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Q:カルマを”回避”することも可能でしょうか?|愛と平和のわかちあい/Sharing Love and Peace

Q:カルマを”回避”することも可能でしょうか?

A:カルマ無意識は何も”悪い”カルマ無意識ばかりではありません。わたしたちのカルマ無意識のパターンの中には、蓄積した”良い”カルマ無意識もあり、いわゆる”善徳”や”徳分”というものですが、そうした徳分のおかげでこの世に生を受けているのです。ですから、ブッダは人として生きているだけでも多大なる幸運で、その機会を無にしてはならない、と説きました。人生は束の間の出来事であり、時間を無駄にしてはならないということです。ブッダは、この千載一遇のチャンスをつかみ、世俗的な欲求欲望・意識レベル125を満たすことに時間を費やしてはならないと強調しました。というのも、この世のものははかなく、一時的な幻想にすぎないからです。イエスも同じ訓戒を繰り返し述べています。地上にではなく、天国に富を蓄えよ。なぜならば、地上の富ははかなく、堕落に至る道だからである、と。
わたしたちはカルマ無意識のパターンの影響を受けますが、それは絶対ではありません。というのも、わたしたちは選択が可能な、霊的な意志を持っているからです。修正とは、従来の低いものよりも、より高い選択を行うという意志によって生じます。誘惑とは、断固とした姿勢で決断するまで、繰り返し出現する古いパターンのことです。未解決のカルマ無意識の問題は、背後に潜む立ち位置があぶり出されるわかりやすい形で、繰り返し現れてきます。それを見分ける手っ取り早い方法は、あなたの状況を逆の立場から考えてみるというものです。つまり、あなたが今生こんじょうで被害者の立場にあるということは、前世であなたが加害者だったということです。過去にあなたの起こした水面の波紋が、今のあなたの人生に波として打ち寄せているのです。
もし、「カルマ無意識」という言葉を使うことに抵抗があるならば、「無意識カルマ」という言葉に置き換えることもできます。すると心理学用語に当てはめて、今生こんじょうの被害者は、前世という個人的あるいは集合的無意識カルマにおける隠れた加害者であり、現在は無意識カルマに他者からの攻撃を誘発している、と言い換えることができます。
困難の源を自分の内に見出そうとする人はほとんどいません。そして、大多数の人は、問題を他者に投影し、被害者と加害者という終わりなきゲームに明け暮れています。自我エゴは、執拗に利己的な被害者の役割を演じ続け、必要とあれば死ぬまでそれに徹します。自我エゴは、自らを守るためにはどんなことでもします。
臨床の現場では、うんざりするほど加害者、被害者の役割を演じるペアに出くわします。このパターンは、当事者が自分の人格的要素にもいくばくかの責任があることを認めないかぎりは、経験的にも心理的にも霊的にも解決することはありません。それを認めず抑え込むことによって、巧妙な工作員になりすましてしまうのです。被害者がどれほど頑なに責任を負うことを拒絶するかを観察するのは、大変参考になります。
ほとんどの家庭内の争いにおいて、被害者は加害者の我慢の限界を熟知していて、たった一言で加害者を暴力へと突き動かすことができます。そしてその一言は、攻撃者の弱点を実によく突いているものなのです。
たとえば、こんなケースがありました。ある女性が夫にセックスを求めたのですが、その日夫はそんな気分ではありませんでした。女性は自分が拒絶されたように感じ、鋭いやいばで夫に切りかかりました。「あなた、それでも男なの?」。妻は夫の育ってきた環境を熟知しており、何を言えば夫が暴力をふるうのかがわかっていました。けれどもこのケースでは、夫は寸前のところで暴力を思いとどまり、家を出て離婚したのです。その言葉は、彼にとっては耐え難い侮辱でした。このように、男らしさを標的にした言葉は代表的なもので、女性の中には、感情的に不安定な男性を攻撃するために、その使い方をよく心得ている人もいます。
暴力を受ける寸前に被害者がどのような言葉を発したのかを正確に知ることが極めて重要です。男性の場合は家庭内の争いにおいて、沈黙を使って伴侶を限界点にまで押しやりますーー侮辱的な言葉ではありません。そして、こう言います。「わたしは何も言っていませんよ。彼女が勝手に飛びかかってきて、家具を壊し始めたんですよ」
同じ現象が、国際紛争や暴動というゲームの中にも見られます。警察にレンガを投げ続け、ついに警察が発砲すると、”気の毒な被害者(子供だとなお有効)”を撮影し、それを、さらなる暴力へと飛び火させるために使用します。毎年のように、”気の毒な被害者”が行進くして、報復行為によって自国民を傷つけているのです。
統合の臨界レベル意識レベル200が霊的な躍進の分かれ目だとしても、こうして自我エゴの構造を見れば、それがどれほど越えがたいものであるかがわかると思います。それだけ自我エゴの力は巨大で、霊的な力真理・パワー以外にそれを克服できるものはありません。
より進歩した霊的な求道者は、”外側”に起こっている事柄にまで責任を取るようになります。なぜならば、彼らは日頃、内面を見つめることによって、”外側”のものとして受け取る知覚や原因はすべて”内側”にあることを知っているからです。社会的自我エゴのプログラムの相互作用は映画さながらで、マインドにとって大変魅力的です。安全な場所から、自我エゴがどのように世界の舞台上で巧みに駆け引きを展開していくのかを鑑賞できるからです。歴史を振り返れば、本来は神にのみ捧げるべき民衆の忠誠が、時の権力者の肥大化した自我エゴに捧げられているという堕落が見て取れます。霊的な真理パワーが政治目的のために歪曲されるというのは文明発祥時とともにあり、それは今日に至ってもなお横行しています。

