【小説】〈隻翼の竜の書〉霜夜の星 序章
序章 帰還
(1)
ジディア暦八八四年、第二の月も末のことである。雪の降り積もる丘陵を見下ろす、小高い山の上の城門の前に、その男は、立っていた。
重く垂れ込めた鉛色の空から、雪片が霏々として舞い落ち、男の濃い緑色の長衣と、癖のない黒髪を白く彩った。年は、四十と少し、というところであろう。線の細い、目許の柔らかな、優しげな顔立ちをしている。ほっそりとしたその身は、穏やかな空気を纏いながら、同時に落ち着いた威厳をも醸し出す。
ここアスラルの春の訪れは、遅い。平地ではもう木々も芽吹き、小鳥も鳴き交わしていようが、この地からは、冬がいまだに去りやらず、春の気配は感じられない。
男の吐く息が、寒さのために白く濁っている。その白い霧を透かして、男は、城門に近付く空中の影を捉えた。影の数は、二十ほどあろうか。
黒い、鳥のように見えるその影は、瞬く間に大きくなった。翼のあるその影は、しかし、鳥ではなかった。頭部、両翼、そして前脚は、鷲のそれだった。だが、その大きさは、鷲の比ではない。そして、その胴体、後脚は、獅子のものだった。背には、それぞれ、人を乗せている。翼あるその姿は、幻獣グリフォンのものだった。
乗り手たちが手綱で指示を下すと、グリフォンは、城門の前の広場に、次々と着陸した。白い雪が、煙のように舞い上がり、辺りの視界を白く塗り込めた。
雪煙が収まると、乗り手の一人が、城門の前の男に近付いた。両腕で、毛布にくるんだ何かを、守るように抱えている。目深に下ろした頭巾の下の顔は、やつれてはいたが、若々しかった。
城門の前に立っていた男は、青年が近付くのを見るがはやいか、微かに雪をふり散らしながら、青年に駆け寄り、その肩に手を伸べた。淡い紫色の瞳が、優しく青年を見つめた。その目は、次に、青年が腕に抱いている者へと注がれた。
「ガイス、よく無事で……。その子が、そなたの子だな」
青年は、穏やかな、しかしどこか苦い笑みを口辺に浮かべ、頷いた。
「はい。妻の……忘れ形見です」
青年の、夜の泉のような藍色の双眸には、痛々しい喪失感が刻まれていた。それを見て取り、紫色の瞳の男は、慈しむような声で促した。
「さあ、疲れたであろう、部屋に入り、暖まるがよい」
「ありがとうございます、アルソールス閣下」
静かに礼を述べ、青年は、促されるまま、ともに来た男たちを従えて、城門をくぐった。
部屋の壁際の、大きな暖炉の中の薪がはぜる音が、重い静寂の満ちた室内に、高く鋭く、響いた。暖炉の側に椅子を持ち寄り、この館の主、紫の瞳のアルソールスと、藍色の瞳の青年ガイスは、暖を取り、話し合っていた。青年の近くには、小さな揺籠が置かれていた。
暖炉の薪を火かき棒で整えて、アルソールスは、青年、ガイスへ同情に満ちた眼差しを向けた。
「そなたの奥方には、気の毒なことであったな」
「……お心遣い、ありがたく存じます」
ガイスの礼儀正しい、生真面目な答えに、アルソールスは、そっと頭を振った。
「ガイス、わが弟子、わが養い子よ。わたしに、そのように気を遣わずともよい。この館は、今も、そなたの家だ。そなたも、そなたの子も、歓迎される」
ガイスの藍色の双眸に、深い感謝の色が表れた。
「ありがとうございます」
アルソールスは、柔和な笑みを浮かべた。
と、近くの揺籠から、赤子のむずかる声が上がった。細く、弱々しい声だった。
ガイスは、すぐさま立ち上がり、揺籠から赤子を抱き上げ、まだ幾分ぎこちない手つきで、ゆっくりと体を揺すりながら、愛しそうに赤子をあやし始めた。
アルソールスは、ガイスの腕の中の赤子を、具に見た。小さな、華奢な赤子だった。母親を失くしたことが、わかるのだろうか。その瞳は、泣き声と同様、どこか悲しげだった。父のそれよりは淡い、だが、それでも深い、青い瞳。
「この子の名は、シェイスと言ったな」
問うたアルソールスに、ガイスは、懸命に赤子をあやしつつ、誇らしげに答えた。
「そうです、シェイスです」
シェイス。シェイス――。何度か口にしてみて、アルソールスは、満足げに頷いた。
「シェイスか。この子に相応しい、よい名だ」
(2)
「……かくて、かの者の血筋は、此方に戻り来たった」
若々しい、滑らかな男の声が、湿り気を含む洞内の重い空気を僅かに震わせた。その声の主である若い男は、目の前の台座に置かれた水晶の玉に手をかざし、背もたれのない低い椅子に腰掛けていた。その隣りには、壮年の、長身の男が、やはり同じように低い、だが造りはより重厚な椅子に腰掛けている。
二人の脇に、高価な、透明度の高い硝子張りのランプが一つ置かれている。それが放つ黄色の暈が唯一の明かりであり、それすらも、周囲ののしかかるような暗闇に押し潰され、呑み込まれてしまいそうだった。常人であれば、息詰まるようなこの場の空気に、長くは堪えられないであろう。だが、この場――纏いつくような闇の領する、深き鍾乳洞の奥深くの、自然が長い時間をかけて作り出した岩の広間に、彼らは、既に幾日も留まっているのだった。
