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【小説】〈隻翼の竜の書〉赤目の盗賊 序章 1

序章 盗賊競技会

1 大会屈指の好カード

 アーチ型の石造りの通路を抜けた途端、それまではちの羽音のように聞こえていた人々の歓声が、一挙に大波のように膨れ上がり、二人の耳を襲った。二人が場内に姿を現すや、それは、津波のように、二人をみ込まんばかりに高まった。
「グレック! グレック!」
「ハシャル、頑張れよ!」
 巨大なり鉢状の斜面に、階段状に設けられた観客席は、隙間なく埋め尽くされていた。その観客席から、盛んに声援が上がる。
 観客席に囲まれた中央に、土を踏み固めた楕円形だえんけいの競技場が広がる。そこは、平素は何もない平坦な地で、陸上競技や剣術試合など、多彩な催しの舞台となる。そこに、今は、大がかりな舞台装置が二組、設けられている。三階建ての家屋を模したもので、入り口側と出口側、二つの側にのみ、高い塀が立てられ、左右両側面は塀がなく、見通しのくようになっている。入り口側の塀の前には、堀に見立てた幅広い池が水をたたえている。

「観客の皆さん!」
 魔法によって大きく、よくとおるようにされた司会者の声が、歓声をついて場内に響き渡った。観客は、水を打ったように、静まり返った。司会者は、言葉を続けた。
「皆さん、これから始まります準決勝は、今大会でも屈指の好カードであります! 右は昨年の優勝者、グレック。対して左は、昨年の少年部門の優勝者、ハシャルです」
 どっと、割れんばかりの歓声が湧いた。その中心で歓声を浴びているのは、司会者によって紹介された、二人の人物。今しがた、観客席の下に設けられたアーチ型の通路を通って競技場に現れた、二人である。
 右側にいるグレックは、若い男で、三十を少し過ぎたところと見られる。その身体は、すらりとしていながら、引き締まった強靭きょうじんな筋肉に覆われている。わしのように精悍せいかんな顔立ちの中で、鋭く光る両眼が、揺るぎない自信を湛えて、まっすぐに正面を見据みすえる。
 そのグレックの隣に立つのは、まだ十六、七歳くらいの、少年だった。人懐ひとなつっこいような、少年らしい好奇心に満ちあふれた赤い瞳。短い黒髪に、すっきりと心地よく整った、目鼻立ち。その体型は、ほっそりとして、見るからに敏捷びんしょうそうである。彼が、グレックの対戦相手、ハシャルだった。少年も、隣のグレックに負けじと、堂々と胸を張り、まなじりを決して前を向く。だが、その真紅の瞳には、風に揺れる火影ほかげのような、微かな不安が揺らめいていた。
 二人の前方に、二組の舞台装置がある。その二組の舞台装置、それぞれの脇に立つ二人の審判役の男が、手旗を振った。若い男、グレックと、少年、ハシャルは、互いに離れ、斜め前方に歩いていく。グレックは右側へ、ハシャルは左側へ。各々、家屋を模した舞台装置の正面、堀から二十メートル程のところに引かれた線の手前で止まる。これから始まる競技で、グレックは右側、ハシャルは左側の舞台装置を使用するのだ。

 再び、場内を張り詰めた沈黙が領した。
「位置について」
 審判役の声が、響く。続く数瞬の、息詰まる緊迫。
 角笛が鳴った。太い音が、盛夏の蒼穹そうきゅうへと吸い込まれる。二人の競技者が、舞台装置を目がけて猛烈な勢いで駆け出した。歓声が爆発する。
 飛び出した瞬間から、少年――ハシャルの耳には、もはや歓声は認識されていなかった。まずは最初の障害、堀に一メートル程の間隔をおいて渡された小さな踏み石を、巧みに渡っていく。渡り終えると、二メートルの高さの塀を縁取るように、わずか五十センチ程の幅で踏み固められた地面が伸びている。迷うことなく、ハシャルは、己の小剣をさやごと地面に突き立てる。それから、横に少し離れて、狭い地面を助走して横合いから小剣のつかに踏み込む。細身の身体が宙高く舞い、軽やかに塀の上に降り立った。そしてハシャルは、小剣に結ばれた紐を引き、小剣を己の手許てもとに回収するや、ふわりと塀から飛び降りた。一散に、家屋に見立てられた建物を目指す。
 一方、グレックは、塀を越えるのに、鉤付きの綱を用いた。流れるような動作で、あっという間に上っていく。が、ハシャルの方が、この時点で、僅かにグレックに先んじていた。塀から降りるや、グレックは、猛然と追い上げる。

 建物の入り口に辿り着くと、ハシャルは、錠を外す作業にとりかかる。針金と簡単な道具を用い、手早く解除する。それから、慎重に扉を開き、中に入る。中、といっても、建物の左右両側の壁には、大きく穴が開けられていた。観衆に、中の様子がよく見えるようにするためである。ただし、一階部分には、競技上の都合により、魔法で防音結界が張ってある。そのため、中の競技者に、外の音は聞こえない。また、逆に、中の音が外に聞こえることもない。
 勢いよく走ってきたこれまでとは打って変わって、ハシャルは、そっと、足音を忍ばせて、室内に入った。首筋の辺りに、しびれるような感覚が走る。あせる気持を抑え、一歩一歩、細心の注意を払いながら、奥へと進んでいく。一階部分には、物音に反応する障害が仕かけられているのだ。僅かでも音を立てようものなら、様々な障害物が出現して、時間を食ってしまうことになる。今度の対戦相手は、他ならぬグレックなのだ。彼は、昨年、一昨年の競技の覇者だ。勝つためには、少しの失敗も、許されない。
 少年の部の競技でも、同じような障害が採用されている。それは、しかし、成人の部と比べて、判定基準が甘くなっている。それをよく知らなかったため、ハシャルは、一回戦で少々痛い目を見てしまった。それでもそのときは、勝つことができた。だが、今度は、同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。
 心臓が、全身を駆り立てるように、胸郭きょうかくの中で激しくのたうっている。部屋の中程まで進んだとき、息も詰まるような緊張に、脚がもつれそうになった。身体が大きく横にかしぐ。
 ――駄目だ、転ぶ!
 一瞬、頭の中が真っ白になった。しかし、ぐっと歯を食い縛り、足腰に力を込める。どうにか、こらえた。
 階段まで、ほんの十歩程の距離だった。けれども、ただの一歩が、遠い。何キロも何十キロも、あるいはそれ以上も先のようだ。

