旅の終わり、潮の匂い ―ムニェカ・シン・ロストロ―
(約1,800字/読了目安:約5分)
故郷は、ドミニカ共和国プエルト・プラタ県のソスア。
ヤシの木が並ぶ黄金色の砂浜と、北海岸の大西洋のうねりが響く海辺の町だった。
老人は六十八歳になっていた。
ニューヨークのブロンクスで数十年間、ビルの清掃員や小さな商店の店員として、身を粉にして働いてきた。子供たちはアメリカの文化の中で育ち、それぞれ独立して別の街へ行った。少し年上だった妻にも先立たれ、老人は都会の片隅でひとりになった。
自分の人生の残り時間を意識したとき、老人の胸に去来したのは、ニューヨークの冷たいコンクリートの街並みや雑踏ではなかった。
北海岸の大西洋のうねりと、かつて貧しくも温かかったソスアの海辺の実家だった。
「死ぬ前に、もう一度だけ、あの場所へ」
妻は一度もソスアを見ることなく亡くなった。
だから老人は、妻の分まで海を見に帰ることにした。
小さなスーツケースを一つだけ手に、何十年ぶりかに故郷行きの飛行機に乗った。
空港からタクシーに乗り、ソスアの古い漁村へと向かう。
窓の外には、カラフルなコンクリートの家々が並んでいた。観光地化された華やかなエリアを通り抜け、記憶の地図を頼りに、裏通りの細い砂の道を歩く。

子供の頃に過ごした景色は、変わり果ててしまっていた。
かつて自分がニューヨークから送った仕送りで、兄が建て直したのだろう。自分の記憶にはない、積み上がったレンガに年季を感じた。
実家のドアの前に立ったとき、老人の心臓は激しく高鳴った。
かつて自分がこの海からニューヨークへ旅立つとき、老いた母親が涙を流して自分を抱きしめた、まさにその場所だった。
旅立ちの前の晩、母は一体の人形を差し出した。
顔のない、土の人形だった。当時できたばかりの、モカの職人の手によるものだと言った。
「これをお前だと思って、毎日祈るから。お前の気持ちを、込めておくれ」
顔がないのだから、男も女もなかった。母はその無地の顔に、息子の面影を映すつもりなのだった。
青年だった老人は、照れながらもその人形を両手で包んで胸に当てた。
母は、息子の手の温もりの残る人形を抱きしめ、目に涙を滲ませた。
──そうして、海を渡った。
木製のドアを叩くと、出てきたのは見知らぬ若い女性と、その周りを走り回る小さな子供たちだった。
老人が震える声で、
「私は、ここに住んでいたんだ。兄貴の弟の……」
と名乗った瞬間、女性の目が大きく見開かれた。
「まあ! 叔父さん!?」
彼女は、他界した兄の孫娘だった。
「アメリカの叔父さんが会いに来たって!」
その叫び声とともに、家の中から次々と親戚の若者や子供たちが飛び出してきた。
一度も会ったことがないはずの、ひ孫の世代の子供たちが老人に抱きつき、大げさなほどのハグとキスで彼を囲む。
リビングに通されると、壁にはカトリックの小さな祭壇があり、数年前に他界した兄の遺影が飾られていた。
老人は祭壇の前に立ち、静かに十字を切った。
兄の若い頃の写真は、今、自分を歓迎してくれている孫たちの顔にそっくりだった。
「もう会えないのか……間に合わなくてごめんな、兄貴」
心の中で呟く老人に、兄の孫娘が淹れたての甘いドミニカン・コーヒーを差し出した。
「おじいちゃんが言ってたわ。叔父さんの仕送りで助かってたって」
懐かしいコーヒーの香りを嗅ぎながら、老人は窓辺に飾られた人形に気づいた。
顔のないドミニカの人形。ムニェカ・シン・ロストロだった。
四十年前のあの晩、母が差し出したものだ。
母は約束通り、毎日祈ってくれていたのだろうか。人形には顔がないから、何も答えない。ただ、老いて別人のようになった息子の顔を、拒みもしなかった。
「残っているのは、お前だけか。ただいま」
その夜、老人は実家の古いベッドに横たわった。
目を閉じると、都会のクラクションの代わりに、子供の頃に両親と聞いていたのと全く同じ、深く重い大西洋の波の音が聞こえてくる。
しばらく孤独だった老人の心が、何十年ぶりかに深い安心感で満たされていく。
翌朝、よく晴れたソスアの砂浜。
老人は、兄の孫たちに両手を引かれながら、ゆっくりと波打ち際を歩いていた。
目の前に広がる青い水平線は、かつて若き日の自分が、一攫千金の夢と家族への責任を背負って、命がけで渡ったアメリカへと繋がっている。
故郷を離れ、新しい土地で人生を成し遂げて、青年は老人になって同じ海へ戻ってきた。
輝く太陽の下、はしゃぐ子供たちの声を聞きながら、老人は静かに微笑み、自分の長い旅がようやく終わったことを実感するのだった。

あとがき
夏に聴きたいBGMを考えていると、しっとりとしたラテン系の音楽が脳内に流れてきました。
そこから、昔の金曜ロードショーに出てきそうな、渋いシルエットの似合う世界観の物語が浮かんできました。
BGMチャンネルとしては、音楽のジャンルが少し旅をしすぎたかもしれません。ですが、顔のない人形に記憶を預けるこの物語もまた、「ひとがたの記憶」の系譜のひとつです。
優雅な洋館から、カリブの海辺まで──人形たちは、どこにいても記憶の証人です。
ムニェカ・シン・ロストロ(Muñeca sin rostro)は、スペイン語で「顔のない人形」を意味します。
ドミニカ共和国の代表的な民芸人形で、1981年、モカの陶工リリアナ・メラ・リメによって作られ始めたとされています。
顔を描かないのは、多様なルーツを持つドミニカの人々を、特定の誰かの姿に定めないため。顔がないからこそ、誰の面影も映すことができる──この物語は、その人形の在り方から着想を得ました。
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