蔵めて柳は煙を吐く
 金の勒せる馬は芳草の地に嘶き
 玉の楼の人は杏花の天に醉う
        (入矢義高訳)


 清明節は二十四節気のひとつで、今の暦では四月五日頃にあたる。中国ではこの日に墓参りや墓掃除をする習慣がある。また、青鞜や春游とも言い、春たけなわの季節に郊外へと出かける日でもあった。この日の前後は日本の盆休みのように連休になっており、今年の清明節の休暇には日本の観光地に中国から観光客が大挙して訪れ、怒涛のように去っていった様は記憶に新しい。「爆買い」という言葉のみがクローズアップされていたが、彼の国の人たちは、古くからの年中行事である青鞜や春游を現代的に実行しただけなのかもしれない。
 そしてこの時期には寒食と言って、火を通したものを食べてはいけないという禁忌があり、各家庭ではそれが固く守られていた。これは日本でもお盆に肉食を禁ずるのと似ている。
 この詩の前半「各家々では竈の火は禁じられていても春の花は火のように赤く咲き誇り、炊事の煙は出なくても柳の新葉は煙るがごとき風情である」という部分はまさにこの寒食の風を表している。清明節を主題にした詩と考えると、後半部分は郊外へ出かけ、春の野山を散策し、宴をひらいて春の季節を満喫する青鞜や春游の様を詠っていると解釈できよう。

 白蛇の精が美女となって青年と恋に落ちる『白蛇伝』という物語は古くから中国の民衆の間で広く愛され、小説や演劇、映画となって今日でもその人気は衰えない。登場人物や結末に違いはあるが、白蛇と青年の悲恋を主題にしている点では一致している。
 元々『白蛇伝』という完成した物語があったわけではなく、異類婚姻の民間伝承を元に様々な要素が加えられ、時代とともに変貌していったものとされている。また、前掲の「西湖三塔記」の話しが原型であるという説もある。
 以下『白蛇伝』のあらすじの一例を紹介してみよう。

昔々、峨眉山で修行していた白と青の二匹の蛇が、人間の美しい景色に憧れ、美女に変身して杭州の西湖にやってきた。彼女たちは許仙という若者と出会い、彼の助けを受けて恋に落ち、結婚する。白素貞は医学に精通し、夫婦で薬屋を開業し、地域の人々から信頼を得る。
 しかし、住職の法海は白素貞が蛇の妖精であることを見抜き、許仙を彼女から引き離そうとする。法海の策略により、素貞は雄黄酒を飲まされ、元の蛇の姿に戻ってしまう。許仙は驚き、気を失うが、素貞は彼を救うために霊芝を求めて仙山に向かう。彼女は南極仙翁から霊芝を授かり、許仙を救う。
 その後、素貞は自らの正体を隠し、許仙との関係を修復するが、法海は再び許仙を金山寺に閉じ込める。素貞はつわりと腹痛に苦しみながらも、許仙と再会し、彼の愛情を確認する。二人は共に生きることを誓うが、法海は再び素貞を雷峰塔に封じ込める。峨眉山に逃げ帰った小青は、技を磨き、法海を破って素貞を救い出した。


 ここでの白蛇は「西湖三塔記」のように退治されてしかるべき存在ではなく、心から許仙を愛し、人々にも善行を施して敬われる存在であり、むしろどこまでも二人の邪魔をする法海の方が悪人のように描かれている。清代以降この傾向が強くなってくるらしく、これは時代の趨勢を反映しているとされている。たとえ蛇と人間の許されぬ関係であっても、民衆の心は愛し合う二人の味方であった。

 清明節はこの世とあの世の境目が曖昧になる日なのだという。ゆえに、この日に異界の者と出会うという物語が多く残っているのだと・・・。
 皿の蒔絵の背景が西湖の湖水で、詩文が清明の時節を表しているのならば、見つめ合う男女の姿は、白素貞と許仙との出会いの場面を暗示しているのかもしれない。