 ようやく、階段に辿り着いた。安堵あんどの胸をで下ろし、ハシャルは、階段を上った。極度の緊張から解き放たれた直後、僅かに気の緩みが出た。ハシャルの足下あしもとで、木製の階段が、無情なきしみ音を立てた。微かな、本当に微かな、枯葉が地面の上に舞い落ちるほどの音に過ぎなかった。
 ――しまった!
 わなは、その音を耳聡みみざとく聞きつけた。
 階段の上の天井から、液状のものが滝となって降ってきた。ハシャルは、一気に階段を駆け上る。足下がひどく滑り、あやうく段を踏み外しそうになった。つんのめりそうになりながらも、二階を過ぎ、三階に出た。荒く息をく。
 全身に、ぬめぬめする液体をまとっていた。開け放されている建物の側面から差し込む陽光に、それは、てらてらと光る。油だ。
 ――くそ!
 心中、思わず悪態をつく。こんなに油まみれになってしまったのでは、手も足も滑って、どうにもならない。なんと意地の悪い仕かけではないか。
 意気をそがれ、微かに集中を乱したハシャルの耳を、観衆の声が打った。おもしろがっているような、はやし立てる声。怒号する声。そんな声の中には、しかし、声援も、交じっていた。
頑張がんばれ!」
「まだ行けるぞ!」
 あの少女も、きっと、応援してくれているだろう。
 ――まだあきらめないぞ。
 気を取り直し、ハシャルは、懐の手巾で両手の油を拭き取りながら、部屋の片隅にある宝物箱へと駆け寄った。

 木製の巨大な宝物箱には、幾重いくえもの罠と、複雑な錠がしつらえられていた。油で滑って手許てもとが狂わぬよう、丁寧に、しかしできる限り迅速じんそくに、ハシャルは罠を外し、錠を破った。中に入っている丸い石を取り出し、懐に入れる。そして、素早く建物の奥側の窓へと向かった。
 窓枠から、一本の綱が垂れていた。窓枠を乗り越え、綱に取り付く。そのとき、競技に入ってからはじめて、隣、グレックの方を見た。グレックは、ハシャルより先に、綱を下り始めていた。塀のところで先んじた分を、逆転されていたのだ。
 綱を握るハシャルの手に、力が入った。途端、てのひらが焼け付くようにこすれた。身体が、がくんと一気に落下する感覚が続く。
 ――落ちる!
 胃が、のどから飛び出しそうになった。
 あわてて綱をしっかりとつかみなおす。さらに手が擦れた。落下が、止まる。
 手が痺れた。しかし、痛みをこらえて、慎重に綱を伝っていく。最後、二メートルくらいの高さのところから、飛び降りる。
 グレックは、既に塀の裏口に到達していた。ハシャルは猛追し、建物と塀の間の小さな空間を駆け、裏の扉口を目指す。狭い裏門を、勢いよく抜ける。すると、目前に、綱が網のように張り巡らされていた。ハシャルはさっと来た方を振り向き、懐から取り出した短剣を三本、塀目掛けて、電光石火の動きで続けざまに投じた。塀には小さな円形の的が設置されている。油と血で手が滑り、一本が外れたが、残る二本が、的の中心に寸分たがわず命中した。目前の綱が上にね上がり、道が開かれる。
 脚が悲鳴を上げるのにも構わず、ハシャルは、あらん限りの速度で決勝線へと突っ込んでいった。

 歓声が、はじけた。
 耳をつんざくようなその騒音の中、ハシャルは、荒い息をいて地面に膝をついた。
「……見事な戦いでした!」
 司会役の声が告げる。
「勝者は、グレック! しかしながら、ハシャルも、善戦しました! あと一息、というところで、惜しくも敗れました」
 ――駄目だったか。
 ハシャルは、肩を落とした。その肩を、ぽんと、励ますように大きな手が叩いた。
「よくやったな、ハシャル。お前、いい盗賊になれるぜ」
 グレックだった。鷲のような鋭い顔に、気持のよい笑みを浮かべている。まだ余裕を残しているグレックは、ハシャルを支えて、立たせた。そして、彼の手を取り、ともに高く差し上げた。
「グレック! 今年も優勝間違いなしだ」
「ハシャル! ハシャル!」
 二人の健闘をたたえる大合唱が湧き起こった。
 少々面映おもはゆげに、ハシャルは、顔をほころばせた。そしてグレックとともに手を振り、熱狂的な歓声にこたえる。

続く


 お読みくださり、ありがとうございます。
 『赤目の盗賊』、連載を開始いたしました。
 『霜夜の星』とはまた違った、軽快な冒険譚です。
 よろしければお付き合いください。
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