伊東静雄『水中花』を味わう(『花筐―帝都の詩人たち―』その1)
『花筐―帝都の詩人たち―』久世光彦
伊東静雄研究会会報180号
$${\LARGE 伊東静雄}$$
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ある詩との出逢いは、ある女との出逢いに似ているところがある。しかもその多くは、性悪女との悔いの残る記憶のように、二十年、三十年どころか、半世紀の月日が経っても老いた体内の血をかき乱し、女とのはじめての夜が差恥と殺気とともに蘇り、その日夢想した女の死を願う理不尽な衝動をさえ、私の中に呼び起こすのである。 たとえば白秋の ―― 「紺屋のおろく」がそうである。《にくいあん畜生》の紺屋のおろくは、十三歳の日から今日まで、猫を抱えては日暮れに現れ、浮気な日和下駄の音をカラコロさせて、私の窓の下を通り過ぎていくのである。
私の性悪女は、よく似た友だちを連れてくる。白秋の「紺屋のおろく」は、おなじ詩人の 「たんぼぽ」を連れてきたし、三好達治の「乳母車」は、ある日、その師朔太郎の「天上縊死」(『月に吠える』)と手を繋いでやってきた。やってきて、いっしょに歌うのである。そして私の部屋には、女たちが救いようのない声で泣きながらあちこちに佇み、思い思いの気儘さで歌うから、一人の夜などは、女たちの純情の声が交錯して、私はほとんど気が狂いそうになる。私の窓の下を通る人たちは、いったい何と思ったことだろう。―― ここは凶暴な獣の館ではあるまいか。それとも、ここは神の恩寵に包まれた、教会なのだろうか。
伊東静雄という優しい名の女が、誰に連れられてやってきたか ―― その記憶が私にはない。きっと道に迷ってか、酒に足をとられてか ―― そんなことで私のところへ迷い込んできたのだろう。伊東静雄は一人でやってきた。それだけは確かなようだ。他の女たちが、押し入れの中で歌ったり、天井裏でハミングするのが好きだったのに比べ、この女はめずらしく朝の窓や、怖いくらいに真っ赤なタ焼けを背に、屋根の上で仁王立ちになって歌うのが好きな女であった。たぶん、私が十七、八のころだったろう。私がはじめて聴いたその女の歌は「水中花」(『夏花』)という歌だった。
水中花と言つて夏の夜店に子供達のために売る品がある。木のうすいうす い 削片を細く圧搾してつくつたものだ。そのままでは何の変哲もないのだが、 一度水中に投ずればそれは赤青紫、色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコツプの水のなかなどに凝としづまつてゐる。
都会そだちの人のなかには瓦斯燈に照しだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひともあるだらう。
今歳水無月のなどかくは美しき。
軒端を見れば息吹のごとく
萌えいでにける釣しのぶ。
忍ぶべき昔はなくて
何をか吾の嘆きてあらむ。
六月の夜と昼のあはひに
万象のこれは自ら光る明るさの時刻
遂ひ逢はざりし人の面影
一茎の葵の花の前に立て。
堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。
金魚の影もそこに閃きつ。
すべてのものは吾にむかひて
死ねといふ、
わが水無月のなどかくはうつくしき。
私はこの歌を、詩集の中の一篇として読んだのではなかった。つまり、「若死」 や「砂の花」 などといっしょに彼の第二詩集『夏花』で知ったのでもなければ、『伊東静雄詩集』や、あるいは近代詩のアンソロジーの中で発見したのでもなかった。私は、これだけ一つにどこかで出逢ったのだが、それが、いつどこだったか、誰によってだったか、どうしても思い出せないのだ。この「水中花」が、私がはじめて読んだ伊東静雄の歌だったことと、これが私の前に現れたときに単独だったことだけは確かなのだ。
