わたしたちは自分自身を赦し、受け入れると、自然に他者を赦すことができるのです。
【Q:自我が生物学的起源から生じ、遺伝子にも浸透し、社会もそれを強化し、根強くプログラミングされているならば、果たしてそこから抜け出すことができるのでしょうか?】
A:自我を超越することは可能です。大事なのは、自我の習性ではなく、それと”わたし”を同一視してしまうことが問題ということです。
わたしたちは自我を”それ”として受け継ぎました。そして、実際に”それ”は非個人的なものです。あなたがそれを自分だと思い、同一化したときにはじめて問題が生じます。”それ”という自我の構造は、それほどユニークでも特徴的なものでもありません。多少のカルマの違いがあるだけで、比較的誰でも似たような”それ”を持っているのです。本当に人によって違いが出てくるのは、そのプログラムにどこまで隷属的に従っているかの程度です。つまり、自我の大小は、どこまで当人がそれと同一化しているかによります。自我は本来何のパワーも持っていません。あなたが霊的に成長するにしたがって、自我のプログラムの影響を減少させるパワーが劇的に増加していきます。これが「意識のスケール」の本当の意味です。
自我のプログラムにすっかりはまっているとき、気づきや洞察なくしては、自分自身を助けることはできません。そういう人を見るとわたしたちは、あの人は欲、あるいは憎しみ、怖れ、中毒、プライドによって”動かされている”と言います。こういうときに仮説や道徳の立ち位置を持ち出して、”あの人はこうすべきだ”と指摘するのは誤りです。実際にそれは、まったくの筋違いです。無意識的に行動するというのは、ただその言葉どおりで、”罪”というのは意識の進化の限界を表しているにすぎません。この限界のことを、ブッダもイエスも”無知”と呼びました。意識の進化がグラデーションで表されるように、ある人たちは他の人たちよりも道の先にいます。この単純な事実がわかれば、赦しと思いやりが、怒りや怖れ、憎しみ、非難に取って代わります。わたしたちは自分自身を赦し、受け入れると、自然に他者を赦すことができるのです。


もう一度繰り返します。
わたしたちは自我を”それ”として受け継ぎました。そして、実際に”それ”は非個人的なものです。あなたがそれを自分だと思い、同一化したときにはじめて問題が生じます。
同一化しなければ、問題は生じません。
ここでいう問題も、問題として捉えているかいないかの、意識の進化でかわってくると思います。いわゆる、無知であることを受け入れる真の謙虚さを意識することからだと思います。自分を赦すとは、いろんな執着、自分自身に魅了されている執着も手放そうとする意識と思っています。自由意志である意識が全ての動機のスタートで、これが、霊的探究の道のりです。
今回の記事が180記事目です。戦国武将 龍造寺隆信 1529/3/24 KIN180がでてきました。
追記
3年3か月前に創っている動画です。伝える基本は何も変わっていないので、つけておきます。繰り返し繰り返し伝えていますが、なかなか、まだまだ、理解できる人はとても少ないです。でも、同じ人間なので、体験と共に腑に落ちる時が必ずやってくると思っています。
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