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剥落する理性〜極限状態における“知性”と“道徳”の脆さ

 我々が日頃、自明のものとして携えている『知性』や『道徳』は、決して揺るぎない個人の資質ではない。
 それは安定した社会インフラと安全という土壌の上に、かろうじて咲いている“徒花(あだばな)”のようなものではないか。

 ひとたび大震災という未曾有の災厄が降りかかれば、その薄い皮膜は音を立てて剥がれ落ち、理性の堤防は容易に“決壊”する。極限状態において、人間の精神は“劇的な変容を強いられる”のである。

 巨大な恐怖に直面したとき、論理的判断を司る脳の機能は後退し、生存本能を司る領域が主導権を握る『認知の狭窄』が起こる。
 さらに通信が途絶し情報の飢餓状態に陥ると、人は目の前の不安を埋めてくれる荒唐無稽な流言であっても、それを『真実』として渇望するようになる。
 この知性と道徳の消失が招いた最悪の結末が、大正12年の関東大震災における惨劇だ。『朝鮮人が井戸に毒を入れた』というデマに踊らされ、昨日までの『善良な市民』が自警団の名のもとに凄惨な暴挙に手を染めた事実は、道徳という“制動装置”の脆さを冷厳に物語っている。

 この悲劇を単なる過去の遺物として片付けることはできない。
 現代の我々は、情報の増幅器であるSNSを手にしている。デマの拡散速度は百年前の比ではなく、エコーチェンバー現象は個人の批判的思考を容易に奪い去る。
 特に危惧すべきは、知性を欠いた『正義感』の暴走だ。自らの道徳を疑わぬ集団が、ひとたび特定の対象を『悪』と見なせば、それは現代版の『狩り』へと発展しかねない危うさを孕んでいる。

 知性と道徳は、一度身につければ失われることのない『所有物』ではなく、危機の瞬間にこそ意識的に繋ぎ止めておかなければならない『動的な能力』である。
 自分もまた、“一歩間違えれば理性を失った群衆の一員になり得る”という自覚を持つこと。その謙虚な内省こそが、混乱の渦中で我々が『人間』であり続けるための、最後にして唯一の“防波堤”となるはずだ。

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