ありがとうの数え方~本当の「ありがとう」ノート~
「今日、横断歩道で止まってくれたドライバーさんがいた。ありがとう」
「今日、夫が洗濯物を取り込んでおいてくれた。ありがとう」
「今日、レジで鉢合わせした人が私を先に行かせてくれた。ありがとう」
やたらと一日に感謝していた時期があった。
もちろん、「引き寄せノート」を書いていた頃である。
これは、その日あった感謝したい出来事を三つ書く、
または「嬉しかったことを三つ書く」というノートだった。
日々の生活から感謝をみつけて、
自分が宇宙から祝福されている実感をし、
人生を豊かにするのが目的だ。
「試食の牛肉がおいしかった」
「お土産のお菓子がおいしかった」
「くじで3等のうまい棒が当たった。4等はティッシュだったから嬉しい」
そんなふうに、細かな「よかったこと」がずらりと並んでいる。
これだけ些細な「感謝」を綴っていたというのに、
実際の私は
「ありがとう」
よりも
「もう!」
と言っていることの方がずっと多かった。
「前は止まってくれたのに、今日は歩行者がいるのに止まってくれない」
「洗濯物を取り込んだなら、畳むところまでしてよね」
「私の方が先なのに、横入りしてきた」
前回受けた親切の記憶が邪魔をして、
普通のことがとても嫌なことに映ってしまっていたのだ。
「このお土産のお菓子は好きじゃない」
「くじの2等がキャベツ太郎って、しょぼくない?」
嬉しかったことですら、
前回よりアップデートされていないと満足できなくなっていた。
感謝の本質を、私は完全にはき違えていたのである。
その頃の娘の担任は、若い男の先生だった。
新卒から二、三年目くらいだったと思う。
どちらかというと「人を育てる先生」というより、
「勉強を教える先生」という印象だった。
クラスのみんなと運動場へ飛び出してドッジボールをするタイプではなく、
勉強を教えたあとは静かに生徒たちを見守るタイプの人だ。
それはそれで落ち着いていてよかったのだが、
何かトラブルが起きたときは不安にもなった。
この先生で本当に解決できるのだろうか。
そもそも問題が起きていることに気づいているのだろうか。
私は何かとやきもきしていた。
そんなある日、娘と同じクラスのお母さんとばったり会った。
保育園からの顔見知りで、いつも穏やかで優しい人だった。
私はその人が大好きだった。
「あの先生、ちょっと頼りない気がするんだよね。」
私がそう言うと、彼女は少し笑ってうなずいた。
「うん。でもありがたいよ。」
「え?」
「だって、この時代に先生をやろうって思ってくれただけでありがたいじゃない?」
私は黙って続きを聞いた。
「今は先生ってブラックだとか大変だとか言われるでしょ。
なり手も減ってるし。
それなのに、あんな若い人が先生になってくれて、
毎日学校に来てくれてる。
それだけでありがたいなって思うんだよね。」
彼女の目は本当にキラキラしていた。
「そうなの?」
少し押され気味になりながら聞き返すと、
「うん。うちの上の息子なんて同い年なのに、
仕事辞めた〜いとか文句ばっかり言ってるもん。」
と苦笑した。
「やんなっちゃうよ。」
そう言って笑う彼女につられて、私も笑った。
別れたあと、私はしばらくその言葉を反芻していた。
彼女は、見ている景色が違う。
私は毎日ノートに「ありがとう」を並べていた。
けれど、そのありがとうは、
自分に何かをしてもらったことへの感謝ばかりだった。
横断歩道で止まってくれたこと。
洗濯物を取り込んでくれたこと。
順番を譲ってくれたこと。
自分に向けられた親切ばかりを数えていた。
でも彼女は違った。
自分には何の得もない。
むしろ不満を言おうと思えばいくらでも言える立場なのに、
「先生になってくれてありがとう」
と感謝していたのだ。
その人がそこにいてくれること自体に。
その仕事を選んでくれたこと自体に。
私は感謝を数えていた。
彼女は感謝していた。
たぶん、この二つは似ているようで全然違う。
「先生になってくれてありがとう」
そこには、自分が得をしたかどうかなんて関係なかった。
ただ、その人がその仕事を選んでくれたこと。
その場所にいてくれること。
そのこと自体への感謝があった。
1000回ノートに「ありがとう」と書くよりも、
あの日のたった一言の「ありがとう」の方が、
ずっと私の胸に響いて本当の「豊かさ」を知ったのだ。
あのお母さんは、
私に感謝の書き方ではなく、
感謝の仕方を教えてくれた。
だから今日も私は、心の感謝ノートを開く。
以前より少しだけ、違う景色を見るために。
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