記憶の中の風景(複数の映画の見えないつながり)
見たことがない風景、訪れたこともない土地。
それなのに懐かしい気がする。
記憶の中にある風景と呼応して、埋もれていた感情が揺さぶられる。
映画館の中で、映し出された風景に満ちている空気を感じる。
その時間のために映画館に行っているような気さえする。
90年代まで、淀川長治はTVの映画番組に出てくるおじさんとして、ある世代にはお馴染みだった。彼の本を読む機会があり、彼の波乱に満ちた、そして映画へ愛を捧げた人生を知った。彼は記憶で話をする時、実際の映画と少しだけ異なることもあったが、語りの面白さが匠の業のような人だった。
その彼が晩年に勧めていたのがアッバス・キアロスタミの『黄桃の味』だった、と思う。
入院した病室において、夜になると手鏡で月を眺めていた淀川長治が何を想ったのか。
『黄桃の味』は、自殺願望のある中年の男が辿る1日を描いた作品だ。テヘラン近郊を車でうろつき、行き交う人たちに男は変わった頼みごとをする。とある山の木の下に穴を掘ってある。そこに自分は一晩横たわる。次の日、生きているか死んでいるか確認しに来てくれないか、と。
話の筋はとてもシンプルなのに、この映画は心にずっと残っている。イランの荒涼たる風景、そして主人公が見つめた夜空の風景を、なぜか懐かしいような奇妙な感覚を覚え、そしてたまらなく美しいと思った。
小森はるかさんの作品群を観た時も、少し似たようなことが起こった。
東日本大震災で被災地となった陸前高田の人々を撮った作品群があり、彼女の映し出す人びとの魅力は語り尽くすことができない。
加えて、彼女の映像は現実と地続きでありながら透徹した詩情に溢れていて、様々なエピソードの合間に、はっと息を飲むような美しい風景が立ち現れる。その美しさを観るたびに不思議な懐かしさを覚えるのは、彼女が何か大切な感覚を、子どものようにじっとそこにあるものを見つめる感覚を忘れずにいて、過去と今を繋いでくれているからのような気がしている。
個人的に小森さんの作品は誰にも似ていない、と思ったが、『黄桃の味』の荒涼たるイランの風景と、彼女の作品群に出てくる嵩上げの進む陸前高田の風景は、どこか地下水脈で繋がっているような気がしている。
広大な自然と、どうしようもなく小さな、それでもささやかにその土地で生きている人間の対比。
そして新潟の小さな旅館で、佐藤真の『阿賀に生きる』を初めて観た時、この作品に映し出された失われた美しい風景が、とんでもなく懐かしく、また映し出された人々は生き様が顔に刻まれながらもどこかユーモラスで、それがまた切なく、終始泣きそうだった。
小森さんがこの作品に影響を受けた、と語っていた意味がわかった気がした。『阿賀に生きる』が投げかけたことを、彼女は心のどこかで持ち続けながら歩き、自分の作品を生み出したのだろう。小森さんにしかできないやり方で。
だから私は、彼女の作品をずっと観続けるだろう。彼女の作品は自分にとって、時々取り出しては眺める、大事なお守りのような存在だ。
今でもこれら映画が差し出してくれた風景を時折思い出す。淀川長治は死が迫った時、この世界の美しさに確かに目を見開いていた気がする。
生きることに倦むことは、自分にとって日常茶飯事だった。自分の感性が面倒すぎるのだ、と恨めしく思ったことは1度や2度ではない。
それでも、思う。
映画『セブン』の有名な台詞はこうだ、
「世界は美しい、戦う価値がある。残りの半分は賛成だ。」
苦笑いしながら風景が語りかけてくる、世界が美しいと思える瞬間もあるよ。仕方ないよね、忘れちゃうよね、生きてるとさ。
この世は地獄だと思うけれど、確かにあの記憶の中の風景が語りかけてくる。
こうやって思い出しながら生きていくだろう。
ポケットの中のお守りを探り、時折散歩でもしながら。
いいなと思ったら応援しよう!
もしお気持ちをいただけたら、ちょっと疲れた時のお茶代にさせていただきます。日々の栄養である映画や展覧会の記事にも活用させていただきますね。ありがとうございます。