それなのに、どうしても思い出せない。目をつむると、原稿用紙のような黄ばんだ紙が、遠くぼやけた視界に浮かんでくる。文字は黒のインクである。四角ばって、書き慣れた字体である。誰かが、紙に書いて私に送ってくれたのかもしれないが、その顔がどうしても出てこない。三好達治の『花筐』を教えてくれた女の子でもない。ショーペンハウェルを中学生で読んでいた上級生でもない。国語の教師では、もちろんない。―― いったい、それは誰だったのだろう。
「水中花」 は、伊東静雄三十四歳のときに、《文芸文化叢書》の一冊として子文書房というところから出た、彼の第二詩集『夏花』に収められたものだった。昭和十五年のことである。前年に立原道造が死に、翌々年には萩原朔太郎が死んでいる。『夏花』 には、他に「八月の石にすがりて」や三島由紀夫が絶賛した「若死」などの名篇もあって、この詩人の生涯の中での―つのピークという人もいるが、この詩の 《すべてのものは吾にむかひて/死ねといふ》の二行にしても、「若死」の中の《若死をするほどの者は、/自分のことだけしか考へないのだ》というフレーズにしても、あるいは「八月の石にすがりて」 の 《八月の石にすがりて/さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる》の絶唱にしても三十四歳の詩人が眩暈のさ中に想う《死》の幻影が、明暗鮮やかな白黒の画面に刻み込まれているようである。―《詩》とは、《死》 のことなのだろうか。
「水中花」 は、前半部がロ語体の平明な文章で語られ、突然転調して、後半が変則七五調の文語体に変わる。語りと歌である。長歌に対する反歌といってもいい。後半部だけを独立した詩と見ることはもちろんできるし、前半を余剰のものと断じる人もいるようだが、私はそうは思わない。この突然の転調が「水中花」なのだ。静かに息を整え、一語一語確かめるように語りかけ、囁きかけ、そのロ元には穏やかな笑みさえ見てとれたのが ―― 見る見るうちに呼吸を乱し、形相を変え、目に生々しい血の色を浮かべ、抑制しつづけていたものを、一瞬に解き放って詩人は天空に叫ぶのである。この生理の蜂起が「水中花」を、またとない絶唱にした。白昼の幻の中に、人の生と死を激突させた。―― 私は「水中花」に窒息し、しばらくの間麻痺したまま青空を凝視していた、少年の日を思い出す。
私は水中花というものを、手にとって見たことがない。子供のころの縁日の屋台で、ガラスの器や鉢に満たされた水に浮かんでいるのを眺めていただけである。伊東静雄の詩にも現れる金魚の鉢の中に見たこともある。藻草が揺れる金魚鉢に、ピカピカ光る金魚が泳いでいた。底の辺りをゆっくり遊弋していた二匹の金魚は、呼吸が苦しくなったのか、連れ立って水面に顔をだし、空気を飲んだついでに、口先で水中花をつついた。水を吸っているくせに妙に乾いた花々は、無邪気な金魚の前では惨めな紙の花でしかなかった。ちっともきれいだと思わなかった。所詮は死んだ花である。それに比べ、金魚も藻草も生きていた。艶々と生きていた。 ―― 水中花が美しいのは、伊東静雄の詩の中だけである。
