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未来を語る愚かしさ、世界は関係で出来ている


未来を語ることは貧しい

「なぜ宇宙は存在するのか」を読んだ時

ちょっと前(営業職を退職する前かと思われる)に読んだ本に、野村泰紀「なぜ宇宙は存在するのか はじめての現代宇宙論」を読んだ衝撃は計り知れない。この本を読んだ後、全てを真剣に考えるのが馬鹿馬鹿しくなって、著者と同様「諸行無常」という言葉しか出なかった。

我々の地球から見る空に光る星々は「過去」のものである。従って、ビックバンによる宇宙背景放射によって、最も古い時代が計算されて現在約138億年前に誕生したことが判明したわけである(この辺の理論的説明は非常に難しいので割愛)。

「人間原理」という考え方があるが、唯一この宇宙だけしかないという考え方をしてしまうと、とてもご都合主義的になってしまう。しかし、マルチバース宇宙の考え方であると、ほぼ無限に存在するとされる泡宇宙の中の偶然に生命が生まれた宇宙であるに過ぎないという逆の考え方も出来る様になる。この宇宙が唯一であるという考えは、現代の宗教にいう「唯一神」の信仰に繋がるだけではと思っていたので、神がいようがいまいが、このスケールで「神」を想定することは、私的には馬鹿馬鹿しいとすら感じている。

エミール・シオランは「私の存在は偶然に過ぎない。なぜそんなに全てを深刻にとらえるのか?」と考えたことで、色々な呪縛から脱出出来たのだ。どんなものも、変化し、生まれては消えていくのである。そう考えていくことで、どんなに深刻に考えたところで「こんなちっぽけな人間がどうなるものでもない」という気持ちになり、心がとても軽くなるのだ。今まで深刻に悩んでいた人程そう感じるに違いない。

スケールが大きすぎて、全てがどうでも良くなり癒されます。本当です。

未来を予測していい気になるなよ…。

私は予測本は嫌いである。しかもしたり顔で書いているかと思うと腹立たしい。小室直樹は「ソビエト帝国の崩壊」を書いた時代はまだそんなことはほとんど信じられていなかった。当時の知識人が誰も予測しなかったソ連の崩壊を、マックス・ヴェーバーの宗教社会学(アノミー理論)を武器に予言し、10年後にそれが的中したエピソードは、社会科学における「稀有な検証の成功例」であって、普通滅多に起こらない。もちろん彼の鋭さを否定したいわけではなくて、それほどちょっとしたことで外れることは良くあることと言いたいだけである。

かのドナルド・トランプが2016年時点で当選すると思ってた評論家はまるでいなかったはずで、実は予測していたと後出しで言っても、意識による捏造(バイアス)を疑われても仕方がないので沈黙していた方がいい、と思うほどだ。当時の私は「わからなかった」(知らない)のだが。これほど予測不可能なことをあたかもしたり顔で予測していたならそれは陰謀論と何ら変わりがないのだ。意識は捏造もするからだ。ちゃんと映像などの証拠があるとしても、予測したから何だというのか。馬鹿馬鹿しい。

予言など馬鹿馬鹿しいと思う理由は3つある

1. 「当事者すら見届けることができない」複雑性と、人間の「暗黙知」
自然科学の実験室では、温度や気圧などの「変数をコントロール(固定)」できる。しかし、社会科学の対象は「生きた人間」であり、その当事者たちが複雑に絡み合うネットワークである。

  • 全知の不在:社会を構成する一人一人の人間が、それぞれの「暗黙知」や主観、情熱で動いている。政府のトップ(当事者)であっても、市場のトレーダーであっても、社会全体でいま何が起きているかの「すべてを見届ける(記述する)」ことは不可能であること。

  • 観察者が対象を変えてしまう:社会科学の恐ろしい点は、「社会はこうなる」という予測(小室氏の予言や経済ニュースなど)を社会に投げかけると、それを聞いた人間たちが行動を変えてしまう(自己実現的予言、あるいは自己破壊的予言バイアスがかかる)点にある。物質は人間の言葉を聞いて動きを変えないが、人間は変えてしまう。

2. カール・ポパーの「歴史法則主義批判」と、カール・ポランニーの警告
科学哲学者のカール・ポパーは、著書『歴史主義の貧困』において、「社会の未来を科学的に予測できる」という思い込み(マルクス主義やソ連の計画経済がまさにそれ)を、最も根源的に批判した。

