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江戸時代日記 その6 『なぜ立て続けに「改革」した? ①徳川吉宗〜田沼意次』

さてさて、今回もまたおもしろい回だったのぉ。第4回のテキストで見つけた保科正之につづいて、またまたスゴい人物を見つけてしまったぞ。田沼意次。この意次という人物については後半に語るとしよう。

まずは8代将軍徳川吉宗。意次が老中になるよりまだ50年ほど前の将軍である。これまであまり徳川の家系を気にしたことなかったから知らなかったのだが、吉宗は紀州徳川家の出身なんだな。

それまではずっと家康から秀忠、家光とつづく、つまり秀忠の直系であった。ところが7代将軍家継がわずか8歳で亡くなったことで、ここで秀忠の直系が途絶えるんだな。

そこで徳川御三家のひとつである紀州徳川家の吉宗に白羽の矢が立ったのだそう。つまり初めて宗家以外の者が将軍となったのだ。緊急事態であったとはいえ、吉宗はえらい出世をしたんじゃなぁ。

そんな吉宗であるが、もともとは将軍になることのなかった身。それが将軍となったのだから、さぞかし本人も、そして周囲も期待と不安の入り交じった船出だったであろう。

吉宗が将軍に就いたときの日本はすでに江戸開府から120年ほどが経っていた。そして日本は農業の発展・経済成長という豊かな社会、泰平の世へと移行していったのである。

しかしそのいっぽうで、農民の格差拡大、幕府の財政難、武士の収入減という課題をかかえる。そこで吉宗は新田開発・年貢米の増量などによる「米」を中心とした改革で克服しようとした。世にいう「享保の改革」である。

たしかに享保の改革はかなりの成果を上げたようじゃな。村が幕府に納める年貢収納高が、260年の江戸期のなかでは吉宗の時代が最高額なんだそう。またその結果、幕府には100万両ものおカネが蓄えられたそうな。

正直言うと、100万両がどれくらいのおカネなのかワシには皆目見当がつかないのだが、番組では「100万両もの」と表現しとったから、さぞかし大金なのだろう。ほほぉ〜、やるのぉッ吉宗ッッ。

ところがやはりそこは「米」なんだな。収穫量には限界がある。農民の負担も多く、そこへ凶作や飢饉が重なり、百姓一揆が増加。また以前からつづく物価高は収まることがなく町人の生活を圧迫。貧困層の不満が高まり、打ちこわしも増加。

米の収穫量や庶民の気持ちひとつで政策基盤が揺らいでしまうため、幕府の財政難は改善されても非常に不安定なものだったようじゃな。あちら立てればこちらは立たぬってな感じやなぁ〜、せつない。


そこで登場したのが田沼意次。10代将軍徳川家治の時代で、世にいう「田沼時代」である。意次は「米」を中心とする改革に限界を感じる。そこで目をつけたのが「商工業」だったそうな。

すなわち米に頼らない経済。これがすばらしいッ。同業者の組合による独占を認めるかわりに税金を納めさせる「運上・冥加金の徴収増加」。また南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)という新たな貨幣をつくり、レートを南鐐二朱銀8枚 = 金一両に固定する「通貨の統一」などなど。

これら意次がおこなった改革は、「米」中心の経済から「貨幣」中心の経済への移行だ。現代でこそ経済をまわすのは米ではなくおカネというのは常識だが、この時代はとりわけ武士からしたら商売はいやしいものとして見下すものであったようなんだな。

そのため、それまで貨幣の重要性に気づく者がいなかったのか、いても行動に移せなかったのか、誰も「商工業」に目をつけて貨幣経済に着手する者がいなかったのだ。そこに初めて着手したのが意次である。誰も目をつけないところに目をつけるこの意次の先見の明よ。

ここからは個人的にネットで軽く調べたことだが、とりわけ南鐐二朱銀は歴史的意義があったようなんだな。当時「東国の金遣い、西国の銀遣い」と言われたように東日本は金貨、西日本は銀貨と別々の通貨が使われてたそう。そして金と銀を両替するにはめんどうな手続きと手数料が掛かる上に、相場も日々変動していたそうな。

それを名目貨幣として南鐐二朱銀をつくり、レートを固定させることによって、通貨の一本化・貨幣の価値の安定・取引の円滑化を図ったのだ。これがすばらしいッ。現代の感覚では通貨が統一されてるなんて当たり前の話だが、この時代は地域によってバラバラ。それが意次によって統一されるのだ。やるのぉ、意次ッ。

しかーしッ! ここで残念なのことを記さねばならない。この「通貨の統一」、効果が本当にあらわれるのは意次が亡くなってからの話のようなんだな。え、マジかッ。「通貨の統一」という商業界の歴史的大改革の成功を見ぬまま、意次は亡くなってしまうんかい。

どうやら意次が南鐐二朱銀を導入した直後は成功とはほど遠く、かえって混乱を招いてしまい、商人には大不評。さらに自然災害も重なったことで、意次の改革は失敗の烙印を押されて失意の失脚となる。そしてワイロ政治家などというレッテルまで貼られてしまうという……さぞ無念であったろう。

