ひとを癒す ゆるい繋がり
いろんな場所で、いろんな人と話をしてきた。
ずっと考えてきたこと、今だから考えるようになったこと。
いつもきちんと書いておきたいと思うのだけれど、書いているうちに堂々巡りになって、うまくまとまらなかった。
今回は少し、しっかり書いてみたいと思う。
「話をする」と「話を聴く」
カウンセリングでは、カウンセラーがクライエントの話を「聴く」。ただ黙って聴いているのではなく、対話する。カウンセラーが発する言葉や態度は、クライエントの写し鏡。きちんとしたカウンセラーなら、たとえ自分のことを話す(自己開示する)にしても、意図を持って行っている。カウンセラーと話しているようで、クライエントは自分自身との対話を重ねている。
日常では話を「する」。お互いにお互いのことを話し、相手の話にコメントする。話の内容や選ばれる言葉は、関係性によって大きく変わる。お互い、話すために話している。
私的には、話を聴くことと話をすることは、明確に違う。
相談に期待されること
カウンセリングやコーチングでは、クライエント(あるいはその周囲の人)にニーズがあって場が設定される。ニーズはほとんどの場合、悩みや課題の解決だ。
弁護士や行政の相談窓口などでも同じだと思う。困りごとがあって、相談に行って、解決のための知恵を授けてもらって、取り組んで、解決する。たとえ「それはどうしようもありませんね」と言われたとしても「あぁ諦めるしかないのかー」などと、一旦の決着がつく。
カウンセラーがしたいこと
カウンセラーがやりたいことと、クライエントが期待することは、大体乖離している。
カウンセラーは、クライエントの内面の変容を期待して、カウンセリングをしたい。それがクライエントの困り感の解消につながるといいなと思っている。20年30年のスパンで、良い人生を送ってほしいと思っている。課題が顕在化するに至った根本を、どうにかしたいと思っている。クライエントが自分で良い人生を作っていけるようになってほしいと思っている。
一方クライエントや周囲の人々は、そういうことではなくて、今の苦しさをどうにかしたい、どうしたらいいか教えてほしい、将来も大丈夫だという保証がほしい。あるいは放っておいてほしい。
どちらも切実で、どちらも正しい。両者がうまく嵌り合えば、治療効果は抜群だと思う。
カウンセラーという存在、カウンセリングルームという場
カウンセラーは鏡。クライエントは、カウンセラーを通してクライエント自身を見ている。カウンセラーは、カウンセラー個人として存在していない。
そして、カウンセリングルームは非日常。カウンセリングルームは普段の社会生活と切り離された「場」だ。カウンセリングルームでの出来事は、社会的に仮死状態の間に起こることだ。
クライエントは、自分自身との関わりを取り戻すためにその「場」を使っているのであり、カウンセラーとではなく自分自身と関わっている。
クライエントとカウンセラーとの関わりは、人間同士の関わりではないのだ。
話をすることで整える、とは
私たちが普段話していることは、悩みや困りごとばかりではない。
ちょっとおもしろいことがあって、この話題はあの人に話してみたい、とか。解決やアドバイスは必要なく「あーしんどかった」というつぶやきを「ほんまやなー」と言ってくれる人に吐き出したい、とか。そういうことの方が、人生の時間の中で圧倒的に多い。
場を設定して、お金を出して、真剣に自分に向き合うのではなく、日々のそういうミニミニデトックスによって、人々は毎日を生きながらえているのではないか。
つまり私たちは、今日生き延びた自分を労い、明日もいつも通り生きられるように、話をするのではないか。話をすることで整える、とはそういうことではないか。
人が癒されるということ
どんな人でも少しくらいは、疲れていたり、迷ったり、悲しかったり、する日があると思う。そういうときに人は、何かに癒されて、元気を取り戻して、明日も生きていくのだ。食べ物やふわふわや推しなど、多くの人が何かしら自分を元気にしてくれるものを持っている。
それでいうとカウンセリングなどは、時間と費用をしっかり割いて行う。日常の延長線にはない取り組みだ。カウンセラーとしては安らげる場を提供したいと思ってはいるが、やはりそれはアドレナリン的な対策となる。「癒されてやるぞ」「解決したい」というような。あるいは「一体何が行われるのかな」「自分はどうなってしまうのかな」というような。
本当に人が癒されるときのようなカラダのほどけるような感じ、心に風が抜けるような感じになるのは、カウンセリングのような身構えて掴みに行った解決策を行ったときではないと思う。普段のかかわりの中で、言語化できないような空気の動きが、人を癒す。
注
例えばマインドフルネスのような技術を習得することには、とても意味があると思う。でも1度それをやったから癒されるということではなく、それが習慣化され日常になり、自分や仲間と繋がれることが日常になった先に、癒しがあるのではないかと思う。もしカウンセリングを受けているとすれば、カウンセリングでの取り組みが普段の暮らしの中で発揮されたときだ。
