かわいそうなだけの子供ではない
下のは日本カメラのコラムの文章だけど、暗すぎるという理由でボツになったような気がする。掲載誌をちゃんとマメに取っておく性格ではなかったので、今となってはよくわからないが、確かに暗い。でも書きたかったのだ。
日本三大流し踊りのひとつが開催されるある市のイベントで、流し衣装をまとった笑顔の中学生の少女の写真。その少女の写真で最優秀賞が内定したが、被写体の少女が自殺したということで、そういう人の写真は賞にふさわしくないということで市長の判断で賞は見直された。プライバシーに配慮、というのが表向きの理由だったが、行政が面倒事に巻き込まれたくないと感じた遺族が「かわいそうなだけの子供ではない」というコメントを出して写真と名前を公開したのだよな。生きたかったであろう、笑いたかったであろう少女の写真を思い出しては、心が今でも苦しくなる。
<コラム本文>
◎ちょっとした情報で、写真の見え方や奥行きが変わるというのはよくある。最近考えさせられたのは、大きく開いた真っ赤な傘と満面の笑みを浮かべ津軽手踊りを舞う少女の写真。祭を題材にした写真コンテストの最高賞として内定していたが、選考後に亡くなっていたことが判明し賞の性格にそぐわないと内定が取り消され、それが大きく報道された。「かわいそうなだけの子供ではない」として遺族が公開した写真にある少女の笑顔には、撮影された10日後に起こる自殺という悲劇は感じられない。笑顔と自殺、その断絶の理由を少女の笑顔に求めた人は多いと思う。最終的には「姫が舞う」というタイトルで市長賞を獲得したこの作品、市のホームページにも掲載されているが、肖像権対策だろうか背後の人にモザイクがかかっている。悲劇を忘れることはできないが、姫の笑顔は作品として自立できる強さを持っていた。エピソードは別にして作品として見てもらえる日が来ればいいなと願う。◎「はい、これあげるよ」という感じに飴をとりだしてカメラを持つ姉に渡そうとする写真。ニコンサロンbis新宿で開催されていた斎藤茜の写真展「扉は外につながっている」(9.27-10.3)には、姉の目線から見た妹の写真が多く飾られていた。あまり自分に自信がもてないと、家にこもりがちな妹。撮った写真を妹に見せるうちに鏡では見ることができない自分の笑顔に「私ってこんな表情をしているんだ。生きているだな」という実感を持ったという。こもりがちな日常から、少しずつ外に歩みを踏み出した妹。「目に映る世界と、写真に写る世界のズレが、時に目に写る世界を変えていく」という作者の実感がこもった言葉も良かった。◎ミロのビーナスだろうか、美術室でよく見る深い顔つきをしたトルソーに平たい顔族である日本人の顔が次々と投影された西岡潔作品「Migration」(ギャラリー176、10.8-23)。無機的なトルソーに日本人の顔が投影されることで、血色が生まれ、有機的なかがやきを持つとともに、古代ギリシャと現在の日本という、遠い歴史が繋がったかのような錯覚を持った。

