わたしたちの「ふつう」って?
「わたしの『ふつう』と、あなたの『ふつう』はちがう。それを、わたしたちの『ふつう』にしよう」という愛知県の人権啓発ポスター(2016年)が、一時期話題になりました。
今、目まぐるしく世界が動いています。
本当に第三次世界大戦が始まってしまうのではないかという話まで出ています。
戦争をするしないの境界で「わたしのふつうとあなたのふつうはちがう」……これね、自分たちの日常と同じ世界線で議論してはいけないことって、絶対にあると思います。
戦争をしないのがふつう と、誰もが言い切れる世界で、地球で、生きていきたいです。
世の中が混沌としている現状では、自分の悩みも決断も、塵のごとく小さきものなのだと痛感します。
普段ならば、この小さな悩みや決断を、さも大袈裟に「こんなことに気づいたんです!」とSNSに記録しては、誰かの同意や共感を得ようとするのが人というものですけどね。
世界のことに目や耳、心を傾けながらも、自分の日常は変わらずに進んでいくのですから、何を思ってどう過ごすかというのを、急に変えろというのは、それも違うのではないかなと思います。
遅かれ早かれ変わるべきときに、必然的に変わっていくものだと思うから。
国内でも、大地震や大災害が起きた際に、被災地にいない人がおちゃらけた投稿をしていると、「デリカシーがない」と非難する被災地にいない人がいるのが良い例です。
被災していなければ何を投稿してもいいとは言えませんが、人には人の日常が流れているのですから、それを他人が抑圧するのは、それはそれで別の争い事が生じているも同じことのように感じます。
リアルな日常の身近な仲間内で「こんなデリカシーない人いるんだね!」などと揶揄するのは「どうぞ、ご自由に」ということであって、見ず知らずの人の一時的に流れてきた投稿に、一個人の正義という名の持論を展開するのは場違いかもしれないなと思うようになった今日この頃。
こういうことが「わたしの『ふつう』と、あなたの『ふつう』はちがう。それを、わたしたちの『ふつう』にしよう」と、いうことではないかな? と、わたしは思います。
本当の戦果にいる方々などは、発信する余裕すらないと思います。
くだらないこと、ちっぽけなこと、発信できるのは平和なことなのだということを感じ「ふつうでいられる日常」に感謝しながら、世界の平和を願います。
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ありがとうございます😊
小さくても沢山の幸せを届けられるように頑張ります!