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花札と歌と源氏物語

また「日本人は思想したか」という書籍の中から。

今回は「花札」について書いてみたいと思います。

何度もこの本を引用させていただいております。
この本の内容はタイトルの通り「日本人は思想したか」ということからの3氏の対談になり、あくまで3氏の「考え方」ではありますが、この本を読んていると、どのテーマからも「日本」とか「日本人」ということをもっともっと考えてみたくなるという想いがふくらんできます。

「花札」についても、最初に日本の和歌についての話からの展開になるという出発点からすでに思いもよらないものであり、
私としては、もう全く意図しなかった世界が広がっていきます。


「源氏物語」からの話で、季節についての話がでてきます。
吉本隆明氏いわく、「源氏物語」の四季感が桂離宮の美学とされているという説明が展開するあたりは、個人的にとても魅かれるものがあってとても面白いなあ!と感じました。

ちょっと話が横道に入ってしまうのですが、以前香川県を旅した時に香川県にはたくさんのすばらしい建築がたくさんあることを知り、いろいろ見てまわりました。

その時調べたものの本で、それらを造った建築家の方々が日本建築の最高美としてだれもが「桂離宮」をあげていたというのがとても印象的だったのです。またドイツの建築家ブルーノ・タウトもまた「日本美の再発見」の中で桂離宮を絶賛している。今回の源氏物語の話から、そんな以前の感動も呼び起こされ、日本の美学というものをここでまた考えさせられました。


「花札」と「源氏物語」はこんな話からつながっていきます。

(源氏物語が)春夏秋冬という季節が天然自然としてあるんだということこを初めてきちっと言っちゃってるんじゃないかなと思うんです。和歌としてはもちろん「古今集」なんかがやっているわけですけど、物語としてはあれで初めてやってるんじゃないかと思うんです。つまり光源氏が花散里はなちるさと夫人をこっちの冬の庭のところに置いてとか、夏の庭のところに置いてとか、庭を四つに区切って、春の庭には自分がいてとか、そういう区切りをしちゃう。庭を全部、四季の花で代わりばんこに移るようにつくるみたいな。だから桂離宮の原型なんでしょうけれども、そういうのを「源氏物語」が初めてつくっているわけです。四季感をつくっちゃってるということが僕はものすごく重要な感じがするんです。

「日本人は思想したか」P198

そして、紫式部はなぜそういうことをしたいと思ったんでしょう?という中沢氏の質問に吉本氏はこんな風に答えています。

「源氏物語」の中では、大堰川の上手のように源氏の別邸があって、とかなっているんだけど、一番最後のころ、六条のところに六条院というのを建てて、そのときに庭を全部式に区切って周りの自然を家の中に入れちゃうんですね。そして第一夫人、第二夫人とか、自分の子どもの中宮とか、そういう季節のところにちゃんと住まわして、ある季節にはそこだけに花が咲いたりというようなことを工夫しますね。あの工夫はきっと紫式部が一生懸命考えてやったんだと思うんですけど、やっぱり自然とのかかわり方でも、原型的なものをつくろうというふうにあそこで強烈に意図したんじゃないでしょうか。

ここにもまた、普段私が知りたいと思っていることが詰まっているように思いました。昔の人の自然とのかかわり方です。

現代人にとっての自然とこの時代の自然はあきらかに比重がちがうであろうとは思っているのですが、それがどういうふうに違うのか、どういう関わりの中で生活の中にあるのかということに興味があります。

子育てをしながら、我が子だけみても、自分の子ども時代の自然とのかかわり方とまるでちがうということを感じてきました。意識して自然と触れ合わせようと思って積極的に自然の中に連れて行ったり花をみたり昆虫を育ててみたりはしましたが、どこか根本的に関わり方の濃度の違いやその影響力の違いを感じることがありました。

自然よりももっと目を向けたくなるものが多くなり必然的に関係性がうすれていってしまうのはしかたがないかもしれません。しかし人間も自然であり、その関係性には大きな重要性を秘めているのではないかと考えるとその「薄れ方」というのは現代人の「生きる辛さ」につながっているのではないかと思えてくるのです。


さて、「花札」はこの源氏物語の流れから中沢氏の話でこんなふうに登場します。

僕は『源氏物語』を読んだ時、発想が男みたいだと思ったことがある。そういう空間化していこうとする意志がとても強いんで、でもこれを突き詰めていくと花札へ行っちゃうだろうと(笑)紅葉と言ったらすぐそこに鹿を描く。僕、花札とても好きですけどね。あれは季節を空間に、四角のカードの中に押し込めちゃっていくセンスですよね。あのセンスが『源氏物語』の光源氏の行動パターンの空間性にもあらわれている。後略

