怒りの発達を防ぐための最も有効な方法は、相手を自らと平等と見、過度に期待することをやめ、謙虚さによって、自らの欲求を満たすことを神に明け渡すことです。
『I<わたし>真実と主観性』デヴィッドRホーキンズ著 P258~261
第12章 感情 怒り
怒りは幼年期に始まり、これは自己陶酔的な欠乏感に由来します。その起源は、先天的に食料や縄張り、交尾の相手をめぐって競い合う動物世界の中に見ることができます。より洗練された成人期においては、怒りはより入念なものとなり、”善”対”悪”、”罪”対”無実”、あるいは欲求不満を生み出す期待などの立ち位置や社会問題に適応されます。
知覚が自我に脅威の信号を送ると怒りが生じ、すると自我は元の動物的な反応に退行します。子供の時分は、欲するものの前に立ちはだかるように見える大人という象徴に怒りをぶつけます。怒りの元は精神内部にあっても、それは外部に投影されるのが常で、相手を脅かしたり、支配したりするために用いられます。
怒りの当事者から観察者の視点に焦点をシフトすると、自我の立ち位置としての自己陶酔的な過度の期待が、本人を怒りっぽくさせていることがわかります。怒っている人は、密かに自分が欲望や願望を抱いて当然であると思っており、人生に対して実現不可能な期待を持っています。また、怒りは態度や脆弱な自我の立ち位置となって表れます。それは、健全な自己主張ではなく、攻撃性につながります。
こうした怒りに対する基本的な解毒剤は、謙虚さです。謙虚さは、怒りに養分を与える自己中心性を相殺します。怒れる人の幼児性は、人生の不公平さをののしりますが、実際にそれは子供っぽい癇癪と甘えから来ています。自己陶酔性は、欲しいものを手に入れてしかるべきだという信念を生み出しますが、それは自我の自己陶酔的な核心においては、自己のみが過度に重要視されているからです。宇宙が自我の要求に対して無関心であることがわかり始めると、幼児性は激しく怒りだし、対人間葛藤のパターンにはまりこみます。そして怒りは、操作の対象としたり、欲求不満の矛先とするための第三者を支配するという無益な試みを始めるのです。
怒りの発達を防ぐための最も有効な方法は、相手を自らと平等と見、過度に期待することをやめ、謙虚さによって、自らの欲求を満たすことを神に明け渡すことです。執着の度合いを軽減し、自我の要求と期待を放棄することによって、怒りは和らぎます。
いわゆる義憤は、立ち位置や相手に対する期待といった道徳観が肥大化したものです。憎悪を伴って、怒りは外的な敵に向けられますが、それは自らのうちにある憎しみの傾向を、象徴的な存在に投影しているにすぎません。”罪を憎む”ことも憎しみに変わりありませんから、その憎しみゆえに道徳的に優位になることはできません。”罪を憎む”ことは、誤りが誤りを非難するという矛盾を生み出します。罪人に対して憎しみの拳を振り回すことが、独善的な民衆煽動以上に恩恵を得ることはありません。
霊的な誤謬が生じる最大の原因は、同じ土俵と現実のレベルにあるかのように、異なる領域を混同してしまうことにあります。クジラは虎と争うことはありません。異なる世界に生きているからです。神が悪のフォースと戦うという概念は、罪悪感に支配された恐怖のファンタジーが生み出したものであり、実際にはそんなことは不可能です。「真実」においては、天国や神、あるいは「究極の真実」の純粋性を脅かすものなど存在し得ないのです。「真実」は存在しますが、架空のものは存在しません。「真実」が架空のものによって脅かされることはあり得ません。
善と悪のフォースが対峙し争うことができるのは、低い霊的次元や人間の想像の中に限られます。人間の想像は、映画のように不可能なことをリアルにし、映画『宇宙戦争』のようにグラフィックな交流を描き出します。
心は常に真偽を見極めることができず、特に原始的な心はなおさらそうであることを思い出すとよいでしょう。神話や寓話、叙事詩は、運命に対して怖れや希望を抱く人間のニーズを満たしてくれます。それらは詩的には美しいものですが、事実ではなく、霊的な真実を反映したり、絶対的な真実を表すものではありません。真実ではないものを非難することができるでしょうか。存在あるもののみが、責めを受けることができます。真実でないものは、「真理」の中では公民権を持たないのです。
『黙示録』(測定値70)は何世紀にもわたって宗教煽動家によって利用されてきました。その著者であるヨハネは70に測定されています。騙されやすいナイーブな民衆は、操作と脅迫の格好の餌食となります。これまで何世紀にもわたって、数知れない霊媒師や預言者が低い霊的次元のドラマの中に埋没していきました。そして何度も、盲信者は、”終末の時”に備えました。数え切れないほどのカルトや宗派が、繰り返し出現する世紀末伝説に夢中になり、感化されやすい人々の想像を駆り立て、虜にしてきました。すべての伝説は、人間の集合的な罪悪感や怖れ、霊的無知に加え、”選民”であるという希望的プライドや、自分は特別扱いをされるにふさわしい少数者であるという考えから生まれています。
虚偽はフォースと怖れを基盤にしています。真理はパワーを基盤にしています。虚偽は幻想に基づいているので、恐ろしく感じるのです。真理は怖れや攻撃を超越しています。虚偽は先天的なパワーを有していないので、人々の忠誠によってしか影響力を持つことができません。恐ろしい”終末の時”は低い霊的次元に該当するもので、そこでは虚偽の幻想があたかも実在するかのように扱われます。
意識レベル150 怒り、報復、敵対、憎しみ、攻撃性
明け渡しのプロセス
霊的探究者ならば誰でも、神へ至る道はすべて、明け渡しがその核心であることを知っています。しかし、明け渡しとは何であるか、またどうすればできるのかについては明らかではありません。確固たる技術がなければ、探究者はコンテント(内容/中身)を明け渡すために何年も費やし、以前から一歩も進んでいないと嘆くことになります。心(マインド)はわき目もふらず、果てしなくコンテントを創出し続けるので、いくら明け渡しても間に合いません。これでは、負け戦です。
次に求道者が耳にするのは、コンテントではなく、コンテントに対する執着心が問題なのだということです。これを聞いて、しばし安堵するかもしれませんが、すぐに次の疑問が頭をもたげます。では、どうすれば執着心をなくすことができるのだろうか?
最上の霊的な目標に向かって献身することによって、自我の欠陥が浮上してくる傾向がありますが、それは当然のことと言えるでしょう。欠陥は、生得的自我の構造の中に組み込まれているものなので、個人的にとらえるべきではありません。自我は本来の”あなた”ではありません。人間としての生を受ける一部としてあなたが受け継いだものです。

今回が、169記事目です。数霊/かずたまで、花鳥風月169、準備169、渡し舟169。姉のTOMOが、マヤ暦KIN169です。みんなで愛と慈しみで、地球を磁場調整して、次元上昇エレベーターに乗りましょう。
