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関ヶ原の事後処理 ~大坂の陣を回避せよ~

1600年、関ヶ原の戦い。その後。

『東軍と西軍が「一大決戦」を行って、
「総力戦」の末、徳川家康が勝った。
この勝利で家康は「すぐ」天下を握る…』

そんな「誤った」イメージがとても強い。
言わば『天下分け目の戦い』ですけれども、
実際は「勝利、即、天下」ではありません。

関ヶ原にいた人たちの他にも、
家康の敵はたくさんいたからです。

…彼らをどう扱うべきか?
「勝者」としてどう振る舞うべきか?
家康は、関ヶ原の戦いを
天下分け目の戦いにしていきます。

本記事では関ヶ原の戦いの後の事後処理
大坂城に焦点を当てて見ていきます。

◆1600年9月15日:関ヶ原の戦い

全国の大名は驚いたことでしょう。
家康が「一日」で電撃的に勝利を収めて、
長期戦となると思われていた
東軍VS西軍の戦いが「すぐ」終わってしまった。

…この当時「関ヶ原だけ」で
戦いが起こっていたわけではありません。

◆東北:上杉 VS 伊達・最上
◆九州:西軍諸侯 VS 加藤・黒田官兵衛など
◆大坂:毛利輝元と豊臣秀頼・淀殿がいる

そもそも関ヶ原の戦いは、
東の上杉家を討伐すべく西から家康が向かい、
その中で石田三成・毛利たちが挙兵したので、
西に戻って家康が関ヶ原で
石田三成たちを倒した、という戦い。

カウンターアタックです。

長期戦になる「前」に、
短期戦を仕掛け、敵の中核を打ち破った。
敵の包囲網ができる「前」に、
家康は三成の野望を粉砕した。

この点において、家康の勝負勘は凄い。
若い頃からずっと武田信玄・信長・秀吉などの
天才たちと渡り合ってきた人です。
ゴールへの嗅覚、勝負勘が冴えている。

…しかし、勝って終わり、ではありません。

むしろここからが本番。
関ヶ原の戦いの「局地的な勝利」を、
「大大大勝利!」に仕立て上げる必要がある。

最優先で考えなければならないのは、
大坂にいる毛利輝元と豊臣秀頼・淀殿です。
毛利輝元が、もし大坂城に籠城すれば、
「大坂の陣」を行わなければならない…!


それを防ぐためには、
「自分は正義、歯向かうとひどい目に遭う」
「自分は官軍、歯向かう者は豊臣家への謀反人」
そんな立ち位置を明確にする必要があります。

そのために、関ヶ原の戦いで敗れた
石田三成たちを「謀反人」にしていきます。
主犯は三成。それを討った自分は忠臣。
豊臣家を一番大事に思っているのは家康だ!
そのように思わせる。情報を操作していく。

戦場から脱出した石田三成は、
大坂城を目指して逃亡中でした。
何としても捕らえなければいけない。
大坂城で再起させてはいけないのです。

三成もそれを知っていたからこそ
逃げたのでしょう。
関ヶ原の負けは前哨戦。本番は大坂城。
自分さえ生きて逃れれば、まだ勝算はある…!

しかし家康、そこは容赦しません。
徹底的に動きます。

◆9月18日:佐和山城落城
◆9月21日:石田三成、近江の古橋村で捕縛
◆9月22日:三成、大津城に護送

まず大軍でもって
石田三成の本拠地、佐和山城を落とす。
三成の父、兄、一族の多くは自刃。
真相を知っている関係者を消します。

次に、田中吉政という近江出身の
よく地理を知っている武将を使って、
徹底的に三成を探索させる。
関ヶ原の6日後、潜伏していた三成を捕縛。

その三成を大津城に送り、
その門前に「生きざらし」にするのです。
言わば「この人が犯人です」と皆に知らしめる。

◆9月27日:大坂に護送
◆9月28日:小西行長・安国寺恵瓊と市中引き回し
◆9月29日:京都に護送
◆10月1日:六条河原で斬首

このあたりが凄まじい。
「悪いのはこの人たちですよ!」と
見える化して、天下に分かりやすく知らしめる。
(注:当時はスマホもSNSもありません)

