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普通ってなんだろう? 人間の中央に立とうとして、空洞になった


はじめに

最近、物事を「分かりすぎている」感覚が強くなった。
それは成長なのか、それとも摩耗なのか、自分でも分からない。
だから、自分とより向き合ってしまって今回のような内容が出来上がった。

今回は一応以下の続きである。

これで若林正恭の作品を引用しているが、若林はやっぱり良いね。
最近ちょっと自分の中で距離ができていたけど、今度出る「青天(あおてん)」は絶対読も。

「普通」の人間とは?

私は「普通」を目指して生きてきた。
その結果、すごく器用になった。色々なことが「わかる」ようになった。
この辺りは前回の記事で書いた。

普通を目指して生きてきたから、自分自身は普通であり人類の中央にいると思っていた。
中央というのは、考え方やコミュニケーション能力、など後天的に身につけられるものの能力値が中央にいるという感覚である。
偏差値などは正規分布するが、すべての指標でその中央にいるイメージである。

社会人になって様々な人に会う機会が増えた。
学生の頃よりは社会人になってから会う人の方が多様性があると思う。
その経験を通して、自分の「普通」の感覚に違和感を覚えるようになった。

「普通」って何?

普通ってなんだろう。
これまで自分が当たり前と思っていたことが通じない。
この違和感にずっと苦しめられた。

人に嘘をつかない、努力する、職責を果たす。
そういうことは、当たり前だと思っていた。

これらが他人にとって当たり前ではないと知った時、
自分の中にたくさんの、普通、当たり前、があったことに気づいた。
ただ、今でも思う、これって当たり前だよね、って。これはもう仕方がない、だって思っちゃうんだもん。

そして理解した。
自分の「普通」は自分が勝手に設けた基準だった、と。

よく考えれば普通なんてないよなと思う。
テストみたいに正解があるものであれば普通という基準を設けられるかもしれないが、
人がどう生きて、どうゴールするかに普通とかないよね。

しかし、しかし、である。
普通がないと言っても、全くない、本当にゼロとも思わない。
「常識」という言葉がある以上、みんなの中に少しは普通はあると思うし、暗黙の了解もあると思う。

人間の存在価値は絶対的なものではあるのだが、常識に始まる、相対的なものさしもあるのだろうから、
どちらか一方ではなく、両方のバランスが大事なんだろうなと思う。
これまでの私は、片方の重みが多かったのだと思う。

立場と生き方のジェネラリスト

ジェネラリストとは

これまで書いたように私は「普通」を目指していた。
その結果、「ジェネラリスト」になっている気がする。
ここでいうジェネラリストとは、特に強みはないが全てだいたいできる人間である。

この概念について、ハライチの岩井が分かりやすい例を出している。
少し長いが引用する。

まず澤部って、ファンがいないんですよ(笑)。「澤部“も”好き」って人はいるかもしれないけど、「一番好き」っていう人はいない。同世代でいったら、澤部はいちばんテレビに出ていて、売れてる芸人だと俺は思いますが、「ゴールデンのバラエティーにいっぱい出たい」という意味ではなく「澤部みたいになりたい」って芸人を、ひとりも聞いたことがない。
芸人がよく、「澤部は六角形(レーダーチャート)でいったらきれいな六角形だな」って言うんです。それって、見方を変えれば何も一番ではないってことですよね? でも総合力でいえば、今澤部に勝てる芸人は1人もいないと思うんですよ。
・・・
そう、あいつには実体がないんです。たとえば、澤部は洋楽が好きで、俺はスピッツが好きです。俺は「なんで好きなの?」って聞かれた時に、「ボーカルの草野マサムネさんの声が良くて、歌詞が押し付けがましくなくて、ライブで音源からの再現性が高くて、ベースの田村(明浩)さんが暴れるのもよくて……」といろいろ挙げられるけど、澤部が「なんで洋楽が好きなの?」と質問された時に「かっこいい」以外の答えを返しているのを聞いたことがない。つまり、自分の中に説明できるような理由がないんですよ。洋楽に限らずすべてのことに対して、人が「良い」と言っているものをそのまま「良い」と思っているだけで、あいつ自身なんてどこにもいない。つまり実体が「無」なんです。