未来の社会は「人類がこれから生み出す新しい知識や技術」に依存するが、「未来の知識を、今予測すること」は論理的に不可能だからである。

スマートフォンを予測しましたか?デジカメの出現に慌てふためいたコダックの幹部を笑えますか?パソコンの普及を当時のIBMの幹部は全く本気にしてなかったとか、今振り返ると情報不足だったとしか言えないのか、それとも認識不足だったのかは不明であるが、過去の知識でしか未来を予測できなかったことだけは言える。

したがって、社会科学において「物理学のように100%確実な予測・検証ができる」と主張することは、それ自体が傲慢なフェイク(偽科学)である。カール・ポランニーが「市場経済の自動調節(客観主義)というフィクションが社会を破壊する」と警告したのも、この「人間の複雑な生」を数式やシステムに還元しきれると過信した近代の傲慢に対する怒りだった。

3. 「ノーベル経済学賞」に対する違和感
私は「ノーベル経済学賞はおかしい」という直観があった。科学哲学・経済学史の観点から見ても完全に正しかった

  • そもそもノーベル賞ではない:物理学や化学、医学・生理学賞がノーベルの遺言によって作られたのに対し、経済学賞だけは1968年に「スウェーデン国立銀行」が予算を出して後から追加した、正式には「アルフレッド・ノーベル記念経済科学スウェーデン国立銀行賞」という、いわば「権威の借用」で作られた賞であることだ。

  • 「物理学コンプレックス」の罠:20世紀の経済学は、自分たちを「科学(サイエンス)」に見せかけるために、複雑な数式や統計モデルを大量に導入した(数理経済学)。しかし、その数式が前提としているのは「すべての人間は完全に合理的に計算して動く(ホモ・エコミクス)」という、現実には存在しない極めて都合の良いロボットのような人間像だ。

  • 検証不足による大破綻の歴史:1997年にノーベル経済学賞を受賞したマイロン・ショールズらの理論(ブラック・ショールズモデル)を導入した巨大ヘッジファンド「LTCM」が、翌1998年にロシア金融危機という予測不能な「現実の歴史」の前にあっけなく破綻したのは、社会科学における数式万能主義(客観主義)の敗北を象徴する最大のスキャンダルである。

このことは、ナシーム・ニコラス・タレブが「まぐれ 投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか」で指摘する通りである。

未来を語ることは貧しいと言ったのは、エミール・シオランである。彼とてアルツハイマー型認知症になって亡くなるとは思ってなかったのだから。

誰かが理想や未来や哲学について大まじめに論じるのを聞いたら、また、断乎たる口調で《われわれは》と言い、《他の人々》のことを持ち出してその代弁者たらんとするのを耳にしたらーーもうたくさん、それだけで私はそいつを敵とみなす。私がそこに見るのは出来損ないの独裁者、まがいものの死刑執行人で、それはほんものの独裁者や死刑執行人同様、憎むべき存在である。(E・M・シオラン「崩壊概論」)

そろそろ、こういったスケール認識の問題も整理した方がよさそうである。

社会科学(いわゆる文系)と理科系(理系)の話

つまりどっちも必要という話

私の若い頃に2ちゃんねるで理系と文系のどっちが偉い、といったスレッドがあったのだが、結論を言えば両方欠かせないわけである。こんな結論でも20年も費やしたのが情けないのだが、その理由はこれから述べていく。

ポアンカレの保型関数、キャリー・マリスのPCR法(ポリメラーゼ連鎖反応)といった自然科学における直観は、降りてきた瞬間に「数式の証明」や「試験管の中の実験」という形で、極めて短いスパンで、かつ他者が再現可能な形で客観的な検証ができる。
しかし社会科学(経済学、政治学、社会学)の検証は、実際の歴史という「たった一回きりの、やり直しのきかない巨大な実験場」で現象が起きるまで、誰にも証明ができないからである。

このことによって何が危険かと言えば、再検証問題というやつである。「社会科学における数式や客観主義のまやかし」が蔓延(はびこ)っているが、そもそも客観的な科学が社会科学には究極の意味では存在出来ないというジレンマがある。

