手のひらの図像学.8 熊野神社の絵馬
湯沢市荒町熊野神社の絵馬

湯沢市荒町の熊野神社の熊の絵馬。右に「明治二十年(一八八七)丁亥茅九月」、左に「近松永和欽白」とある。
近松永和とは文政四年(一八二一)生まれの狩野派の画家で本名・遠藤昌益。号・雪翁。字・立敬。別号・得宣園。代々佐竹南家のお茶坊主でお抱え絵師的存在であったが、万延元年(一八六〇)の筆禍事件で吟味中に江戸に逃亡、改名した後矢島藩に召し抱えられる。明治二十二年(一八八九)北海道にて六十九歳で亡くなったと伝えられている。

実はこの筆禍事件とは、幕末の佐竹南家のお家騒動に関わるものであった。万延元年(一八六〇)の浄土寺弁天祭礼の時、門前に掲げられた額灯籠に、北条家四天王玉門祭の図として「礎ハおんなてすゑる娑婆の二字」の戯れ歌と共に、一人の女性の絵姿を神仏のように崇める四人の武士の姿が描かれており、それが荒巻十蔵の妻糸を崇め奉る原田・荒巻一派の姿ではないかとされ、作者である遠藤昌益がお咎めを受けることになるが、取調べ中に江戸に逃亡し、後に改名して矢島藩に仕えることとなる。
判じもの好きな町人たちは、北条家がその逆の方位の南家を意味し、四天王が現在佐竹南家で権力を握っている二人の家老原田織衛と荒巻十蔵、その一派の井上九右衛門と御代直衛の四人を指していること、玉門(祭)とは女性器の隠喩であることに気づいていた。そして、戯れ歌は佐竹南家の屋台骨を揺るがせたお家騒動が荒巻十蔵の妻糸の働きによって収まったこと、画題は糸を崇める原田・荒巻一派の姿であることを読み解いていた。
糸は岩崎の石川甚右衛門の長女で、弘化四年(一八四七)佐竹南家十四代の長女静姫誕生の際、養育係に採用される。義孟の信頼厚く、その計らいで荒巻十郎の後妻となった。
安政二年(一八五六)に義孟が死去すると、嫡男三郎幼少のため、義孟の弟早川輔四郎、佐五郎が補佐役になったが、この頃から重臣の派閥間の対立が激化し、佐竹南家のお家騒動と呼ばれる事態を引き起こすこととなった。
嘉永二年(一八四九)に不評のため家老職を退任させられていた山方市之進は、早川輔四郎・佐五郎兄弟を取込み、対立していた原田・荒巻一派を追放し、復職に成功する。これに対して、荒巻十蔵は院内の大山若狭へ訴えるが、訴状は久保田へ転送されるものの、既に手が回っていたため公になることはなく、湯沢に戻ってきてしまった。
この窮状を救ったのが十蔵の妻糸で、手に入れた訴状を久保田の城の目安箱へと投函したことで再吟味への道が開かれ、今度は山方・須藤一派が追放され、原田・荒巻一派は復職することになるのである。彼らにとって糸はまさに救いの神であった。
おそらく、この風刺画を描いた遠藤昌益は反原田・荒巻の立場であったと思われる。だが、元治元年(一八六四)には依頼を受けて院内銀山の風景や鉱山内部の様子を描いているので、その時は既に許されていたらしい。
勝手な想像であるが、自分は昌益は江戸ではなく上方に逃亡したのではないかと思っている。江戸時代の絵師の名前は洒落で付けられる場合がある。「写楽」は「しゃらくせい」から、「応為」は「おーい」と呼ぶ声からなどが知られているが、「永和」も「こりゃえーわ」から付けられたのではないかと。


熊を描いた絵馬は珍しいが、これは画題も変わっている。熊は冬眠する前に手(前足)にたっぷりと蜂蜜を付け、冬眠の途中で目を覚ました時にこれを舐めるのだという。中華料理で熊の手が美味とされるのは蜂蜜を付けるという習性に由来しているらしい。この絵はまさにその状況を描いており、穴の中で背中を丸めて手を舐めている様はどこかユーモラスで人間的に思える。
前述した事情により、遠藤昌益の作品は矢島には多く残り、湯沢には少ないと言われているが、もしかすると、この絵馬のようにまだ知られざる作品が眠っているのかもしれない。
横手市平鹿町上吉田熊野神社の狛熊




秋田の新聞には熊の目撃情報のコーナーがある。近年は人里にも平気で出没するようになってきたためか、ほぼ毎日のように県内のどこかで熊が目撃されている。
自分もできることならお会いしたくはなかったのだが、ついに遭遇してしまった。しかも一度に二頭。一頭は口を開け、もう一頭は口を閉じて不敵な笑みを浮かべていた。そして胸元には三日月形の印。月の輪熊に間違いなかった…石像だけれど。
今回は動かない熊で助かった。狛犬ならぬ狛熊、阿吽の一対。神社の社名を確かめると、お察しの通り「熊野神社」であった。横手市平鹿町上吉田にある。絵馬も石像も三本足のカラスではなく、熊野神社だから熊という単純な発想が好きだ。