https://www.asahi.com/and/m/article/15785904

これは2018の記事である。
当時これを読んで、俺のことだと戦慄が走った記憶がある。
うわー、これ俺のことだ。中身ないもんって思った。

そこから、「何者か」になろうと、自分に色々足していった。
知識、教養、技術力、などなど。
だが結局は何者にもなれなかった。
どこも尖らず総合地が上がっただけだった。

生き方がジェネラリストになると自分がなくなる

これまでの人生で自分に足りないものを足して生きてきた。
だから私は器用な方だと思う。
失敗しながら自分に何かを足す経験を何度もしてきたから、何かをできるようになることについて抵抗なく立ち向かえる。

自分にできないことをしている人を見ると、それを真似て吸収して自分のものにした。
それを繰り返してきた。その結果、器用になった。
そして、今思う、
この世界で何がしたいのか?
何かを得るために生きているの?
普通の人間になって何がしたいの?

立場としてのジェネラリストになることは良いと思う。
誰に肩入れするわけでもなく、中立的な立場にいる。
誰を攻撃するでもなく、理解する。
多様性を地でいくような。

しかし、生き方もジェネラリストになると、自分が消失する。
そこに自分がないから。
誰かのしたいことを自分がしたいことと思い込んでしまう。

澤部が「なんで洋楽が好きなの?」と質問された時に「かっこいい」以外の答えを返しているのを聞いたことがない。つまり、自分の中に説明できるような理由がないんですよ。洋楽に限らずすべてのことに対して、人が「良い」と言っているものをそのまま「良い」と思っているだけで、あいつ自身なんてどこにもいない。

https://www.asahi.com/and/m/article/15785904

まさにこれである。
この表現すごくわかる。
本当に自分もそう思う。

この生き方をしていると生きやすい。
誰かにとって都合の良い自分になれるから評価もされやすいし、認められやすい。

けど、「自分」がなくなる。

じゃあどう生きるのか?

つらつら書いたのだが、どう生きるのが良いか結論はない。

しかし、生き方としてのジェネラリストを目指すのは、今の自分にとっての将来を考える上で、意味がないと思う。
ジェネラリストの立場はとっても良いと思うが、「生き方」はそうしてはいけないのだと思う。

立場としてはジェネラリストでいい。
でも、生き方はジェネラリストであってはいけない。

多分「尖る」のがいいんだろうなと思う。
でも、分からないのが、妻には今でも十分尖っていると言われることだ。

会社で思ったことは基本的に言う。
自分が間違ったことを言えば謝る。
けど、あまりにも受け取っている給料に見合わない仕事しかしない人に対してはちゃんと仕事しろと言ってしまう。
だからよく上司とギスギスしてしまう。
けど、こんな自分を受け入れてくれる人もいる。

プライベートでは人を選ぶ。
会社で働いている人は給料をもらって働いている。だから、その給料に見合った職責を果たさないといけないと考えている。
しかしプライベートでは職責とか関係なく、重要なのは楽しさなので、それを優先する。
話が逸れた。

こんな感じで、尖っているのだが、これ以外の尖り方が分からない。
とは言いつつ、「自分」を見つけるにはこの尖り方ではない、尖り方を模索しないといけない気がする。

ただ、まだ正解はない。

終わりに

今日ももやもや、つらつら思うことを書いた。
うーむ、生きるとは本当に難しい。

嫌われる勇気には人生はシンプルだと書かれていたのになぁ。
うーむ。

では今日はこの辺で。
今日も持ち場で頑張りましょう。©️青木真也

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