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姫路は城だけ?

いえ、和牛もホルモンも高級和菓子も姫路から

播州(播磨国)の技術・文化史

1. 醤油・塩・小麦が織りなす「醸造と食」の技術

播州は、醤油(たつの)、塩(伊保塩田、大塩塩田、白浜塩田、赤穂塩田)、小麦(播州平野)という、日本人の食の根幹を支える三要素が揃った稀有な地域です。

  • 淡口醤油の確立: 天正年間のヒガシマル醤油創業から江戸初期にかけて、素材を活かす「淡口」技術が完成しました。

  • 製塩技術の系譜: 奈良時代の行基による大塩塩田から、江戸初期の赤穂における大規模な入浜式塩田へと、千年以上かけて進化を遂げました。

  • 素麺(揖保乃糸): 室町時代からの伝統が、明治期のブランド化(1894年)を経て世界的な知名度を得るに至りました。播州素麺から揖保乃糸

2. 皮革・鍛冶・工芸:武具から日用品への転換

「姫路皮」や「三木金物」に見られるように、軍事技術が平和な時代の地場産業へと見事にスライドしています。

  • 皮革(姫路皮): 1,000年以上の歴史を持ち、かつては特定の身分の方々が担った伝統技術が、現代の高品質な皮革製品へと昇華されています。

  • 明珍火箸: 明珍家の甲冑師の技術が、明治以降は火箸や風鈴といった「音の芸術」へと転換された象徴的な事例です。三鍬形前立浅葱糸威 二方白筋兜(さんくわがたまえだてあさぎいとおどし にほうじろすじかぶと)が現存する。

  • 松右衛門帆: 江戸後期の工楽松右衛門による発明は、当時の海運に「厚手で丈夫な帆」という革命をもたらしました。

3. 「牛」と「内臓」の食文化:神戸ビーフの源流

播州は単なる消費地ではなく、和牛の産地・処理・流通の拠点として、日本の牛肉文化を影で支えてきました。

  • ホルモン文化の先駆け: 明治時代から高木処理場周辺を中心に、鮮度が命の内臓肉を食べる習慣がありました。これが現代の豊かな精肉・ホルモン料理の土壌となっています。

  • 神戸ビーフの基盤: 三田だけでなく姫路・加古川が和牛産地として機能し、その質の高さが後に「神戸ビーフ」という世界的ブランドを成立させる前提条件となりました。

4. 播州独自の「味変」と「SDGs」の精神

「関東煮(かんとだき)」から派生した食習慣には、播州人の合理的かつ豊かな知恵が見て取れます。

  • 生姜醤油の魔法: 魚の臭み消しとして使われていた生姜と醤油の習慣が、戦後の食糧難や「大人・子供の味分け」のために「姫路おでん」のスタイルへと定着しました。

  • にくてん(肉天): おでんの大鍋の底に残った具材(牛筋・ジャガイモ等)を再利用するスタイルは、まさに現代で言うSDGs(持続可能性)を先取りしたファストフード文化です。

5. 城下町が育んだ和菓子と駄菓子

姫路藩の財政立て直しと、藩主・酒井家の文化的な背景が、多様な菓子文化を生みました。

  • 高級和菓子(玉椿): 将軍家との婚礼という歴史的イベントと、名家老・河合寸翁のプロデュースによって誕生。

  • 播州駄菓子: 船場(博労町)周辺に職人が集まり、地元の小麦・塩・油を贅沢に使った「油菓子」の文化が花開きました。

夢に終わった姫路運河
三左衛門堀(さんざえもんぼり)は、姫路城を築城した初代姫路藩主・池田輝政(通称:三左衛門)によって計画された、壮大な未完成の運河計画です。
姫路城下(外堀)と瀬戸内海の飾磨津(しかまつ・現姫路港)4km、を結び、物流の利便性を高め、さらには城の防御機能(外堀)を担う目的で計画されました。 
計画の約半分、約2kmの工事が終了した段階でストップし、そこから先は野田川(現在ののたがわ)として飾磨の海へ流れている。
姫路市役所は駅南大路と三左衛門堀の間に建っています。
姫路城が建つ姫山周辺の平地の標高は、海抜約11〜15メートルほどあります。飾磨の海抜は1~4メートルほどですから水位差が10メートルです。
勾配(パーミル/‰): 2.5‰(1,000メートル進むごとに2.5メートル傾斜)

姫路城の2階建ての立派な城門

1871年(明治4年)〜1873年(明治6年)

  • 廃藩置県と廃城令により、姫路城は国の(陸軍省の)管理下に置かれました。

  • 城内が陸軍の施設(歩兵第10連隊など)として利用されることになります。

  • 1874年(明治7年)※決定的な時期

    • 軍用の兵舎を建てたり、大砲や軍隊の移動の障害になるという理由から、外堀沿いの立派な城門群(飾磨津門、北条門、外京口門、竹ノ門、備前門、野里門など)や三の丸の城門が一斉に撤去されました。

    • 現在、三の丸の入り口にある大きな「大手門」は、当時の門ではなく1937年(昭和12年)に新たに建てられた昭和生まれの門です。

  • 1914年(大正3年)

    • 門の建物自体がなくなった後も一部に残っていた石垣の区画(枡形)について、兵庫県知事から陸軍へ「旧清水門などの枡形取除き」が申請され、近代の街路整備のために完全に撤去されました。

残しておいてほしかったが、残っていても姫路大空襲で焼けたでしょうね。

出典:姫路市

この鳥観図は内堀の中です。
姫路城下には中堀(現在の国道2号線)、外堀(姫路駅北)と三重の堀が張り巡らされていました。城壁で囲まれ立派な城門が沢山ありました。

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