うーん。
もうなんか視点がちがう。
この本を読んでいると、もうその「視点がちがう」ということはずっとつきまとうのですが、それがとてもありがたいというか、嬉しい。

自分はなんて決まりきった枠の中で正しさを考えて、しかもしがみついてきたんだろうという「自分のつまらなさ」に気づくのです。

だけど、どこかでこんなことを考えていたことがあるのではないかという事も同時に思うのです。こんな知識人の方たちと同じことだなんておこがましいのもはなはだしいのですが、もっとプリミティブなところで、ちょっと誇張して言えば私は原始人くらいの立場で(笑)こんなことを考えていたのではないかという事にハッとする。
そして私も必死で自分の心の中にあることばを探そうとします。そしてどうにかこうにか組み合わせてみる。
そのことで得られる心の充足感は、もうなんだか生きている喜びとまでいってもいいくらいの満足感なんです。

こうやってじわじわと知りたかったことやどこかで感じていたかもしれない自分の心のことばを最近必死で探しています。


話がまたそれました。すみません

花札は子どもの頃家族でよく遊んだ記憶があります。
たしか、お正月に父が「おもしろいから」と教えてくれたのが最初でした。
また、映画「サマーウォーズ」でも「こいこい」という遊び方で登場し、現代でもこんなふうに花札で若者が遊んでいるという描写を取り入れるなんて面白いなと思ったのでした。(ちなみにこの映画が私はとても好きです)


花札の絵柄は私にとってとても魅力的です。
子ども心にもあの独特の絵柄にハッとし、ときめきました。
とくに真ん丸な月や満開の桜の札への執着は他のどの札よりも強く、
勝敗や点数もさることながら絵柄の魅力に胸騒ぎを覚えるような、高揚した気持ちであの札が「欲しい」と思ったことを今でもよく覚えています。

花札の絵柄はずっと変わらずと思っていました。
しかし今回様々な描き方や表現があったことを知り、ますますその魅力に引き込まれました。また、よくわかっていなかったところも理解できる絵柄をみつけ、正しい図案を知ることが出来ました。


花札の起源は明らかではなく、かるたという日本の文化からの流れの移り変わりによってできてきたものとされているようです。そしてその歴史の背景には賭博の禁止や自由化などが関わっており、「花合わせかるた」や下図のような「花鳥合わせかるた」のようなものがその起源ではないかと考えられているようです。

今回様々な資料を読ませていただきました。
なかでも、法政大学出版局の「ものと人間の文化史」というシリーズ167「花札」はとても詳しく、かなり深く研究されている内容で、その他参考にした他の書籍といろいろ異なる独自の見解がみられ、発祥や歴史など私にはとても難しく、簡単に解釈できませんでした。
そこで今回はそのことには触れず、図案の移り変わりや私が感じたことなどを書かせていただきたく思っています。


私の知っている「花札」の絵柄がもっと古くはこんな風に表現されていたのかとかという驚きからの今回のnote執筆の動機が始まります。

当時の自然とのかかわり方や考え方などをここからも感じることができるのではないかと思えました。

現在販売されている花札の図柄

今我が家にある花札はおそらく数年前に100均で購入したものではないかと思いますが、ほとんど使っておらず新品同様。子供の頃に両親と遊んだ花札も同じような図柄だったのではないかと思うのですが、今回いろいろなものをみて、もしかしたら微妙に違っていたのかも、違っていたならみてみたかったなと思いました。(実家は数年前に売りに出し、その時業者の人に入っていただきいっぺんに片づけていただいたのです。いろいろみていたら懐かしさで手がとまりなかなか進まないだろうと考えての選択でしたが、もっとそのなつかしさに浸ればよかった。いまでも時々後悔しています)

こちらは江戸時代中期の手書き花札です。現在大牟田市立三池カルタ歴史資料館にて保存されています。

現在の図柄と比べるととても写実的で日本画という感じですね。そしてとても正統派な絵で上手い人だなあと思います。
月などもこんなふうに見た時の様子そのままというか感動が伝わるようです。

そして今回一番驚いたのはこの「すすきに月」という図柄。現在の札で、私はすすきとは一度も思ったことがなかったんです。
黒いを手前にして見た月だと思っていました。

そうやってみると、たしかにすすきだ!と思いました。また、すすきを芒という漢字でかくのも初めて知りました。

次は江戸時代後期の「武蔵野」という花札です。

ずいぶんざっくりとした絵になりました(笑)
「武蔵野」というのは、花札の呼び名だったようで、はこんなふうに木箱に入っていたようです。この木箱は上面の木板上の蓋をスライドさせて開ける引き蓋仕様になっているのだとか。そして、蓋表面右下にある「本家春」は「本」「家春」と読むのだそう。家春という場前のかるた屋が本当に制作したということを保証するもののようです。この家春が誰なのかということの推理も法政大学出版局の「ものと人間の文化史」というシリーズ167「花札」に書かれていて、本当に様々に詳しく調べられています。