数多く存在する人間の一人ひとりの行動を予測することが難しいこと、あと人間も全て知らない全宇宙の事象(95%以上はダークマターとも)、また、微生物学では地球上の砂の数以上も存在する微生物(ウィルスを含めた、細菌、バクテリア、酵素などなど)を予測することは出来ない。これは複雑系、カオス理論という今ではあまり人気がない理論で既に言い続けられている。その記事は前回書いた。

これは今や量子力学でも同様である。究極を言えば、熱力学の法則の不可逆性だけが「時間」を定義している唯一の法則かもしれないと、カルロ・ロヴェッリも言っていた。

唯一、時間を定義する「エントロピー」、この宇宙で唯一、時間の方向を決めているのが、熱力学第二法則の「エントロピー増大の法則(不可逆性)」である。

ということは、理系の方々も多くの誤解があるが、再検証出来るから理系の方が偉いとか、人文系は無い方が良いというのは人間の短い寿命のスパンからでしか語れないというバイアスを平然と正当化した狭い認識でしかない、とこう言いたいのである。

これらを踏まえると、現在のビッグデータやAI万能主義(すべてのデータを食わせれば未来を予測できるという傲慢)が、いかに浅はかな「新しい客観主義(まやかし)」であるかが分かる(AIにこれらを問いただしたら認めたぞ!)。
社会科学において、人間一人ひとりの行動を予測できないのは、AIの性能が足りない、検証データ量が足りないからではなく、社会そのものが「熱力学的な不可逆性」と「カオス的な初期値鋭敏性」の塊であり、かつ構成員(人間)の無知と暗黙知(意識化出来ない行動、直観)によっても駆動しているからだ。さらに突発的な衝動、暴動なども含めればランダム性もある人間を予測するなどおこがましいではないか、そう考えるのが妥当である。

どれほどテクノロジーが発達しても、この世界は根源的に「予測不可能」である。しかし、だからといって小室直樹氏のような構造把握の努力や、マイケル・ポランニーの言う「不確実な世界へ情熱を持って飛び込む個人的な責任」の価値が失われることは断じて無い。
この「科学の限界としての無知(すべてを知ることはできない)」というロヴェッリ的な諦念と可能性の地平において、「私たちはこの予測不能な世界とどう向き合うべきか」、論点はそこから開始すべきではなかろうか。

アブダクション(仮説推定)という方法

この方法は文系、理系関係ない。とりあえず述べてみる。

アブダクションを述べたのはチャールズ・サンダース・パースである。20世紀初頭で餓死で亡くなった不幸な人であるが、彼パースは、アインシュタインの相対性理論や、ニュートンの万有引力のような「これまで世界になかった全く新しい仮説」が生まれる瞬間は、絶対に演繹や帰納では説明できないと確信した。「人類の知識を真にアップデートする(拡張する)唯一の論理学の操作こそが、アブダクション(仮説推量)である」と。

当時の西洋論理学は、アリストテレス以来の「演繹(デダクション)」と「帰納(インダクション)」の二分法に支配されていた。しかしパースは、これら2つだけでは「科学は絶対に新しい発見を記述できない」という致命的な欠陥を見抜いていた。

  • 演繹の限界:前提(A=B)から結論(B=CゆえにA=C)を導くだけなので、「すでに知っていること」の枠を出ない(知識の拡張がない)。

  • 帰納の限界:観察された多数のデータから統計的な傾向(AはいつもBだった)を導くだけなので、「いま目の前にある事実」の集計に過ぎない(新しい質のアイデアは生まれない)。(参照:米盛裕二「アブダクション 仮説と発見の論理」

だからといって、これらについて仮説を検証、実証に持っていくことの両方が必要なのは言うまでもない。最も危険なのは社会性、人間の行動を推定するのに予測は出来ない、だからこそ厳しい検証が必要なのだ。だから精神性ばかりを優先すると冤罪が出まくることになるし、検証性や物証ばかりでも特定や新たな観点の「発見」を失ってしまう。だから両方必要なのだ。