岩の広間にいるのは、二人の男だけではなかった。彼らを中心にして、いずれも黒い長衣に身を包んだ十数人の人物が、円座をなしている。
そのうちの一人が、口を開いた。嗄れたその声は、皮肉な調子を帯びていた。
「かの者の血筋と申すのは、正確ではあるまい。なぜならばあの赤子は、かの者の血を直接に受けてはおらぬからの」
艶を含んだ女の声が、反論した。
「いいえ、かの者の直系の子孫ではなくとも、あの赤子は、とにかく、かの者と同じ血を引いているわ。だから、あの赤子は、かの者と同じ可能性を有している」
水晶の玉を前にした男が、同意を示した。
「その通りだ。故にかの赤子は、かの者の悲劇を再現しうる……即ち、我らにとり、有用だということだ」
嗄れた声の主――老人は、頭を振った。
「かの者の血を引いてすらおらぬのに、ただ同族だというだけで、そのように断定することはできぬ。かの赤子は、あらゆる可能性を秘めておる、未知数の存在じゃ。事によれば、我らの障害となるやもしれぬ。故に、後の禍根とならぬよう、即刻、始末するべきじゃ」
老人が言い終えぬうちに、女が再び異を唱えた。
「あの赤子を始末するなんて、とんでもない! 我らの役に立つに違いない、あれ程の力を秘めた存在を、またと得られない機会を、おめおめと潰してなるものですか!」
若い男も同調した。
「そうだ、あの赤子は、我らが授かった、至宝なのだ」
しかし老人は、自説を取り下げる素振りを見せない。
「いや、あの赤子は、我らにとり、この上ない危険因子じゃ」
かの赤子は有用か、はたまた禍の種か。二つの説に、座の者たちの意見は割れた。双方が盛んに自説を主張する。双方とも譲らない。侃々諤々の議論は、白熱し、しまいには、口論へと燃え上がりかけた。場の喧騒が高まり、今にも弾けそうになったそのとき、場の中心、若い男の隣りに、これまで黙して腰掛けていた壮年の男が、ようやく口を開いた。
「静粛に!」
臓腑に響く、地鳴りのような声が、重い空気をも揺るがし、轟いた。瞬時に、場は、水を打ったように静まりかえった。
壮年の男の重々しい声は、続けた。
「かの赤子は、確かに、かの者と同じ血を引いておる。だが、かの赤子は、危険極まりない不確定要素でもある。かの者の悲劇の再現者たりうると同時に、我らの最大かつ最強の敵の一人ともなりかねぬ。その可能性を、今の段階で断ずることは、できぬ」
やや間をおき、厳かに言を継ぐ。
「よって、我らは、かの赤子の可能性を、見極めねばならぬ。その上で、かの存在をどう扱うべきかを定めるのだ。我らの道具となすか……それとも、抹殺するべきかを。それからでも、始末するには、遅すぎぬ」
一同は、同意した。
「連中は、どうやら、しばらく様子を見ることに決めたようだな」
若い男の、力強い、耳に快い声が言った。
「そのようね」
若い女の、甘やかでありながら、張りのある声が答える。
贅を凝らした、金銀や数多の宝石に彩られたほの暗い室内で、二人は、豪奢な絹張りの椅子に腰掛けていた。顔立ちの酷似した男女である。いずれも、この世ならぬ、非の打ち所のない美貌の主である。彼らの毒々しい紫色の髪が、彼らが人ではないことを、如実に物語っている。
二人の前には、長径が一メートル程もある、楕円形の、金属を磨き上げた大きな鏡が据えられていた。鏡の、疵一つない滑らかな表面は、静かな、澄んだ湖面の如く、かの暗き洞内の広間を、まるでそこに存在するかのように、精細に、完璧に映し出していた。
女は、嘆息した。
「まったく、なんて愚かな者どもなのかしら。あれほど貴重な存在を、殺してしまうなんて、もってのほかだわ」
男は、苦笑する。
「連中の力では、到底、かの者を御しえまい。故に、そのように考えてしまう者がいたとしても、無理からぬところだ。いや、むしろ、そのように考える者の方が、分別があるということになる」
女は、しばし不機嫌そうに黙り込んだが、やがて、その口許に嘲るような笑みが滲んだ。
「そうね。そもそも、連中には、かの者は扱いきれない。かの者は、我らにこそ相応しい。連中には、もったいないわ」
「そうだ。連中がかの者を利用しようとするなど、分不相応だ。身の程知らずの愚行だ」
男の同意に、女は、満足げに頷いた。が、その額が、すぐさま翳った。
「とはいえ、あの子が十分に成長しないうちは、連中でも、あの子に危害を加えられるわ。あの連中は、様子を見ることに決めはしたけれど、それに不満を持つ者もいる」
「ああ。だが、あの者の周囲の魔法使いが、あの者を守るだろう。それに加えて、我らも、あの者を見守るのだ。あの者が、十分に成長するまで。そして、いずれは、あの者は、我らのものとなるのだ」
「そうよ。あの者は、我らのものよ」
二人の顔に、凄艶な笑みが浮かんだ。鏡に映じる、かの遥けき地の暗き洞内の重い闇をも、それは、間に横たわる果てしない距離をものともせず、瞬時に凍てつかせんばかりだった。
お読みくださり、ありがとうございます。
重い物語ですが、よろしければまたお付き合いください。
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