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愛すべき人は目に映るのに、なぜ「わたし」は目に見えないのだろう

先日心がぽっかり「無」となり、休息の一日があった。

そんな日にふと、導かれるように辿り着いた音楽がある。それは久しぶりに聴いた宇多田ヒカルの曲。その中でも心にガツンときたのは、「Mine or Yours」だ。

この歌詞の一説に心を奪われた。

なにが食べたい?店探すよ
元気出るまでダラダラしよう
何か飲むかい?お湯沸かすよ
君はコーヒー、僕は緑茶、いつもの

詩の中に
相手を優先してしまう現状を思い描く。

宇多田ヒカルを改めて天才なんだと感じた。この言葉にならないようなむずがゆい感覚を言葉にしてくれているような。

そして先日。
あのやる気のない日から復活した数日後、一人で歩いている時にふと、こんなことに気付いた。

あれ?
私曲がる道さえ相手に委ねてた…


衝撃だ。
いつも相手が好きな道、行きたい道を優先して、「どっちでもいいよ」なんて余裕のあるふりをしていたけど、、本当はその日その日で行きたい道が違う。

料理だってそうだ。
相手に「今日、何食べたい?」と尋ねてから献立を決める。

心の底では“あれ食べたい”と思っていても、だ。


で、もう一度宇多田ヒカルのMine or Yoursに戻ろう。


2番の歌詞。

ずっと一緒にいたいけれど
毎日一緒はしんどいかも
なにかいるかい?買っていくよ
君はコーヒー、僕は緑茶、いつもの

しんどさに気付きながらも、やっぱり相手のしてほしいことを優先してしまう感じ。

このむずがゆさを表現できる宇多田ヒカルは本当に天才だ。素晴らしい。それから宇多田ヒカルの曲を聴き漁っている。

で、また現実に話を戻そう。


歩きながら、こんな思いを巡らせていた。

なぜ、こんなにも相手を優先して、欲しいもの、してほしいことには全力になれるのに、自分を優先できないだろうか。


自尊心が足りないのか、
自己愛の欠如なのか。


私は自分を愛していると思っているけど、なぜ、自分を優先できないのだろう。そんなことをぐるぐる考えた。


そして気付いた。


私には相手の存在を実体として、この目に映すことができる。
そこに存在しているのをこの目で確認できるのだ。愛すべき人が目に映る。

だが、私からは「わたし」は目に映すことができないのである。どんなに愛していても見えないのだ。

私からは「わたし」は実体として目の前にない。「無」である。存在していないも同然である。

となると、優先するべきは実体がある相手、ということになる。

それはもう仕方のないような気がした。


だからこそ「意識」というものが必要なのだとつくづく感じる。

「わたし」を意識しなくては“何食べたい?”“どこ行きたい?”という自己への問いかけは無いに等しい。

あぁ私は存在していなかったのか、と思えるとなんとなく、腑に落ちた。

悩んでいた頭の中のざわめきは静かに引いていった。




だから私は「書く」という、どこか神聖な行為が好きなのかもしれない。

「書く」ことで「わたし」が浮き彫りになる。
「書く」ことで「わたし」の思いが現実に降りてくる。

そこに「わたし」は存在していることになる。


存在することって尊いことだ。


私が「わたし」であるためには欠かせない儀式のようなものなのだ。


「わたし」は無ではない。

いつもここに存在している。

だから今日も字を書く。私はここに在る。

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