20年来の友情も手を離せば消えるのか
「会いたいね」の熱量
会いたいと言われることは、当たり前なのだろうか。
最近、旧友との友情が復活することが増えてきた。
でもそれは、何もしていないのに自然に戻ってきたわけではない。
毎年、年賀状と誕生日のLINEを続けていたから。
たまたま習い事の場で再会して、そのあとLINEをしたから。
結局、つながりは、何もしなくても続くものではないのだと思う。
「会いたいね」
この一言の中に、本当に会いたい熱量はあるのだろうか。
もし本当にあるなら、実際に会えるかどうかは別としても、やりとりの中に何かしらの具体性や、相手への関心が見えるはずだと思う。
私はたぶん、
「会いたいね」という言葉そのものが欲しいわけではない。
その言葉の奥にある
「あなたに関心があるよ」
という気持ちがほしいのだ。
それが見えなければ、「会いたいね」は何の意味も持たない。
私は会いたい。
だけどまた自分から誘って、
会うか会わないかの判断は相手に委ねられる。
その構図が、さみしい。
インスタグラムを見ると、自分の趣味のためには土日に出かけている様子が見える。
それを見るたびに、少しだけさみしくなる。
忙しくて会えないのではなくて、出かける元気も時間もあるのだ。
ただ、その先に私はいないのだと思ってしまう。
そして最近は、連絡すること自体が少しずつしづらくなってきた。
こうやって私が手を離していく先に、二十年来の友情でさえ、少しずつ消えていってしまうのではないかと思う。
相手からの誘いで会うことになるグループがある。
私はいつも誘われる側ではなく、動く側だ。
もし私が手を離したら、その関係は終わってしまうのだろうか。
一年会わなければ、
この先五年、十年と、もっと会わなくなっていくのではないだろうか。
友情は、自然に続くものなのか。
それとも、つなぎ続ける人がいて、はじめて続くものなのか。
最近、そんなことを考える。