江戸のころ、水中花は盃中花とか酒中花と言われていたという。芸者が袂に隠し持っていて、酒の入った盃に浮かべて花を咲かせ、お座敷の客を喜ばせたからである。原料はヤマブキの茎や、タラノキの芯で、それに彩色して乾燥させ、水を吸うと赤や黄色の花が水中に咲くように細工を施したものだったのである。いまでも子供の玩具として、浅草仲見世辺りで売っているらしい。探しにいこうかと考えたこともあった。けれど、いつも思い止まった。子供の日の失望を、この歳になってもう一度繰り返すことはない。水中花は、伊東静雄が空に投げ上げて開かせた大輪の花を仰げばいい。半世紀の間に、私の水中花は少しずつ大きくなり、いまでは空いっぱいに花弁を広げる大輪の花になった。それは、伊東静雄とも縁の深かった日本浪憂派の中河与一が、昭和十三年に発表した 「天のタ顔」のラスト・シーンで、夜空にタ顔のように開いた、花火の花のようだった。「天のタ顔」の男・滝ロは京都の大学へいっていたころ、下宿していた家の美しい娘あき子を知る。そのころあき子は、もう人の奥さんだったが、二人は姐と弟のように親しく思い合い、やがて魂だけの狂おしい恋に陥る。魂だけだから、辛いのである。滝ロは富士山頂の観測員になり、深夜の空にあき子の面影を描く。時が経ち、二人はもう中年と呼ばれる歳になったが、ほとんど顔を見ることのないまま、褪せることのない恋に生きつづけていた。滝口は富士の山中に隠棲していて、あき子の死の報せを受け取る。そして彼は、山の頂から夜空に花火を打ち上げる。―― 《 かつてあの人がつんだタ顔を夜空へ花火としてうちあげたい。天にいる人がそれをつみとるのだと考え、いまはそれを喜びとするのです 》。虚空に開いた水中花と、天のタ顔《浪漫》の花は、いつも似ている。
伊東静雄の「水中花」がいまも多くの人に愛誦されるのは、凍りつくように孤独な《浪漫》と、それにふさわしい、後半部のリズムのせいである。
《今歳水無月のなどかくは美しき》(三・五・五・五)
《軒端を見れば息吹のごとく》(七・七)
《萌えいでにける釣しのぶ》(七・五)
《忍ぶべき昔はなくて》(五・七)
《何をか吾の嘆きてあらむ》(七・七)
という具合に、変則ではあるが「水中花」は七五調を基本の言葉のリズムとして歌われている。終連の《すべてのものは吾にむかひて/死ねといふ》は (七・七・五) と昂まって、ラストの《わが水無月のなどかくはうつくしき》 の(七・五・五)で納まる。気持ちがいいのだ。《詩》でもあるが、《歌》でもあるのだ。詩は、自然のうちに口にされなければならない。理解の以前に、まず歌われなければならない。もっと言うなら、歌うことによって自ずから理解が生じるものなのだ。それが古来の七五調でなくてはならないことは、もちろんない。たとえば、中野重治が昭和四年に書いた「雨の降る品川駅」という詩がある。
辛よ さやうなら
金よ さやうなら
君らは雨の降る品川駅から乗車する
李よ さやうなら
も一人の李よ さやうなら
君らは君らの父母の国にかえる
君らの国の河はさむい冬に凍る
君らの叛逆する心はわかれの一瞬に凍る
海はタぐれのなかに海鳴りの声をたかめる
鳩は雨にぬれて車庫の屋根からまひおりる
雨の品川駅から、故国に強制送還される朝鮮の友人たちを送る歌である。戦前のプロレタリヤ詩の名作である。(七・七・五) のように数字で表すことはできないが、この詩には確実なリズムがあって、「水中花」 とおなじように、自然の衝動でふと歌いたくなってしまう。 一連と二連は言葉のリズムで対応し、三連と四連では、 一行目と二行目がおなじように対応している。そしてそれが、背景の音として聞こえてくる雨滴のリズムになっているのだ。―― 雨滴の音は、湿った金や李の足音に重なる。雨の幕の向こうから辛の顔が浮かんでくる。金の薄い背中が見える。李の唇が歪んでいる。もう一人の李の首筋には古い傷がある。
詩は思想を超え、歴史の隙間を埋める。―― 私は左翼の 「インターナショナル」 と、右翼の「昭和維新の歌」が、どっちもおなじくらい、好きである。(つづく)
【参考】
紺屋のおろく 北原白秋
にくいあん畜生は紺屋のおろく
猫を擁へて夕日の浜を
知らぬ顔してしやなしやなと。
にくいあん畜生は筑前しぼり、