I<わたし>真実と主観性真実度999』デヴィッドRホーキンズ著 P146~148

Q:わたしたちは、自我エゴカルマ無意識から逃れることはできないのでしょうか?

そこから完全に抜けるためには、覚醒悟りするほかありませんが、霊的な探究をすることでその呪縛を緩めることができます。

I<わたし>真実と主観性真実度999』デヴィッドRホーキンズ著 P149

Q:自我エゴは、カルマ無意識の元凶なのでしょうか?

A:自我エゴカルマ無意識の中心であり、貯蔵所でもあります。自我エゴカルマ無意識は、実は同一のものであると知ることがきわめて重要です。簡単なキネシオロジー筋肉反射テストを使用するだけで、一分以内にあらゆる問題の元凶に関する、数え切れないほどの有益な情報を引き出すことができます。しかし、それだけで問題が解決されるわけではありません。今生こんじょうを、ほかのあらゆるしょうから切り離して考えることは、人為的な知覚のなせるわざです。「真実」においては、定期的な転生を包含した、たったひとつのしょうがあるだけです。輪廻転生とは、特定の問題を解決するうえで都合のよい状態が、その時々につくられているこということです。
たとえば、戦場での戦いは、自らの肉体の死に直面しても、より高次の原理のために、魂が200意識レベルという臨界点(「怖れ」から「勇気」のレベル)を飛び越える機会を与えます。昔から若者たちは、怖れを克服するために、命を危険にさらすような職業やスポーツにのめりこんできました。闘牛やダイビング、オートバイのレースなど、すべて肉体的な死や臆病さを克服する機会を与えます。しかし、心理的な達成感を得れはしても、そこには肝心の霊的な真価が抜けています。忠義や神への献身、愛国心、真理パワーや道義といったより高次の原理の名の下に勇気が怖れを打ち破るのでなければ、200意識レベルの臨界点を超えることはできません。これは、古い時代の騎士が、象徴として重要な女性の手袋やバラを持って遠征や聖戦に臨んだことにも表れています。

I<わたし>真実と主観性真実度999デヴィッドRホーキンズ著 P149~150

【セカヘワトーク②】哲学|真理ってベタに語れるの?|世界平和|セカヘワ|動物脳(本能)=自我(エゴ)を飼いならす|愛と平和のわかちあい/Sharing Love and Peace

今回が193記事目になります。193なので、一休さんと思いました。何のために念のために、一休さんの、宗派をChatGPTに教えてもらいました。一休宗純(一休さん)は、日本の臨済宗 大徳寺派に属する禅僧です。幕府の後援を受けた五山禅林とは一線を画し、自由奔放な精神と鋭い批判精神で知られました


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