普段のかかわりとは何か
普段のかかわりというのは、一緒に何かをすることだと思う。
仕事でも、食事でも、軽作業でも、掃除でも、趣味でも、なんでもいい。
自分の課題にも相手の課題にも関係のない中立なものごとがいい。
そこに集う人々には共通の目的や目標がある方がいい。
必ずしも協働しなくてもいい。仲良くなくてもいい。毎日でなくていい。
そこに集う人々は、自分の内側を曝け出さなくても、共通のものごとについて周りの人と言葉を交わすことができる。そういうかかわりが、知らず知らずのうちに、個人の内側も変容させていく。
多重関係という縛り
心理士でいる限り、多重関係のことから逃れられない。
私以外の心理士は、もっとうまくやっているのだろうか。仕事と割り切っているのだろうか。私は、カウンセラーである自分と個人としての自分をうまくまとめることができずにいる。一緒くたで分けられないのに、個人としてクライエントと関わることはできない。
それが安全だ、というのは明らかで、やはりそれを崩すとうまくいかない。でも、心理士として関わっている限り、相互関係にはならない。なぜなら心理士としての私は、クライエントのためだけに存在しているから。健全な人間関係というのは、どちらかがどちらかだけのために存在するということは、ない。
話を聴く時は、「話を聴く」のだ。
特にカウンセリングでは、お互いに話をするのではない。話を遮らず黙って聴く。質問をしてクライエントの内側にアクセスする後押しをする。それによって、クライエントの奥深くに閉じ込められていたことを安全に思い出せるように、聴く。
カウンセリング場面でなくても、話を聴く時は、話を聴くのだ。なんと答えよう、どんなアドバイスをしよう、などと自分が話すことを考えるのは一旦置いておいて、きちんと聴く。最後まで。
では、私の話は誰が聴くのか
私がそのように話を聴いてもらえたことは、あっただろうか。
そういうことを求めていたから、私はフォーカシングに魅かれた。そういう人がいたらいいだろうな、と思って起業した。
これまで私が話をしてきた人は、聴きたいように私の話を聴く。私が聴いてほしいようにではなく、聴き手が聴きたいように聴く。とにかく黙って聴いてほしいと最初に伝えたとしても、なかなかそういうことにはならない。いろいろ試してみたくなるみたいなのだ。いろいろ言いたくなってくるみたいなのだ。
当たり前だ。聴き手にもこれまでの人生がある。それを総動員して聴いてくれるのだ。私を慰めようと良かれと思って、いろいろ話してくれるのだ。やさしい。ありがたい。でもいつしか私の方が聴き手になっている。
あるいは、私の話なんて聞こうともしない(過去に申し込んだカウンセラーは、私がしんどくて苦しくて藁にもすがる思いだったにも関わらず「なんの問題も無い、もう来なくていい」と言い放った。)
支援の場以外の世界を見た
みんな、ちゃんと生きてた。
普通の会社も、優しかった。支援の場にいない人たちの方が、人間らしく生きてた。当たり前に助け合ってた。
支援の場では、目の前の相手と関わること一つひとつに、意図や目的や効果を考えてきた。その関わりは、本当に相手のためになるのか?と。支援者はみんな被支援者を心配していた。信用していなかったのだと思う。
「普通」に一番囚われたり被支援者を囲ったりしていたのは、被支援者ではなく支援者だったことも見えた。支援者の賃金や地位が上がらないのは、支援者の精神的な構造に要因がありそうだとわかった。そういう場で、その気がない人たちに、労働者の権利なんて話が通じるわけがなかった。
外の世界を知ろうともせず、自分たちは理解されないと言う。でも外に目を向けるほどのエネルギーがないほどに毎日疲弊していることもよくわかる。支援の世界は、大きな大きなコミューンのようだった。
分野が違うと文化が違い、価値観も本当に違った。障害者のこと、福祉的な就労のこと、病気のこと、さまざまな相談窓口のことは、世の中に本当に知られていないのだとびっくりした。そして、そりゃそうか、こんなに価値観が違うのだもの、と妙に納得もした。
ゆるい繋がり
話を聴いてもらうことに関するこれまでの個人的な体験もあった。
支援の現場での経験もあった。
支援の場以外の世界も垣間見た。
その上で、私はゆるい繋がりが人々(というか、私)を癒すのではないかと考えるようになった。
【どんな立場の人も、どんな境遇の人も、
無理なく暮らし続けられる世の中を創る】
これは、ほっこりんくの理念。
どんな立場の人も、どんな境遇の人も、フラットに関われる。自分でいられる。自分の属性によって不利益が出ない。そんな世の中になるといい。
カウンセリングの技術がなくてもいい。全部さらけ出し合わなくてもいい。深く内面を覗き込まなくていい。今日を生き延びて、明日を迎えられればいい。少し呟ける場所があるといい。
深く知り合わなくてもいい。顔見知りが少しいたらいい。ささやかな繋がりの中で、穏やかな関わりを持ちたい。癒され合いたい。
繋がる自由も、退避する自由も、保証される場があればいい。
安心してゆるく繋がれる社会になったらいい。
たぶん、そういう場が、人を癒すのだと思う。
