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ニサルガダッタ・マハラジ(測定値700の覚者)|愛と平和のわかちあい/Sharing Love and Peace

ニサルガダッタ・マハラジ 1897/4/17 KIN104-1981/9/8 KIN228

Q:伝統的に馴染みのある霊的浄化の実践方法以外にも、推奨される数々の方法があります。たとえば、ラマナ・マハルシが説く「自己探究霊的探究」もそのひとつです。これは本当に有効なのでしょうか?

A:聖者たちの教えはすべて貴重です。ラマナ・マハルシの教えは700台に測定されます。同時代のもう一人の覚者、ニサルガダッタ・マハラジと同様に、彼は近代の聖者であり、言葉が逐一記録されていることは非常に貴重です。マハルシは、霊的な求道者には、次のふたつの主要な道が開かれていると説きました。

1.自らを完全に神に明け渡すこと。
2.「自己探究霊的探究」によって、「自己」(真我)愛が基盤の気づいている心を実現すること。

二番目の方法は、求道者が常に心の中で「わたしは誰か?」と問い続けることにかかっています。意識の焦点を内面に向けることで、外的な世界から脱出し、「意識の光非顕在・パワー」である「内なる臨在本当の自分」を発見するという方法です。(「わたしは何か?」と問うほうが、「誰か?」よりも有効です)。
マハルシの言葉を映写機にたとえて説明すると、「自己」本当の自分の光である電球がフィルム上の形象、すなわち自我エゴの知覚や立ち位置、信念というコンテント内容・中身を照らし出し、意識のスクリーンに映画として映します。それを見て、未だ覚醒悟りに至っていない人は、映画の中に形があるのだと勘違いしてしまいます。
マハルシは、内なる霊的なハート愛が基盤に気づき、それをしっかりととらえることが重要だと述べています。内なるハート愛が基盤は、効果的な瞑想の焦点でもあります。彼はまた、仕事をしながらでも、絶えずこの方法を実践し続けることが重要で、必ずしも隠遁いんとんする必要はないと説いています。マハルシは、自我エゴの正体について言及していませんが、人間のオーラを形成している七つの霊体について具体的に述べています。生徒たちが満足のいく結果を得られないとき、彼は頻繁にニサルガダッタ・マハラジのもとを訪ねるように促しました。マハラジは、当時もまだ教えを説いており、そのスタイルはより無骨で挑戦的でした。
別のところで述べたことですが、マハラジは覚醒悟りに達すると(測定値700)、それまでの仕事や家族から離れ、ボンベイから歩き始め、表向きはヒマラヤまでたどり着いたと言われています。しかし、実際は途中で家に戻るように説得され、ビディーショップ(インドのタバコ屋)の上にある小さな屋根裏部屋で、訪問者に会っていました。マハラジは、一九八六年頃に亡くなりました。彼の霊的な実践法は、師の真理パワーに完全に帰依し、全託するという姿勢を基盤にしていました。興味深いことに、彼の通訳であり、長年側近として行動を共にしていたラメッシ・バルセカールも覚醒悟りに至り、後に数多くの本を執筆しました。
ラマナ・マハルシが覚醒に至った当時、彼は霊的な献身者ではなく、先祖代々の宗教をごく普通に信仰する青年でした。それがある日突然死の感覚に襲われ、自らの死を体験するのですが、彼はその後も肉体が生きていることを発見し、驚いたようです。その後二年間、彼は言葉を発することなく、友人の手によって命をつないでいました。彼が黙している間に、自分こそがマハルシの師であるとふれまわり、堂々と信者を集める地元の偽グルまで現れました。残りの生涯、マハルシは自らのアシュラムを離れることなく、一九五〇年頃に亡くなりました。

I<わたし>真実と主観性真実度999』デヴィッドRホーキンズ著 P353~354

すべての出来事は必然ベストタイミングで、2025/8/1 KIN130にどなたかがアップされた、わかりやすいニサルガダッタ・マハラジの動画があったのでわかちあいさせて頂きます。

Q:覚醒悟りを真剣に目指している探究者に何かアドバイスはありませんか?

A:霊的なコミットメントとは、あなたの人生の意味と目的を再構築することを意味しています。この作業は、人生を日常生活と霊的精神性な修行に分けてしまわないように、すべてを含んだ全体性を見て進めなければなりません。人生のあらゆる出来事は、霊的精神性な実践の機会となります。というのも、コンテクスト文脈/状況が優勢となり、コンテクスト文脈/状況は活動や思考コンテント、時のすべてを包含しているからです。このような安定した視点を持つことで、すでにいくらかの無執着を実現することになります。
この視点を実践するうえでの要点は、人生で起こってくるあらゆるコンテント考える心・思考に対し、いかなるコメントも批判も、価値判断も持たずに、ただ眺めることです。その一貫した姿勢を言葉にするなら、「~はそのように見えている」です。観察者/目撃者は、人生に対してコメントしたい欲求がなくなり、それによって解釈、好き/嫌い、魅了/嫌悪、反論、異議などを超越することができます。
人生はおのずと展開し、そこにコメントは必要ありません。目撃したことにいちいち編集を加える習慣は、自発的に神に明け渡さなければなりません。
無執着もひとつの考え方のように見えますが、それは立ち位置ではなく、非-立ち位置です。層状になった気づきのレベルのチャートを見ればわかるように、観察者/目撃者はすでに通常の自我エゴの拘束から一歩脱出した段階です。コメントせずにただ観察することを実践することによって、心(マインド)自我(エゴ)は静かになり、人生で起こってくる出来事すべてに”わたし”自我(エゴ)を投影する自我エゴの習慣を段階的に捨て去ることができます。それが達成されると、人生は個人的なものではなく、非個人的なものであることがわかります。
また、この実践によって、通常のマインドががんじがらめになっている、人生の細かな出来事に巻き込まれなくなっていきます。平安とは、気づいていながらも関与せず、”わたし”自我(エゴ)の感覚がコンテント考える心・思考から体験者へ、体験者から観察者/目撃者気づいている心へと推移することによってもたらされます。

I<わたし>真実と主観性真実度999』デヴィッドRホーキンズ著 P368~369

Q:それは無関心に繋がりませんか?

A:確かに、わたしたちが、”神性の無関心”と呼ぶものにつながります。平和な心には、思考も意見もありません。知っている状態が考えることに置きかえられるので、人生の必要条件を満たすためのコメントはいらず、必要だと信じられているもの(思考)コンテントは、無用であることがわかります。精神活動は、夕焼けや甘美な旋律の圧倒的な美を、損なってしまうのです。
内なる静寂が浸透するには、すべてのことはおのずと起こり、何かが何かの原因となることは決してないということを理解し始めることが入り口になります。起承転結の構造は、精神の遊びにすぎないことを認識しなければなりません。

I<わたし>真実と主観性真実度999』デヴィッドRホーキンズ著 P369~370
真理の入り口 見える化
ベースはChatGPTで創造。見える化

今回が、194記事目になります。ただ眺めることです。その一貫した姿勢を言葉にするなら、「~はそのように見えている」です。眺めるがとても適切な言葉だと思いました。数霊・かずたまで、眺めるを数字にすると、149でした。194記事目を並べ替えると、149になるので、ばっちり必然と思いました。眺72める77 眺める149


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