人は自分自身で「自分が自分であること」を肯定できる
今日、映画『福田村事件』を観ました。
プロデューサー・脚本の井上淳一さんの舞台挨拶付きの上映で、映画も井上さんの言葉も心に残るものでした。
感想を書こうとは思っていなかったのですが、井上さんの言葉に勇気をもらったので書きたいと思います。
*
1923年9月1日11時58分、関東大震災が発生した。
そのわずか5日後の9月6日のこと。
千葉県東葛飾郡福田村に住む自警団を含む100人以上の村人たちにより、利根川沿いで香川から訪れた薬売りの行商団15人の内、幼児や妊婦を含む9人が殺された。
行商団は、讃岐弁を話していたことで朝鮮人と疑われ殺害されたのだ。
逮捕されたのは自警団員8人。
逮捕者は実刑になったものの、大正天皇の死去に関連する恩赦ですぐに釈放された…。
福田村事件のこと、この映画で初めて知りました。
「どうしてこんな事件が起こったのだろう?」
映画を観た人がそれぞれに感じる・考えるところがあると思います。
この問いに対する明確な答えがあるわけでもなく、一つの出来事だけに起因すると言えるものでもないと思います。
僕が思ったこと。
それは、「自分が自分であることを自分以外に依存している、依存せざるを得なかった」、そんな人の心理や、歴史・文化の背景を感じました。
1894年8月 日清戦争勃発
1904年2月 日露戦争勃発
1918年8月 シベリア出兵が始まる
1910年8月 韓国併合
1922年3月 水平社宣言が発表される
ー被差別部落の人々が差別からの解放を目指して創立した「全国水平社」の創立大会で読み上げられたもの。
1923年9月1日 関東大震災
1923年9月6日 福田村事件が起こる
戦争、シベリア出兵、韓国併合、部落差別、大震災。
非常事態の中で、人は「自分が自分であると信じられる、そう縋ることができるもの」を求めたくなるものかもしれません。
「自分が自分であること」
それは、日常時であっても難しいことかもしれませんが、有事となればなおさらです。
「自分が自分であること」
それは、誰かに認められること、世間の役に立つことで証明されるのではないのだと思います。
確かに、誰かに認められることや役に立てるのはうれしいことです。
でも、そうやって証明される自分は本質的ではないはずです。
誰に認めてもらう、証明してもらうわけでもなく、人は自分自身で「自分が自分であること」を肯定できる存在なのです。
映画の公式サイトには、
100年の間、歴史の闇に葬られていた『福田村事件』だ。
という言葉もあります。
この事件は、日本の黒歴史なのかもしれません。
でも、それをなかったことにするのは違うと思います。
なぜなら、このようなことを繰り返してはいけないからです。
コロナ禍でのパンデミックや天災など、有事は起こるものです。
そのとき、不安や恐怖を抱え、パニックになり、「自分が自分であることを自分以外に依存してしまう」かもしれない。
「自分が自分であることを自分以外に依存してしまう」
そこに善悪をつけるよりも重要なのは、誰しもがそうである可能性があるということです。
福田村事件で殺人をした人。
自分と彼らの間に線を引くことができるでしょうか。
僕は、自分と彼らと地続きであると思います。
だから、僕は「自分自身で自分が自分であることを肯定し、そこから生まれる安心感」を自分の中に育んでいたいと思うのです。
どんなことがあろうと、このような歴史を繰り返さないために。

パンフレットにサインをいただきました。
なんと、このパンフレットには脚本が全て載っています。
脚本や映画にたずさわった人の対談、文章を読むと、また違う思いが浮かんでくるかもしれません。
でも、映画を観終わった今日、今のこの気持ちを書いておきたいと思いました。
映画『福田村事件』
気になっている、見たい、見たよ、という方がいたら是非コメントしてください。
「人は誰かが助けるものではなく、自ら助かるもの」
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