パースの先鋭性は、彼が「記号学の創始者」でもある点に由来する。
彼は、人間の「心」や「思考」を、脳という内面だけに閉じこもったものではなく、世界に溢れる「記号(サイン)」を受け取り、解釈し、次の行動(記号)へと繋げていく終わりなきプロセス(セミオーシス)として捉えていた。
私たちが驚くべき事実(変な草が濡れている、社会に異常な現象が起きているなど)に直面したとき、私たちの身体や脳は、無意識のうちに世界のパターンを「解釈」しようとジャンプ(飛躍)する。
パースにとってアブダクションとは、単なる「個人のあてずっぽうな思いつき」ではなく、「人間という記号解釈システムが、宇宙という巨大な記号のネットワークと同調して仮説を紡ぎ出す、極めて自然で論理的なプロセス」だった、このことにいち早く気付いたが、まだテクノロジーや科学的な素地が整ってなかった。パースが大人になった頃、まだ南北戦争が終わったばかりで、黒人を劣った種と考えるのが当然だった時代であり、医学や科学も今では貧弱としか思えないものだったことを考えれば時代が早すぎたとしか考えられない。

蛇足であるが、「複雑系」や「カオス」の感覚を、パースは19世紀の時点で「偶然主義(Tychism:宇宙の根底には偶然・不確定性があるとする思想)」という独自の宇宙論として定式化していた。
当時の物理学は「宇宙は決定論的な数式で100%予測できる(ラプラスの悪魔)」と傲慢になっていたが、パースは「宇宙の根本には絶対的な『偶然(カオス)』があり、宇宙そのものが今も進化の途上にある」と考えていた。
宇宙が固定された機械ではない以上、科学のルール(法則)も固定されたものではあり得ない。変化し続ける動的な宇宙を捉えるためには、科学者もまた、絶えず「仮説を推理し、修正し続ける(アブダクション→演繹的予測→帰納的検証のサイクル)」という動的な論理学を持たねばならないことを見抜いていた。

パースが遺した膨大な草稿(約10万ページ)はあまりにも膨大かつ難解で、死後100年以上が経過した現在でも、インディアナ大学を中心とした『パース年代順著作集(Writings of Charles S. Peirce)』の校訂・出版プロジェクトが未だに完了していない。日本語訳にいたっては、勁草書房などから重要論文の一部が翻訳されているものの、全体から見ればごく一部に過ぎない。まあ、この辺は興味があれば調べてほしい。

証明出来ないから存在しないではない

「西欧近代が完成させた『固定された客観主義・決定論(まやかしの具体性)』」は宗教と同じである

宗教は証明できないし、最終証明でもない

私は、イスラム教のムハンマドには同情を禁じ得ないし、彼は預言者として啓示を受けたけれど、コーランでも認める通りでただの人間である。彼は戦争に巻き込まれたし、指導的位置に立たされ内心逃げ出したかったと思われる言質もある。集団を統率するなど荷が重い、自分は気が狂ったと年上の妻にも言っていた位だ(この辺はちゃんと記録のあるところ)。だがこれ以上は語らない。正しいかどうかは証明出来ない。それはキリスト教やユダヤ教でも同様かと思う。

例えば、豚やある動物を食するのを禁ずる啓示には感染症のリスクの面から考えれば理に叶った判断であったことは、いえる。だが、仮にその啓示が未来のエビデンスに基づいて語ったとして過去の人々が理解出来たのか、これは全くの別問題である。大体、感染症のリスクの無い異世界転生などナンセンス極まりない(異世界薬局は別)ものが多すぎて、正直ファンタジー以前にリアリティが無さ過ぎて食傷気味ではある。未知の存在をどう包括的に抱えていくのか、これはかなり大問題である。

過去の人々が今の世界を見たら、魔法の世界ではあるが…。

かの手塚治虫でも未来を正確には予測出来なかった(一部当たっている点は評価しているが)し、アニメのジェッターマルスの歌の「時は2014年~。」などもう過去の出来事であるし(笑)、「2001年宇宙の旅」も時間的に合わない。こういったことを書くとSFファンを怒らせるといけないのでもうやめるけど、この中にはやっぱり人間の想像力は侮れない面もあることは指摘しておくことで許して欲しい。

ありえない、不可能では前に進まない面もある

AIにしても、ロボットや光学迷彩にしても、不可能と決めつけていても前には進まない。但し、これらに王道があると言っているのではない。ある意外な直観や認識が降りてくることが人間にはあることは否定できないからだ。