小西行長は、朝鮮出兵の際に
明と和睦交渉を行った人物です。
その際に、加藤清正と決裂している。
清正は行長が憎くてたまらない。
その人を「極悪人」として処刑します。

安国寺恵瓊は、毛利軍の「外交僧」です。
豊臣秀頼の傍にいた毛利輝元ではなく、
彼をこそ「極悪人」として処刑します。
曰く、安国寺恵瓊が西軍諸侯をそそのかして
挙兵させた、ということに「する」。

悪いのは三成・行長・恵瓊である。
加藤や毛利は悪くない。

その姿勢を打ち出す。
真相を知る人たちを消していきます。
死人に口なし、と言います。

…その間、毛利輝元はどうしていたのか?

関ヶ原から退却してきた毛利秀元、島津義弘、
また、関ヶ原に参陣しなかった
立花宗茂たちから籠城を迫られていました。
この提案は、当然でもあります。
大坂城は天下の名城。
名将の島津義弘や立花宗茂もいる。
まだ勝負は分からない…?

もちろん家康、先手を打ちます。

◆9月17日:輝元に「良好な関係を望む」と書状
◆9月19日:家康に所領安堵についての質問返信
◆9月25日:全所領安堵の起請文を受け取り退去
◆9月27日:家康、大坂城の西の丸へと入城する

…要するに「敵ではない」と輝元を安心させ、
全所領安堵を約束し、大坂城から退去させた。
戦わずして勝つ。
見えにくい勝負ですが、関ヶ原の戦いと
同じくらいの家康の冴えっぷりです。

それと並行して三成たちの「市中引き回し」
京大坂の人たち、各武将、豊臣家の人々は
これらを情景を見てどう思ったのか?

「悪いのは大乱を起こした三成たちやな」
「毛利軍は戦わずに所領に帰っていった」
「三成たちが大乱をそそのかしたんやな」
「大坂が火の海にならずに済んだ」

そう印象付けられたことでしょう。
実際、小早川は西軍についている。
吉川・毛利は関ヶ原で東軍と戦っていない。

…しかし、大坂城に入った家康は、
「輝元の花押が押された書状」を
多数発見することになります。

実は、毛利輝元こそが首謀者?
西軍の総大将として動いていたのでは?

◆10月2日:毛利家改易・全領地没収を通達

家康としては豊臣家・西軍生き残りを敵に回し、
大坂の陣を(この時は)起こしたくなかった。
毛利輝元を、城から平和裏に追い出した。

しかし、後から、約束を反故にしたのです。

…ただ一つ、私が疑問なのは、
そんな「犯人の証拠」になりそうな書状を
わざわざ大坂城に残していくものなのか?

真相は藪の中ですが「仕立て上げた感」が
かなり強いように私には思えるのです。

最後にまとめます。

本記事では、関ヶ原の戦いの後の
「事後処理」について書き出してみました。

その後、毛利家は存続を許されるものの、
山陽・山陰「8ヶ国」から
周防・長門「2ヶ国」に減封
され、
輝元自身は隠居に追い込まれます。

全所領安堵の約束は消えて無くなった。

こうした中で生まれた「長州藩」が、
密かに島津家と「薩長同盟」を結んで
江戸幕府に対して死闘を演じるのは、
約260年後、幕末のことです。

※戦わずに大坂城を明け渡した毛利輝元には
手厳しい評価が下されがち。
しかし最近では再評価もされています↓

※関ヶ原に至る「バタバタ」はこちら↓
【実はバタバタで始まった関ヶ原】

※関ヶ原の「前」はこちら↓
【京極高次 ~失敗の蛍か、成功の光か~】

◆宮下英樹さんの漫画『大乱関ヶ原』↓

斬新で興味深い視点から
関ヶ原の戦いを描いた漫画です。

合わせてぜひどうぞ!

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