手のひらの図像学.14 神代文字のおふだ.3
湯沢市上院内 常覚院

行海寺の跡は国道13号線から国道108号線を院内銀山方面へ曲がってすぐの小高い場所にある。現在は更地となっているがわずかに残る石碑や石像に、かつての姿を偲ぶことができる。その由来を記した石碑には次のように記されている。
天照山月鏡寺由来(鈴木家古文書より)
往古上院内が八軒当時、村内に大神宮建立するに当り別当職として、修験一家寺を建てたく羽黒山若王寺へ相応の修験僧の派遣を申出た処、請教と申す者着任させるべく回答あり、有難く受託した。大同三年(八〇六年)四月六日当山開山し天照山月鏡寺と号す。二代目請山引継ぎ以来廿一代請入迄続いたが、世継ぎなく又夫婦共病死し無住職となる。弘治三年(一五五七年)九月廿六日寺建立され、享保年中(一七二五年)一世の行人甚消坊浄海住職となり、殊外繁昌し寺をも建立したが、宝暦五年(一七五五年)九月廿八日、当寺山腹において即身仏として遷化し、現在鬚坊様として祀らる。文政二年(一八一九年)十月、矢島郷笹子より常覚院宥観、住職として来り。大本山羽黒山若王寺永代修験を願上げ、子孫代々継承することになれり。明治元年(一八六八年)戊辰の役の折、七月六日より大山若狭守御本陣として近郷侍三百土人の陣宿せり。明治七年十二月四日当寺にて雄嶽小学校分離開校せり
天明八年(一七八八)の序文を持つ俳文集『仙北旧跡記』には「行海寺」として紹介され「往年行海といふ木食の聖り有て、爰に一宇を開基して、湯殿山上の影をうつし、金胎両部の大日の霊場とすなり」とある。先の碑文と合わせ見ると、月鏡寺は初め羽黒山系寺院として建立され途中湯殿山系へと移り、この時期浄海(行海)が即身仏となって信仰を集め行海寺と呼ばれていたが、後にまた羽黒山系へと戻ったと考えられる。また『雄勝町史』には「行人常海寺 行海とも云い湯沢湯仙寺末、古城西北の小山にあり五郎館といふ」とある。
鈴木伸司氏が会誌『院内銀山』第46号(院内銀山史跡保存顕彰会)に寄稿された文によると、浄海が土中入定されるとそれまで近在に多かった流行り病がぴたりと止まったという。後に掘り出されて即身仏として祀られることはなかったが、何年か後に疫病が流行した時、村人が代わりに浄海の木像を寺に納めると、それ以降は疫病に苦しめられることはほぼなくなったが、もし流行り病がある時にはこの像に荒縄をかけるという信仰がずっと伝えられているという。

同誌によると、昭和四十八年に開始された国道108号線のバイパス工事の際、浄海の入定地が用地となったため、事前に掘り起こしが行われたが、それらしい形跡は発見できなかった。だが、工事が進むと入定地とされていた場所から十メートルほど離れた所に、約一メートル四方、深さ約二メートルの穴の痕跡が発見され、木材による壁面の加工痕と棒状の金属片が見つかったとされている。入定場所としては少し窮屈に思われるが、逆にこの小ささこそが土中入定の真実を伝えているように思えてならない。
上院内の鈴木伸司さんのお宅を訪問し、貴重な資料を見せていただいたことがある。その時の聞き取りによると、鈴木さんの家は元々常覚院という羽黒山系の修験寺院で、それ以前は行海寺、さらに昔は月鏡寺と呼ばれていた時代もあった。ここには浄海(行海)上人の土中入定譚が伝わっており、その木像もあるということを訪問前に聞いていた。
実際に行ってみると、祭壇には浄海上人の木像の他もう一体の木像があった。それは「こうづけ様」と呼ばれる像で、元々の名前は「子授け様」であったものが、だんだん「こうづけ様」と呼ばれるようになったらしい。かつてはその像を背負って町内を巡り、像に触れると子宝に恵まれるという信仰があったとのこと。

今回拝観した浄海上人像は縄を巻かれたままであった。これには雨乞いの時に地蔵尊像を荒縄で縛ったり、引きずり回したりする例があるように、尊像を手荒く扱って神仏を怒らせることによって願いをかなえてもらおうとする民間信仰に通じるものを感じる。また、集落の信仰を集める神仏の小像が厨子に入れられ、背負われて各家庭を/巡って歩くという行事が各地に見られる。この場合像に直接触れながら祈ることが重要であるが、こうずけ様もその例に加えて良さそうである。
常覚院には子授けや安産のご祈祷で訪れる人も多かったのだろう。この版木もそれを物語るもので、そのいきさつはわからないが、子授けや安産のご利益で有名な旧協和町の唐松神社の安産札もここで発行していたようだ。そして、その版木の裏面には神代文字の一種、阿比留草文字で「とほかみえみため」と彫られていた。


神社本庁のホームページによると、古くは占いに関連して用いられ、その後、神様を拝むときに用いられるようにもなった言葉らしく、「遠神能看可給」(遠つ御祖の神、御照覧ましませ)、あるいは「遠神笑美給」(遠つ御祖の神、笑み給え)と解釈され、「神様の御心があきらかになりますように」という意味であったのではないかとされている。
この読めないお札は「唐松大權現安産札」とセットで授けられ、安産札の神威を高めていたに違いない。