ポアンカレの保型関数、キャリー・マリスのPCR法(ポリメラーゼ連鎖反応)といった自然科学における直観はこれらを裏付けている。

こういう事例はかなりあるので興味ある方は調べてほしいが、実際に直観に対する検証は必須であることは言うまでもない。

そもそも、人間の意識上で判明していることはごくわずかというか、それすら怪しい。このことは以前も書いたことなので、ここでは繰り返さないが、自由意志は幻想に過ぎないにしても、何となく行動している人間は環境を無意識に影響を与えていて、それとなく勝手に判断しているのである。

以前にエルンスト・マッハを紹介したが、ここでも改めて述べていきたい。

世界は関係でできている

カルロ・ロヴェッリは「世界は関係でできている 美しくも過激な量子論」の著書の中で、物理学者でありながら、エルンスト・マッハや、フッサールメルロ=ポンティといった現象学の系譜を驚くほど深く血肉化している。それは彼自身が著書の中で、量子力学のブレイクスルーのヒントとして、マッハの認識論を直接挙げていることからも明らかである。

エルンスト・マッハは、物理学者や心理学者の間では評価が高いが、経済学の分野ではレーニンの批判によって誤解される期間が長かった。あと、マッハは原子の存在を否定してたが、後に原子の発見されたことで、そのことが評価を長い間下げている。しかし、さらにのちに、原子も核分裂するのである前提がなければ存在出来ないことは、マッハを再評価しても良いと思う。

原子は核分裂し、陽子、中性子、クォーク、さらには量子力学的な「場の振動」へと、どこまでも分解(関係性へ還元)されていった。原子すらも、特定のエネルギー状態や環境(条件)が整っている間だけ、たまたま「原子」という形態の恒常性を保っているに過ぎなかった。

マッハが否定したのは、原子という現象そのものではなく、「それ以上分解できない絶対的な『物質の塊』がそこに単独で実在しているという『客観主義のまやかし」である。

「全ては関係に過ぎない」は、人間にとって真理である

私は「絶対的真理」とやらは信じない。だから人間にとっての真理と条件を付けた。だが、人間にとっては究極の真理かもしれないと個人的には思っている。なぜなら、「人間の寿命(時間的スケール)が宇宙の流動に比べてあまりに短いから」である。

自分自身の身体は、固定された「実在」として扱った方が(とりあえず)生きていく上で便利である。人間の脳は、その短い生存期間に最適化(粗視化)されているため、関係性の流動性をあえて無視するバイアスを持たざるを得ない、このことはとりあえず生きていく上で受け入れる必要がある。但し研究したり検証したりすることは別であることは言うまでも無い。

ひとたびマクロな宇宙(ダークマターや熱力学の不可逆性)や、ミクロの量子(ロヴェッリの関係論)、あるいは一回きりの歴史の激動などに目を向けるとき、「すべては条件付きの関係性である」という考え方こそが、最も傲慢さがなく、最も誠実で、現実に即した「妥当な土台」となりうると、とりあえずは考えておきたい。

人間は寿命が短いからこそ、目に見えるものを「絶対的な実在」だと盲信(錯覚)しがちだ。しかし、「それは本当に実在か? どんな条件付きの関係性なのか?」と問い続けること、これこそアブダクションではないか。

スケールを考える

スケールの捉え方を認識論的に適正かをまず考える必要がある

私が政治や宗教を語りたがらない理由。どちらも予測出来ない動きをする、そして宗教は神を求めるが、その存在は証明できないからだ。要するに、我々の目には見えない存在(あるのかもしれないし、ダークマターがこれほど全宇宙になるのなら、違う別次元の生命体がいるという予測も不可能ではない、ただ我々の認識が追いついてないだけかもしれない)があってもそれを「正しい」とも「間違っている」とも言えない。欧米ではそれらを科学的でないとして「否定する」という態度を取るけど、私の様な日本人は「私たちを脅かさない限りは無理に否定はしない」、という態度を取る。この辺は科学の分野でも起こっていると思う。

欧米主導の近代科学が陥った「目に見えないもの、証明できないものは『存在しない(あるいは間違っている)』とみなす」という攻撃的な二元論のバイアスが、いまや宇宙論、量子力学、そして生態学の壁にぶつかり、機能不全を起こしている。