ともあれ、米を主体とする幕藩体制の原則にメスを入れて、次つぎと常識をやぶり貨幣経済へと改革を進めた田沼意次という男、マジで只者ではないぞ。以前は時代劇の影響でワイロ政治家と呼ばれたようだが、近年では再評価が高まってるというし。保科正之と同様に、田沼意次にも注目しながら江戸期の勉強をつづけていこうと思う。




『なぜ立て続けに「改革」した? ①徳川吉宗 〜 田沼意次』


徳川吉宗
(引用:Wikipedia)

江戸の三大改革
・享保の改革 徳川吉宗
・寛政の改革 松平定信
・天保の改革 水野忠邦

8代将軍 徳川吉宗 → 時代劇「暴れん坊将軍」で有名

新田開発、年貢の増徴など、米重視の政策 → 米将軍

この時代から将軍の系統が変わる
徳川宗家 → 家康を祖とする将軍家の本家
紀州系 → 徳川御三家のひとつ、紀伊徳川家の流れをくむ将軍 → 幕末までつづく(ただし最後は水戸)


徳川十五代将軍家系図
(引用:刀剣ワールド)

江戸中期は商売がさかんになり、貨幣経済が浸透する → 困ったのは武士。給料は安く、物価は高い

困窮した武士は町人に借金

農村では格差拡大 → 奉公人を雇う裕福な豪農と、土地を質入れして没落する貧しい農民 → 農村の荒廃

7代将軍家継がわずか8歳で亡くなる → 急きょ白羽の矢が立てられる

幕府は深刻な財政難

広大な直轄地、金山・銀山もあって大きな経済基盤を整えていたのになぜ財政破綻していくのか?
① 経済基盤の中心が年貢農作物だった
② 貨幣経済との相性が良くない

米がたくさん採れるほど価格が下がり、収入の増加につながらない

幕府を財政破綻に陥った犯人は、5代将軍徳川綱吉

明暦の大火 → 明暦3(1657)年、4代将軍家綱のときに江戸時代の大半を焼き尽くした大火事。この災害の復興でどうしてもお金が必要。

綱吉は浪費家 → 部下の屋敷に遊びに行くのが好き。また寺社への寄進がほかの将軍とは比べものにならないくらい高額の出費。

8代将軍吉宗は初めて宗家以外から来た将軍

22歳で紀州藩主に、33歳で将軍職に。

22〜33歳まで藩主の経験をもっていたことが吉宗の大きなポテンシャル

享保の改革
(引用:日本史のかがみ)

享保の改革の一番は年貢量を増やすこと

① 上げ米の令 → 諸大名に毎年一万石つき百石の米を献上させて、参勤交代での江戸の滞在期間を半分にした。ウィンウィンの関係。

上げ米の令は「成果を上げた」と9年目でやめてしまう → 参勤交代のシステムをいじるのは問題だという意識があった。

② 足高(たしだか)の制 → 幕府の役職ごとに役高を決め、就任者の家禄が役高より低いときは在職中のみ不足分を支給する → 家格が低くとも有能な人材が登用できる

財政は好転 → 享保15年ころには100万両ものお金が蓄えられる

いっぽうで物価高は収まることがなかった → 打ちこわしが起こる


田沼意次
(引用:Wikipedia)

田沼意次 → 最初は吉宗の長男家重の小姓(こしょう)として雑用や警備をつとめる

以前は賄賂政治家の代表格として語られるが、今は経済感覚に優れた政治家として語られる

吉宗による年貢収入の増加の改革によって農民の負担が増えて、一揆が多発 → 商工業に目をつける

商品流通を活発にすることによって、そこから幕府が利益を得るという改革


田沼時代の改革
(引用:日本史のかがみ)

株仲間公認 → 株仲間(同業者の組合)に営業の独占を認め、かわりに運上・冥加金(税金)を納めさせる

南鐐二朱銀
(引用:Wikipedia)

南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)→ 金貨の単位で表示された銀貨。意次が新たに作った。

これまでは関東では金、関西では銀が使われていた → 両替などの手続きが必要

レートを固定して安定化をはかる → 南鐐二朱銀8枚 = 金一両 

手続きの簡略化 → 通貨の統一 → 幕府始まって以来の大改革

なぜ意次は商業主義に注目したのか? → 商業は武士から見たら一段低いもの → 意次は出自が高くなく、自由な発想ができた

発明 → 非常に頭がきれる、ひらめきがある

米を主体とする幕藩体制の原則を踏みにじるところまで手を出す → 意次は行動に移せるタイプ

世間では権力者に取り入ろうと賄賂が横行

賄賂を受け取った者は田沼以外にもたくさんいた → 政治システムの中に賄賂が組み込まれていた

付け届けという名目でお金や品物を贈ることは江戸時代では当たり前


天明飢饉之図
浅間山の大噴火のほかにも、長雨や冷害などが相次ぎ、
深刻な飢饉に見舞われる
(引用:Wikipedia)


新田開発・鉱山開発の失敗、天明の飢饉 → 打ちこわしが多発 → 意次への批判

天明の飢饉 → 天明2(1782)年 〜 天明7(1787)年、90万人超の死者

10代将軍 家治死去 → 天明6(1786)年、田沼意次 失脚




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