華奢な指さき濃青に染めて、
金の指輪もちらちらと。
にくいあん畜生は薄情な眼つき。
黒い前掛毛繻子か、セルか、
博多帯しめ、からころと。
にくいあん畜生と、擁へた猫と、
赤い入日にふとつまされて、
潟に陥つて死ねばよい。ホンニ、ホンニ……
たんぽぽ
わが友は自刄したり、彼の血に染みたる亡骸はその場所より靜かに釣臺に載せられて、彼の家へかへりぬ。附き添ふもの一兩名、痛ましき夕日のなかにわれらはただたんぽぽの穗の毛を踏みゆきぬ、友、時に年十九、名は中島鎭夫。
あかき血しほはたんぽぽの
ゆめの逕にしたたるや、
君がかなしき釣臺は
ひとり入日にゆられゆく…………
あかき血しほはたんぽぽの
黄なる蕾を染めてゆく、
君がかなしき傷口に
春のにほひも沁み入らむ…………
あかき血しほはたんぽぽの
晝のつかれに觸れてゆく、
ふはふはと飛ぶたんぽぽの
圓い穗の毛に、そよかぜに…………
あかき血しほはたんぽぽに、
けふの入日もたんぽぽに、
絶えて聲なき釣臺の
かげも、靈もたんぽぽに。
赤基地志保はたんぽぽの
野邊をこまかに顫へゆく。
半ばくづれし、なほ小さき、
おもひおもひのそのゆめに。
あかき血しほはたんぽぽの
かげのしめりにちりてゆく、
君がかなしき傷口に
蟲の鳴く音も消え入らむ…………
あかき血しほはたんぽぽの
けふのなごりにしたたるや、
君がかなしき釣臺は
ひとり入日にゆられゆく…………
「おもひで 抒情小曲集」東雲堂書店 1911(明治44)年6月5日発行より
乳母車 三好達治
母よ――
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり
時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかつて
轔々と私の乳母車を押せ
赤い総ある天鵞絨の帽子を
つめたき額にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり
淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知つてゐる
この道は遠く遠くはてしない道
測量船 (1930)
天上縊死 萩原朔太郎
遠夜に光る松の葉に、
懺悔の涙したたりて、
遠夜の空にしも白ろき、
天上の松に首をかけ。
天上の松を恋ふるより、
祈れるさまに吊されぬ。
【作者紹介】
久世 光彦(くぜ てるひこ、1935年4月19日 - 2006年3月2日)は、日本の演出家、小説家、実業家、テレビプロデューサー。テレビ制作会社「株式会社カノックス」創業者。テレビドラマ、小説ともに受賞多数。
歌謡曲作詞や脚本家としてのペンネームに市川 睦月、小谷 夏、林 紫乃など。兄は元参院議員・金融再生委員長を務めた久世公堯。母方叔母に置塩壽。
演出家、プロデューサーとして『寺内貫太郎一家』、『時間ですよ』などテレビ史に残る数多くのテレビドラマを製作した。1987年に出版された処女作『昭和幻燈館』を皮切りに、作家活動を本格的に開始。小説・評論・エッセイなど幅広く執筆活動を行った。独自の耽美的な作風を確立して多くの文学賞を受賞。



【伊東静雄研究会とは】
伊東静雄研究会とは、伊東静雄に感心のある者が集まる少人数のグループです。諫早図書館で毎月第四土曜日の午後2時から4時ころまで、伊東静雄の詩集や評論などを輪読したり、会報に関する感想や意見を述べ合ったりしています。
諫早市在住者のほか、長崎市から毎回参加されている方もいらっしゃいます。伊東静雄に興味のある方で、研究会に参加してみたいという方がいらっしゃいましたら。世話人である山本博幸(090-9722-0417)までご連絡ください。ご一緒に伊東静雄の世界を彷徨いましょう。
