「本当の自分」は答えを知っている。愛と平和の啓蒙/Enlightenment of Love and Peace

繰り返しますが、謙虚さは何度言っても足りないほど重要な事実を受け入れる姿勢をつくります。ーーーその事実とは、人間の心は真偽を見分けることができないということです。
届け君の本当の自分、本当の自分を思い出せ
Q:あなたは、さまざまな性質を個人的特質ではなく抽象概念として取り上げているようですが。
A:人生をさまざまな性質が相互作用していると見るのは、解放的なことです。そこに個人性を持ち込む必要はありません。立ち位置はプログラムであり、真実の自己ではありません。世の中は数限りない地位や立場を呈示していますが、それらは恣意的な仮定にすぎず、まったくの虚構です。わたしたちはそれに同意することなくただ観察し、世の中がそれをどうとらえ、それにどのような価値を置いているのかを尊重することもできます。わたしたちは世の中の見解を十分理解したうえで、そこから自由でいることもできるのです。
また、わたしたちには、ある性質や立場に同意する自由も与えられています。それが完全に自由意志に委ねられていることを認識することが大切です。すべての立ち位置は自発的です。霊的探究が進むにつれて、より原初的で公理的な立場に対面することになります。やがて信念体系や思い込みが明かされ、最終的に自律的で独立した自己の真理そのものが考察の対象となるでしょう。あらゆる信念体系を分解することによって、次のような問いに行き着きますーーその立場に固守しているのは”何か”、それを信じているもの、選択しているものは何か、そしてそれに管理されているものは何か。成長が進むにつれ、主要な自己の感覚は、精神活動の操作センターと一致するようになります。
わたしたちが”誰”と思っているものが、実は”何”であると想像してみてください。突き詰めていくと、それは単に機能であって、まとまりのある独立的な存在ではないことがわかります。それは信念体系であり、すべての性質は自律的に働いているのです。思考や感情はおのずと起こっています。さまざまな形態の精神活動は何の断りもなく、ただ自発的に起こります。”わたし”という独立した自律的な存在は仮定にすぎません。人間の機能を司る操作センターを含め、あらゆる活動は自発的に起こっています。この操作センターは、トランジスタ・プロセッサ・ユニットのように、自動的に識別し、分類・仕分けし、記憶し、比較し、評価し、整理し、観察し、記録します。そしてこの中枢ユニットが”わたし”であることに同意し、それと同一化しているのです。すると今度はこのユニットが、非難や賞賛、怖れ、生存への不安や心配の対象となります。よきにつけ悪しきにつけ、そこに感情がつきまといます。また、快楽をもたらすか痛みをもたらすかといった帰結や立ち位置が、自動的に選択に大きな影響を及ぼします。
しかしこれらすべてを理解したとしても、最終的に既知の核心を不可知に明け渡すには、非常な勇気と信念、神に対する信頼が必要となります。そして最後の瞬間には、疑念の残党と存在の恐怖が奥底からわき上がってくるでしょう。そのときに「何が起ころうとも、ただまっすぐに進みなさい」というマスターたちの教えを思い出し、全信頼を託してください。するとその言葉が本物であったことが証明され、最後の大きな障壁の向こうに神の栄光が待っていることでしょう。
真理は唯一、体験することによって実証可能です。
言葉で書き表すことは不可能なのですが、神に献身するというのは、神である本当の自分に気づいた時に、その本当の自分である神に献身するということなのでしょう。神である本当の自分は、すべての存在であり、すべてに偏在していることも気づくのでしょう。そうなっている体験をすると実証できるのでしょう。
今回が、187記事目です。