「武蔵野」は呼び名だったので、おなじく「武蔵野」であってもいろいろな絵柄があったようです。でも今回観た資料はどれもこう、ザっと描いたようなものばかりなのがおもしろいなあと思いました。

また、「月」の札のほかに注目したのは「柳」の札の図柄です。
これも、私は勝手に「雨」の札と呼んでいたのですが、正しくは「柳」でした。たしかによく見ると点が大きな役の札しか雨は感じないかも・・・。


その役の図柄なんですが、その移り変わりがとてもおもしろいのです。
まずは下の写真をみてください。現在の「柳」の役の札です。

江戸時代中期後半の上方歌舞伎の演目「小野道風青柳硯」の場面。左に描かれているのは「独鈷の駄六」この演目では道風が雨中で蛙の跳躍を見る場面もあるのだとか。法政大学出版局の「ものと人間の文化史」というシリーズ167「花札」の中ではこの歌舞伎からの現在の絵柄になったのではないかと推理しています

激しくぼやけていてすみません。
江戸時代中期の手書き花札ではこのような図になっており、傘をすぼめています。この余りの違いにはとても驚きました。

「柳に奴」のやっこというのは「独鈷の駄六」のとっこにつながるのではないかと推理されていました。
「武蔵野」の奴の図柄は反対方向に走っている!
同じく、違う種類の「武蔵野」でも走っていますね。右側に見える赤い線は雷光。これが「光物」としてプラスの価値の側面が強調されるようになり、従来の「四光」という役に「雨入り四光」ないし「五光」という役が加わり、これが「柳」の紋標の主になったということなのですが・・・

そして同じく「柳」の札です。

太鼓のような絵がみえます


この絵はずっと謎だったんですが、今回、そういうことがあったのかあ!ということがわかりました。

上の説明のように「従来の「四光」という役に「雨入り四光」ないし「五光」という役が加わり、これが「柳」の紋標の主になったになった」ことで「柳」だけが変則的な構成になってしまいました。

そのため「夕立と奴」の札が担っていた「消し札」の機能が宙に浮いてしまい、残されたもう一枚のカス札を柳の枝の絵のうえからべったりと全面を赤く塗るようになりました。そうすることで、このカス札は「消し札」という効力を持った特別な札であると表示することをわかりやすくしました。

更には明治20年代後半にこの赤く塗られたカス札の骨摺り図像が晴れた天候の柳の枝から雨の降る中での「雷光の太鼓釣り」に変わりました。
それこそが「消し札」らしい雨の情景が戻ったという事。
このデザインが現在まで受け継がれています。

さて最後に和歌の書かれている花札です。
これがまたおもしろくて興味深い!

こんな和歌の入った花札を私はみたことがありません。

花札は地方によって図像が微妙に違っていたらしいのです。
西日本から日本海沿岸に広がっている古いタイプの花札には数枚のカードに和歌が書きこまれているのだそうです。
そもそも先ほどご紹介した「武蔵野」という花札は西日本の花札のよう。

東日本は和歌のない「花札」というのが幕末期、明治前期の基本的な分かれ方だったのだとか!私は東京生まれ東京育ちなので、みたことがなくて当然だったのかもしれません。

右の「阿波花」は徳島県で作られていたもの。左は新潟県でつくられていたもの。これらには和歌があった。
この表示のなかにある「任天堂」をみて、改めて任天堂の住所を調べたら、京都の会社なのですね!東京都ばかり思っていました!花札もこのように和歌の入ったものを作るのが普通で、でもどうやら東京や関東は和歌をいれないほうがいいようだと判断しながら関東地方方面の花札も作成していったのでしょうか

岡山県の「備前花」や山陰地方の花札(未詳)にも和歌があったと思われます。

また、おもしろいのは、山形県は内陸部にあるけれど、紅花の生産地ということで北前船の航路の終点であり、このルートで日本海の航路を通じて関西地方と経済的文化的につながっていたためか、この地方でつくられていた「山形花」には和歌があるのだそうです。