西湖十景 蘇堤春暁

西施と蘇東坡

 西湖は上海にほど近い浙江省杭州市にある湖で、古くから多くの文人墨客が訪れる名勝の地であった。今日でも多くの観光客が訪れる中国を代表する観光地であり、二〇一一年には「杭州西湖の文化的景観」として世界遺産にも登録されている。
 周囲十五キロほどのこの湖は元々海から切り離された潟が後に淡水化したもので、水深はきわめて浅く平均一・八メートル、深いところでも二・八メートルほどである。
 周囲の山から流れ込む泥土により湖水は年々縮小し沼沢化していったので、農業用水や生活用水の安定供給、船の安全な運行、美観の維持のために度々修築が加えられてきた。その結果、三本の堤や人工の島が築造され、これらによって区切られた五つの湖が存在する今日のような景観となった。
 西湖の湖中湖岸には数多くの名勝があるが、その中からとりわけ美しいものを選び出したのが「西湖十景」である。これは南宋の時代、宮廷の絵を描いていた翰林図画院(略称画院)の絵師たちが、山水画のテーマとしていた十景が始まりだと言われている。
 その順番には諸説あるが、明の万暦年間の木版画本によると、「蘇堤春暁」「花港観魚」「柳浪聞鶯」「曲院風荷」「雷峰夕照」「平湖秋月」「三潭印月」「断橋残雪」「南屏晩鐘」「双峰挿雲」の順となっている。
 十景の第一「蘇堤春暁」は蘇堤から眺める春の夜明けの風景である。この画に出会った時、私が探していたのはまさにこれだと確信した。皿の蒔絵の原画はこの「蘇堤春暁」であり、背景の湖は西湖、馬上の貴人の行く堤は蘇堤、岬と見えたのは別の堤か島と考えて間違いなかろう。見開きの画を直径九センチの円内に収めているので、配置がかなり窮屈になっており、版画では右上に描かれているローソク状の奇岩(山?)が、皿では左上に位置を変えている。
 蘇堤は西湖にある三本の堤のひとつで全長は二・八キロ、北宋の詩人蘇東坡が杭州の知事を務めていた時、西湖の浚渫工事で集まった泥で築造したもので、それが名前の由来となっている。
 蘇東坡が西湖を詠んだ詩がある。

水光瀲灩晴方好 山色空濛雨亦奇
 欲把西湖比西子 淡粧濃抹総相宜       
       「飲湖上初晴後雨」

 水光瀲灩として晴れ方に好し
 山色空濛として雨も亦た奇なり
 西湖を把りて西子に比せんと欲れば
 淡粧濃抹総て相宜し


 日の光を浴びてきらめく湖水は晴れた時こそ美しいが、もやが立ち込めて山が霞んで見える雨の時もまた趣がある。もし西湖の美しさをいにしえの西施(西子)に喩えて言うのならば、薄化粧でも厚化粧でもどちらも実に綺麗だ。
 西施は中国古代四大美女の一人で、紀元前五世紀春秋時代の越国に生まれ、敵国である呉の王に献上されて呉が滅びるきっかけとなったという絶世の美女。日本でも芭蕉の「象潟や雨に西施が合歓の花」の句で知られているが、そもそもこの句は蘇東坡のこの詩に由来しているのだと言う。
 『奥の細道』の旅で松島に立ち寄った芭蕉は、その景色を称して「およそ洞庭西湖を恥ず」(中国の名勝地洞庭湖や西湖に勝るとも劣らない)と記している。中国古典文学の素養をもとに、かの憧れの地と現実の旅とを重ねあわせていた芭蕉であったが、なぜか旅の第一の目的地であったはずの松島では自作の句を残すことはなかった。しかし、その後もう一つの目的地である象潟を訪れた時、次の名文と共に先の句を残すのである。

 江の縱横一里ばかり、俤松嶋にかよひて、又異なり。松嶋は笑うが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。

 松島は湾で象潟は潟である。砂州によって海から切り離され、湖状になっていた象潟の方が、芭蕉の抱いていた山水画的なイメージに合致していたのではないだろうか。書物や絵画で見知ることはできても、決して訪れることはできない異国の湖。芭蕉は象潟に西湖の姿を投影し、蘇東坡に倣って西施の美しさに喩えたのだろう。
 ー寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たりーとは、胸の持病をかかえて時折切なげに眉をひそめていた西施の姿に他ならない。

 最後にもう一度皿の蒔絵を見てみると、馬の進む向きが「蘇堤春暁」の画とは逆になっていることが判る。実のところ私は蒔絵の馬の方が気に入っている。なぜなら、春の明け方の情景を表しているのだとすれば、まだ薄暗いうちに愛人のもとへ通うよりも、一夜を共にした後そこを去る方が自然だと思うからである。
 ー帰途の途中、男性が名残惜しさに立ち止まって振り返ると、楼閣の女性が欄干から身を乗り出して自分を見送っていることに気づく。二人がいつまでもそのまま見つめ合っているので、従者は主人にむかって「そろそろお帰りにならなければなりません」と促すー
 これは私の勝手な解釈であるが、夜お忍びで李師師のもとへ通った徽宗皇帝が、翌朝まだ薄暗い中を、誰にも気付かれぬうちに宮殿へ戻ろうとする場面に思えてならない。

 この皿に書かれた語句が「蘇堤春暁」ならば西湖十景を描いた十枚揃いの皿の中の一枚ということになる。しかし、書かれているのは「玉楼人醉杏花天」である。そうすると、やはりこれは、「金勒馬嘶芳草地 玉楼人醉杏花天」の画題で作られた皿で、構図は「蘇堤春暁」の画を元にしたものと考えられる。
 本来は別々なはずの詩句と蒔絵。ただこの二つが交じり合うことで、見る者にイメージの翼を大きく広げさせ、果てしない物語の世界へと誘うのである。

いいなと思ったら応援しよう!