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さなぎ・ちんちん

さなぎ

「オトナになる前にサナギになる虫がいる。それまでイモムシだった体がまるごと、いったん、どろどろに溶けて、そこから、あらためて、体の構造が再編成されて、成虫になる。すごい! その神秘にインスピレーションを受けて作品を作っています!!」

とある人が、自作について、こんなような話をするのに立ち会ったことがある。その場には、ほかに人も大勢いて、誰もがいちおう話を聞いていた。けれども誰もなにも突っ込まなかった。発表者の話はつづき、最後まで話しきっていた。

ところが、卵からかえったばかりの幼虫の皮膚を薄く切ると、裏側にはすでに、成虫の体の準備があるのだ、やがて翅や触角に発達していく肉の芽があるのだ。成虫の体つきは、サナギの時期になってはじめてつくられるものではない。それは生まれたときから準備がある。サナギの時期というのは、いってみれば、幼虫のころの、表面のつっぱりを解消するための薄皮ぬぎではなくて、もっと大胆な脱皮を、時間をかけて行なっているようなものだ。包装を破り脱いでいったのち、ついに箱を開けるわけだ。「いったん体をどろどろに溶かして、そこから改めて体の構造をつくりなおす」なんてことは起こってない。そんなの、へんすぎる。とんでもないことだ。

ところがその作家は、この「とんでもないこと」を、神秘的な現象、奇跡的な「事実」として受け止めている。「とんでもなさ」を一方では感じているのにもかかわらず、しかしこれを「事実」として認識してしまっている。認識できてしまっている。

もとは単なる誤解なのだが、それに対して、ありえないこともありえてしまうのが生命の神秘だ!と感じ入って、エネルギーを、生命のパワーを感じ、感じ入って、インスピレーションをうけ、さらには自ずからまた別のものを創造し、自身の制作活動を起動させているわけだ。本来以上の「生命の神秘」ストーリーを勝手につくって、それを燃料にしてその人の制作に火がつく。すごいことだ。それこそ神秘である。あるいはそれこそが「制作」というものなのかもしれない。



ちんちん


 あきらくん4歳(仮名)
 あきらくん4歳とお話ししていた。あきらくん4歳のパパは、ほかの大人のひととお話ししていて、あきらくん4歳のママは、ベビーカーに乗った赤ちゃんをあやしていて、パパもママも忙しいから、あきらくん4歳の相手は俺がしていた。俺はベビーカーを示して訊ねる。ときにあきらよ、あのベビーカーで寝てる赤子は男の子なの?女の子なの?
 あきらくんはちょっと考えてから、「よくわかんない」と言う。それから、「でも、ちんちんついてるよ」と付け加える。俺は、「それなら男の子かもね」と答え、答えながら驚いている。

 俺が気を遣ったのは、「男の子か女の子か」という言い方をした点で、すなわち「弟か妹か」と質問をしてしまい、ところが、あきらくんのなかに「弟は男で、妹は女」という知識が整っていなかったら、いたずらに混乱させるかと思ったんでそういう言い方をしたのだが、むこうのほうが一枚上手だった。たしかに「ちんちん」っつうワードと、「男」とか「女」とかの言葉は、たんに音としてまったく別のものです。
「男or女っつう分類があるのは、それはさすがになんとなくわかってるけど、判断についてはまだ保留させてください。ちんちんがあるかどうか、というのが判断基準っぽいと睨んではいるけど、決定打に欠ける。だから、ベビーカーにいるあいつが男か女かは自分には決められないです。ちんちんの有無でいうなら、それはある。けど、だからといって男か女かはわからない」そう言われたように聞こえた。
 警察は市民を守ってない。正義の人ではない。警察が守っているのは法律である。命令である。いやなやつや悪いやつがみんな犯罪者かというとそうではないし、逆もそうだ。「ガリ勉!」つって誰かをバカにするのは変な話で、ガリガリ勉強してるとか、ガリガリ打ち込むほど勉強に夢中になってるとかは、それだけではよくもわるくもない。病気にかかるのはいやだけど、自然なことだし誰だってなるし、だからあんまし「悪だ悪だ」って感じるようなら健全じゃない。老いるのもそうで、老いることでなにかを失うとしても、失うことは悪いことなのだろうか。
 などというパンクな屁理屈をあきらくん4歳が胸のうちにあたためているかどうか、それは知らない。おそらく違う。が、言葉と世界を結びつけるトライアルのさなかにいる4歳だからこその素朴な逡巡、意味へのためらいに直面して、思いがけずわくわくしてしまった。
 しかしこれは、私が持っている意味の体系、知識のありかたのなかに、「4歳児なんてそんなもんだ」というルールがあるからで、この相手がもし14歳なら自閉症を疑うことになる。概念の大小や結びつきに「問題がある」発達傾向は精神遅滞の可能性が高いというモノサシを知っているからなわけだけど、こうなってくると、果たして「警察が守ってるのは正義ではなくてあくまで法律だ」という理屈は、たんに屁理屈にも思えてくる。「老いる」は「わるいこと」という意味で使われることが一般的であるのなら、すなわち「老いる」とは「わるい」の意である、と言ってしまっても齟齬がないのだ。

 まあ、さて
 ここ数年、大人に対してデッサン技術を教える、という不遜なアルバイトもしている。たいしてデッサンができるわけでもないのに、先生を演じており、それを続ける動機のひとつに給金だけでなくおもしろさ、言ってみりゃやり甲斐がある。
 たとえば顔を描くとき、目とか鼻とか口とか、名詞で名指せるブロックごとに描くと立体的にならない。目とか鼻とか口とかどうでもよくて、どこが出っ張ってて、どこがへこんでて、どこに光があたってて、どこに形の折り目があるのかを追わなければ立体物にならない。機能での分類名で各部を調べるのでなく、造形的な視点でのみモノをみないとなかなか描けない。
 ほかにも、たとえばこんどは色を絵の具を使う場合。「陰というのは暗いところだ」と思い込んでる人は、日陰エリアにごんごんに暗い色を乗せる。が、日向エリアに使った色より重い感じがするなら、暗い色を使わなくても絵は描ける。暗い色どころか、濃い色を使わなくてもよい。たとえば日向が白や黄色なら、うすい青やうすい紫で充分に陰になる。
 大人だからこそ頭に染み付いてしまっている思い込みを、ひとつひとつ引き剥がしていく作業の伴走をしているような気になるのだ。それがなかなか楽しくて、だから続けているはずなのに、続けていると慣れるから、ついつい忘れてしまうのを、あきらくんに思い出させてもらった。


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