「新・代表的日本人」1月1日 。鳩山一郎 「闘病生活は一つの精神闘争なのである」
鳩山一郎(はとやま いちろう、1883年〈明治16年〉1月1日―1959年〈昭和34年〉3月7日)は、日本の政治家・弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣。享年76。
鳩山一郎という人は、ゴルフや囲碁など趣味も多彩で、それぞれに真剣に向き合っていたため、何事に対しても独特の自分の考えを持っていた。戦後の公職追放の時代には、軽井沢での生活を通じて天地自然に対する感謝の念を深めていく。この百姓生活についても、回顧録の中で細かに回想している。軽井沢で百姓生活を身につけたように、環境に恬淡と順応しながら捲土重来を期す姿勢が、鳩山には一貫して見られる。
人心には必ず飽きがくるとして、「政治家は権力の座に長く留まるべきではない」と考えていた鳩山は、大仕事であった日ソ国交回復に挑む前から、「日ソ交渉を果たし終えたならば引退しよう」と決意していた。そして交渉が成功裏に終わると、約束どおり総理の座を辞した。東条内閣の戦時刑法特例法案に抵抗し、政界の第一線から退く決断をした時もそうであったが、鳩山の出処進退は常に潔い。人間的な深みに、この潔さが加わったことが、吉田茂内閣の後を受けて出発した鳩山内閣の時代に起こった「鳩山ブーム」の一因であろう。
吉田茂の後継候補であった緒方竹虎率いる自由党と、鳩山民主党は、1955年に合同して自由民主党を結成した。吉田から政権を奪取した鳩山は、自由民主党の初代総裁となる。その自民党は、2009年の総選挙において下野し、吉田茂の孫である麻生太郎、あるいは鳩山一郎の孫である鳩山由紀夫が政権を担う時代を迎えた。まさに因果は巡るものである。
日本の保守勢力には大きく二つの流れがある。吉田茂の日本自由党と、鳩山一郎の日本民主党である。保守合同を主導した岸信介が自由民主党を結成した。戦争責任を自覚した自由党系列が保守本流で、その流れに宏池会が位置づけられる。一方、戦前回帰的な復古調の民主党系列は、保守傍流(のちに自民党主流)とされた。自主憲法制定を掲げた自民党綱領を作成したのは、岸の一番弟子である福田赳夫であり、これが清和会につながる。この系譜は、CIAや統一教会と深い関係を持っていたと指摘されている(田中秀征・佐高信『石橋湛山を語る』〈集英社新書〉)。
『鳩山一郎回顧録』を読了した。ライバルであった吉田茂との確執、戦後間もない政界の人間関係や混乱が率直に記されている。終戦、吉田茂との約束、公職追放、脳溢血、吉田内閣打倒、鳩山内閣誕生、保守合同、日ソ交渉、そして引退――その歩みが一続きの物語として浮かび上がる。
偉い人物の父親は偉い場合とそうでない場合があるが、母親は総じて偉い場合が多い。鳩山一郎の母・春子の教育観と努力には深く感銘を受けた。鳩山は、早朝3時半から登校前の7時まで、約3時間から3時間半にわたり、英語・漢学・算術の三科目を母から教えられている。
「子供に自発的に学問をしようとする欲が出てくるまでは、勉強を強制して人後に落ちないようにさせなければならない。しかし、いったん欲が出てくれば、自分自身で勉強できるから、その時には干渉しない」 「私がお前に働きたいという意欲を残してやることができれば、それ以外に何物も残さなくとも十分な贈り物だ。それが無限の贈り物である」
父・鳩山和夫の言葉。
「One thing at one time. 自分のやっていること、それ自体に全身全力を集中しなければ、目的の完成を期することはできない。」
吉田茂との確執について、鳩山は次のように述べている。
「あれこれ思い合わせると、私の追放解除は、吉田内閣の手で阻止され、引き延ばされていたことは確かであった」 「事実は、吉田内閣がいろいろと小細工をやっていたので、おいそれと解除にならなかったのは当然である」
鳩山内閣の最大の仕事は、日ソ交渉であった。 「ハボマイ、シコタン両島までは、日本に譲ってもよいという態度を示したが、エトロフ、クナシリ島となると、ガンとして承知しない」
モスクワ行きを決心した日に、鳩山は「日ソ交渉を果たし終えたならば引退しよう。これが私の念願であった」と書いている。そのときの心境は、まさに明鏡止水であった。鳩山は「明鏡止水、熱腸冷眼」という言葉を好んで揮毫している。
鳩山一郎は、クーデンホフ=カレルギーの著作から強い影響を受けた。平等と自由のための革命はあったが、友愛のための革命はなかった。しかし民主政治のためには、この「友愛革命」が必要であるという。民主主義とは、自分の自由と同時に、他人の自由や人格をも尊重する思想を基盤とするからである。
2009年9月号の『Voice』に掲載された、鳩山由紀夫の論文「私の政治哲学」を読んだ。
「友愛」とは、フランス革命のスローガン「自由・平等・博愛」の「博愛」、すなわちフラテルニテ(fraternité)を指す。鳩山一郎が「EUの父」と呼ばれるクーデンホフ=カレルギーの著書を翻訳した際、このフラテルニテを「友愛」と訳した。
カレルギーは言う。「友愛が伴わなければ、自由は無政府状態の混乱を招き、平等は暴政を招く」。
友愛とは、左右両全体主義と対峙するための、戦闘的な理論でもあった。鳩山一郎は、社会党・共産党と対抗し、吉田流官僚政治を打倒して党人派鳩山政権を打ち立てる旗印として、「友愛」を掲げた。自由は弱肉強食の放埒に陥りやすく、平等は悪平等に堕落しかねない。その両者の行き過ぎを克服する原理が、友愛である。
2005年に一郎が建てた鳩山会館を訪ねたことがある。「バラの庭を前に建つイギリス風の外観、ハトをモチーフとするステンドグラス、アダムスタイルの応接室」(藤森照信・東京大学教授)という豪華なこの会館は、「鳩山御殿」とも呼ばれている。鳩山会館の庭には、和夫・春子夫妻の像が建っており、朝倉文夫の作である。
鳩山一郎は、追放解除を間近に控えた時期に脳内出血に見舞われた。しかし彼は、この病と向き合い、飼いならすようにして体調を管理し、現在の鳩山会館に陣取って、ついに総理の座を射止めた。「闘病生活は一つの精神闘争なのである」という言葉には、深くうなずかされる。
「昼寝の習慣が、私をここまで持ちこたえさせてきた一番大きな原動力であると思っている」。
長い闘病生活においては、身体を労わること以上に、精神的に参らないことが重要であると悟ったのであろう。闘病とは肉体的問題である以上に、精神闘争であるという結論には、大いに納得させられる。
引退後、鳩山は次のように述べている。 「年寄りにとっては、長生きすることはむしろ苦痛でさえある。一切の希望や、すべての楽しみがなくなってから、なお長く生きなければならないというのだから、それには、よほど人生に対する考え方を変えなければ、耐えられるものではない」。夏目漱石『虞美人草』の一節が、この回顧録の最後を飾る。 「人一人真面目になると、当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる」。
引退後、希望や楽しみを失った高齢者が長生きするためには、人生観を大きく変えなければ耐えられない――鳩山一郎は、今日の超高齢社会に通じる示唆を残している。 鳩山一郎は、まさに人生の達人であった。