そしてさらにはこんなことも。

山形地方と山脈一つ横断するだけの短い距離に位置する南部(盛岡)藩の花巻市内では幕末期には和歌付きの花札を制作していたが、後に和歌のない「花巻花」が作られるようになり、それは北上川の水運を利用するコメの輸送などで深く結びついている江戸で和歌の無い花札が好んで使われていたことと関係している。
もともと江戸の花札からなぜ和歌が欠落したのかはよくわからないが、幕末期から明治前期にかけて江戸や関東地方で使われていた花札や、明治20年代の花札ブームに乗って東京の下町などでしきりと制作された1枚もののおもちゃ絵風の花札シートでは、いずれも和歌が外されている。

ここで最初にご紹介した「日本人は思想したか」に戻るのですが・・・

「日本人は思想したか」の中で、「日本には西洋人のように哲学というようなものはなく、日本人の思想は茶や歌のなかにあるのではないか」という話からこの本の内容は始まっていくのです。

そして中沢氏が吉本氏と梅原氏2人に「日本人の思想という言葉をどのように理解されてお使いですか」と質問します。その答えとして梅原氏が歌論かろんに一番着目したいと答えます。歌論とは和歌の本質、美的理念、作法、詠作手法などについて述べた理論や評論のことです。梅原氏は最初その方法をうまく生かせないというようなことを言うのだけれど、その歌論の中で魂鎮めの問題が中心的にあるのだということを中沢氏が話し出したことで梅原氏の考えを要約してくれます。(余談ですが、この中沢氏の知力、読解力やまとめ力が素晴らしいなあと読んでいる間中終始感じました。)

以下は中沢氏の説明です。

魂鎮めは人間の社会が別の共同体とじゃなくて、人間の世界が制御できないような荒々しい力とか、とてつもない災害のようなもの、あるいはそういう人物のようなものに出会った時、その殺害とか死とかいうものと人間の感覚とを調停するものとして生まれる。(中略)
哲学とはなにかという問いに、ジル・ドゥルーズは、「異質な領域の異質な力を調停することだ」という明快な定義を与えています。それでいきますと、枕詞というのも日本語がなしえた最初の調停であり、哲学であり、魂鎮めとして発生した和歌もまた、ひとつの調停の哲学の表現ではないでしょうか。調停が哲学の本質のひとつであるとしたら、歌論や和歌そのものは、日本人の哲学の最初の形態とみなしてもいいんじゃないかという気がしてきます。

私は古文の読み方がよくわからないという理由で和歌などを積極的に理解しようとはしてきませんでした。しかし、毎年お正月には家族で百人一首をやり、その意味もよくわからないもののなんとなくソラで言えるようになり、意味が気になるようになったことがあります。するとあの独特の五七五七七の音にたくさんの想いや事実、感情が詰まっていることを知ります。
まさに日本人の思想が表現されているのです。

改めて考えたこともなかったのですが、その豊かさ、奥の深さに日本の奥ゆかしさや独特の美を見る思いで感動しました。

今回はこの「花札」にも和歌があるものがあった(ある)という事を知り、日本人がことさら強調してはこなかったものの、そこにこそ日本らしさがあるのだということを考えさせられました。

東京の花札には歌はなかった。
それはどうしてかわからないと説明の中にはありましたが、私はあえて考えてみました。

東京を近代化しようと、当時最先端のものを集めようとして、和歌を古臭いものとみなし、意識して排除したのではないだろうか。

現在の東京も、自然は大事と口では言いながら、まずは近代化のために自然を犠牲にしたとしてもそれは仕方ないと片付けられていしまう印象があります。

最近色々考える中で人間という自然を考えると、この自然を排除してきたという、いわゆる自分たち仲間を排除してきたことにつながることのツケがまわってきたのではないかと思える時があるのです。

その恩恵を私も十分に頂いてきている感謝も忘れてはいません。

だけど、人間も自然なのだということに、もう一度本気で立ち返る必要があるのではないかと強く感じるのです。
それが、具体的にどういうことなのかというのはわかりません。

無責任な発言ではありますが、
この世界の根源的リズムがおかしくなってきてやしないかという不安感を日々感じては家族とそんな話をしています。

そしてこんな時こそ「なんとなく」で話を終わらせず、どうにかして自分のことばを引き出したいと思っており、
今回は「花札」というものから感じるものを書いてみました。

またいろいろな視点からこのことをこれからも考えていきたいです。

松井天狗堂制作の花札 制作者である松井重夫さんは京都在住の日本でただ一人の手摺りかるた職人でしたが、現在はお亡くなりになり、後継者もいらっしゃらなかったことから現在では作成されていません。松井さんは手摺りだとどうしてもずれるところに面白みがでるとおっしゃっておられたそうです。この花札には和歌が書かれています。





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