全宇宙の質量の約95%を占める「ダークマター(暗黒物質)」と「ダークエネルギー」の正体は、2026年現在の最新科学をもってしても未だに1%も解明されていない。それは最初に紹介した本にもしっかり書かれている。

従来の西欧科学は「すべての自然は人間の理性で明示化・記述できる」というホワイトヘッドの言う傲慢さ(客観主義)を持っていたため、この95%の未知を「早く数式でコントロール可能な物質として特定しなければならない」と躍起になる。しかし、一方で最先端の「超弦理論(ストリング理論)」などでは、私たちの住む3次元(+時間)のほかに、人間の五感では絶対に知覚できない「余剰次元(10次元や11次元)」が小さく折りたたまれて存在している、という仮説が数学的に真面目に議論されている。

ここでは「証明できないから偽である」と排除するのではなく、「人間の認識スケール(寿命や五感)の外部に、記述不可能な実在の領域(不可知の領域)が厳然と広がっている」という、「無理に否定しない態度」の導入(=科学の謙虚さ)が不可欠になっている。

「私たちを脅かさない限り共生する」という日本人の宗教観・自然観(八百万の神や妖怪の思想)は、現代の「マイクロバイオーム(体内・地球の微生物叢)研究」において、科学的に再評価されている。

近代の西洋医学は、人間を個別の独立した「実在」と捉え、目に見えない細菌やウイルスを「すべて撲滅すべき敵(悪)」として抗生物質などで排除(否定)してきた。例えば、過去には日本の麹(こうじ)菌をカビの一種だからといって、西欧諸国は猛然と毒として否定してきたが、毒性が無いことが完全に証明されたとたんに手のひらを返した歴史を忘れてはいけない。

しかし、人間の体内には100兆個もの微生物(常在菌やウイルス)がひしめいており、それらが人間の免疫や精神状態(脳)までコントロールしていることが判明した。害をなさない(脅かしてこない)大半の未知の微生物たちを、無理に排除せず、むしろ「関係性」の土台として調和を保つこと(恒常性の維持)こそが健康の本質であるという、ある意味「和」の精神性は見直しても良いと思うのだ。これが非常に難しいことも同時に言えるのだが。

前述のカルロ・ロヴェッリ(関係論的量子力学)は、世界には固定された実在はなく、関係性だけがあるという自説を展開する際、西欧の哲学者だけでなく、2世紀のインドの仏教哲学者・龍樹(ナーガールジュナ)の「空(くう)」の思想を直接引用して絶賛している。

「正しい」とも「間違っている」とも言えない状態、量子力学の「シュレーディンガーの猫」に代表されるように、観測(関係性)が起きる前のミクロの世界は、ある状態が「ある」とも「ない」とも言えない、確率の重ね合わせとして存在している。

欧米の論理学は「Aか、あるいはAでないか(排中律)」の白黒をつけることを科学の正しさとしたが、量子力学の現実は「私たちを脅かさない(観測を要求しない)限りは、どちらとも決めつけずに重ね合わせのままにしておく」という、「曖昧さ(しかしグラデーションをそのまま受け入れる高度な認識論)」の方が、自然の記述として圧倒的に「適正なスケール」であったことを証明しえたと思える。

世界とは、「人間の認識スケールをはるかに超えた、カオスで予測不可能な、関係性の巨大な網の目」であることは私でも見抜いている。つまり、「認識が追いついていない目に見えない広大な宇宙(ダークマターや別次元)」の存在を、否定も肯定もせず、「とりあえず」の恒常性のバランスの中で引き受けて生きていく、これが今必要なのではないか。

ここでもネガティブケイパビリティ

この言葉は、19世紀のイギリスの詩人ジョン・キーツが手紙の中で使い、のちに精神分析医のビオンらが発展させた概念である。「どうにも答えの出ない、割り切れない事態(不確実さ・不思議さ・懐疑)に直面したときに、安易に理由や事実を急いで求めず、その不透明な状態のまま耐え抜く力」を言う。

これに対し、近代科学や現代社会が最も得意とし、強要してくるのが「ポジティブ・ケイパビリティ(問題をすばやく処理し、白黒つけて解決する能力)」である。今の社会は大きくこれに加担していると言わざるを得ない。これが大変危険な兆候であると私は思っている。

