関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件② 「通牒が招いた自警団の結成」
↓前回の話
第3節|埼玉県当局の通牒と自警団の発足
流言が爆発的に広がる中、それを決定的に加速させたのが、埼玉県当局自身の行動であった。
埼玉県内務部の通牒(行政による公式な通知)
9月2日の夕刻から夜にかけて、埼玉県内務部は各郡役所に対し、電話で次のような趣旨の通物(移牒文)を発した。
「東京で暴行を働いた不逞鮮人(当時、官憲や民衆が朝鮮人を危険視する際に用いた蔑称的表現)が、川口方面などから本県に入り込んでくるかもしれない」
ありもしない「不逞鮮人の放火・暴行」を、官憲の権威によって事実と認める形となったこの通牒は、内務省の意向が働いていたとみられている。通牒は各郡役所から末端の町村へと伝達されたが、その過程で内容はさらに刺激的に変質・拡大され、各地で激しいパニックを引き起こした。
第2節で述べた内務省の全国打電と、この埼玉県内務部の通牒。国と県の二重の「お墨付き」が、流言を動かしがたい事実へと変えた。
自警団の結成
通牒を受け、また避難者たちの訴えに突き動かされ、埼玉県内では9月2日の夕刻から3日にかけて、次々と「自警団」が組織された。その数は県内で約300にのぼったといわれている。
中心となったのは、消防組、在郷軍人会、青年団といった地域の既存組織である。地域によっては「各戸より1名」を出すような規模のものもあった。

武装と活動
自警団員たちは、手近にあったあらゆるものを武器として握った。日本刀、長刀、竹槍、つるはし、棍棒、短銃。ただし大部分は竹槍や棍棒であったとされる。
武装した自警団は集団を組み、各地の街道筋に検問所を設けた。通行する避難者を誰何(すいか=問いただすこと)し、言葉がおかしい者や朝鮮人とわかれば、警察へ引きずっていくか、その場で集団で暴行を加えた。
警戒は街道だけではなく、列車内にも及んだ。自警団は東北線や信越線の各駅で列車に乗り込み、車内を点検して回った。怪しいとみた人物を引きずりおろし、逃げ出せば狂暴に追いかけ回して虐殺した。
「公認」された自警団
特筆すべきは、これらの自警団の活動が事実上、行政と警察によって公認されていたという点である。
資料によれば、警察は自警団の詰所を回って警戒を呼びかけ、激励まで行っていた。入間川町や入間郡福岡村では日本刀や槍を持ち出した武装自警団が村の辻を固め、平方村(現上尾市)でも自警団が組織されて警戒にあたった。寄居などでは、警察自身が自警団の詰所を回って警戒を呼びかけ、激励を行っていた事実も記録されている。
つまり自警団は、民衆が自発的に立ち上げた完全な私的組織ではなかった。県当局の通物という「明確な指示」、警察による「激励と黙認」、郡市町村という「行政の枠組み」──これらの上に成り立った、半官半民の武装組織であったといえる。

戒厳令と、遅すぎた歯止め
9月4日、埼玉県にも戒厳令が拡大された。当局は自警団の暴行を抑えるために武器の携帯を禁じたが、その時にはすでにほとんどの虐殺事件が発生した後であった。
また、県は9月4日・5日・6日と立て続けに流言を打ち消す新たな通物を出した。しかしその文面は、「鮮人は必ずしも不逞の者ばかりではない」「現在県内にいる少数の朝鮮人は善良な者である」というものであった。裏を返せば「危険な不逞鮮人」の存在を肯定することに他ならず、かえって民衆の恐怖と不安を煽った。
「火をつけたのは県当局自身であり、火を消す手立てすら誤った」──そう言われても仕方のない経過である。
ちなみに──震災下のもうひとつの国家暴力
関東大震災の混乱に乗じて排除されたのは、朝鮮人だけではなかった。9月4日には亀戸警察署で労働運動家・川合義虎(22歳)ら10名が憲兵によって殺害され(亀戸事件)、9月16日にはアナキストの大杉栄、その伴侶・伊藤野枝、そしてわずか6歳の甥・橘宗一が、憲兵大尉・甘粕正彦によって絞殺された(大杉事件/甘粕事件)。甘粕は軍法会議にかけられたが、それはなれあいの茶番劇であったとされる。
戒厳令のもと、国家が「危険分子」とみなした者を闇から闘へ葬る──朝鮮人虐殺と根を同じくする構造が、ここにもある。
なお、甘粕事件については以前noteで詳しくまとめている。関心のある方はそちらもぜひ。
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