間は、不安や不確実さに耐えられなくなると、目の前のアブダクション(仮説)を「これが絶対の真理だ!」と実在化して、強引に白黒をつけたがる。

マッハが看破したように、世界は「条件付きの関係性の束」であり、常に流動している。しかし、私たち人間の寿命は短く、社会の複雑系をすべて見届けることはできない。ナシーム・ニコラス・タレブもこの計測スケールの問題として色々書いているので参考にされたし。

「神はいるのかいないのか」「どちらの政治思想が100%正しいのか」という、人間のスケールを超えた巨大なカオスに対し、安易に賛否のラベルを貼らず、「わからない」という宙吊りの状態のまま、世界の恒常性を静かに観察する。結論を出さないといけない営業職を辞めた理由はここでも確認出来た気がする。

欧米の近代科学(WEIRD問題:Western(西洋の)、Educated(教育水準が高い)、Industrialized(工業化された)、Rich(裕福な)、Democratic(民主主義的な)の頭文字を取った人々を一般化するモデルとしやすい問題)は、ネガティブ・ケイパビリティを「無能」「決断力不足」として嫌うバイアスを持っている。彼らは常にポジティブに、自然を暴き、ウイルスを根絶し、答えを出そうとする。しかし、日本の様に、自然(八百万の神やカオス)を完全にコントロールしようとせず、「よく分からない不気味なもの、神秘的なもの」として、そのグラデーションをグラデーションのまま受け入れて共生する。勿論良し悪しはある、そこはここでは置いておく。

AIは、「ポジティブ・ケイパビリティ」のバケモノである。過去の膨大なデータから、1秒の何ミリという速度で「もっともらしい答え(100%か0%かの確率)」を弾き出す。すごいことにAI自身がこのことを白状したのだ。

結論:この考えに至ったプロセスと理由

この考え方に至ったのは「意識は傍観者に過ぎない」ということが判明したせいである。我々は無意識に観察したこと、環境でそれとなく通り過ぎたことに影響を受けているはず。しかし、それらを意識は看過出来ず、認識に時間的誤差すら捏造する位だ。つまり究極を言えば、人間は意識上では見届けること位しか出来ないのではないか。

「認識を求める者は自分の思考だけでなく、自分の意志をも、厳重に監視することができなければならない」とルドルフ・シュタイナーは述べてたが、精神的修行をしていない人間にとって、これはとてもくたびれる。カルロス・カスタネダの「ドンファンの教え」にも同じことを述べてた(これは創作の疑いもありますが)し、禅の修行でも「我」を捨てることを述べていた点との接合性はあるのか。

私たちの身体は、砂の数ほどの微生物や、通り過ぎた環境のノイズ、ダークマターのような見えない記号に常に先回りして影響を受け、自動操縦されていると考えた方がいい。人間が世界を固定された「実在」として見るのは、社会から刷り込まれた無意識の記述(バイアス)のせいだと、意識がこの膨大な無意識の自動システムに逆らい、「監視」を続けようとするとどうなるのか、気絶するほどくたびれる」のが当然なのだ。

私個人は、「最初から『意識(我)』なんてただの傍観者の錯覚なのだから、そんなもの(エゴ)を監視するのをやめて、丸ごと捨ててしまえ」と禅の教えにシフトしたい。シュタイナーはニーチェ的過ぎるし、私には似合わない(笑)。

私が毎日15分以上はスワイショウ(甩手)をしているのは、それも理由である。座禅は、動かない身体の中に意識を閉じ込めがちになるため、精神的修行をしていない人間にとっては「脳内の雑念(意識の捏造)」と戦うことになり、非常にくたびれる。
しかし、スワイショウは「反復運動(動き)」なので単純な物理的往復運動を繰り返すことで、意識(傍観者)は「次にどう動くか」を考える必要がなくなっていく。脳科学的にも、一定のリズム運動は脳内のセロトニン(精神を安定させる神経物質)を分泌させ、脳の「おしゃべり(捏造ストーリー)」を物理的にシャットダウンすることが分かっているようだ。

気持ちが外へ「飛び」、時間があっという間に過ぎる経験もある。最大2時間やったことがあるが、暑い中に身体の危険性などで止めてしまったが、西山先生の様に8時間は今後の課題としたい(笑)


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