【最終回】竣と少女と周三のある暑い夏 ⑩
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周三はまるでその言葉を予想していたかのように深く頷いた。
それをかすかに聞きとった竣は訳が分からずに、
「家に戻るって、今晩はここに泊まっていくんでしょう?」
周三は「ああ、そうだよ。今日はここに泊まるんだ」と言い、竣はそれを聞いて安心して、また子どもたちに絡まれていった。
少女は
「こうして竣がうちに来てくれて本当によかったわ。わたしも安心よ」
と言い、周三はまた、
「そうだな」
と言って感慨深そうにつぶやき、また太郎たちとの話に戻っていった。
翌日も竣は興奮しっぱなしの一日だった。遊園地の乗り物や着ぐるみのキャラクターも、広い芝生の上で食べるソフトクリームも何もかもが初めての経験だった。子どもたちも竣と一緒にはしゃぎまわった。自分を信じてくれている大人の見守りの中でこうして心から羽を伸ばして自由に振る舞うという経験は竣にとって初めての心地よさだった。竣は身体の浮き上がるような、心が開放されるような夢のような一日を過ごし、帰りのワーゲンバスの中では、子供たちと一緒にすっかり熟睡した。
竣が熟睡している中、少女は周三に言った。
「なるべく早い方がいいと思うの」
周三がハンドルを握りながら、ゴクリと音を鳴らして唾を飲み込んだ。
「病院の人たちは反対すると思うがな」
周三は遥か遠くを見つめ、搾り出すように呟いた。
「それにしてもいい旅行だったわ。50年ぶりだったのに全然変わってなかったわね。あの温泉」
「そうだな」
二人は今回の旅行と新婚旅行の思い出と重ね合わせた。
あまりの満ち足りた時間の中で、周三の言葉は少なかった。
ワーゲンバスは途中で何度かエンストを繰り返しながら、なんとか太郎の工場まで戻ってきた。
「よく頑張ったな。僕のワーゲンバス」
竣が満足そうにボンネットを開けてねぎらいの言葉をかけた。
バス旅行の翌日。周三が竣に言った。
「竣、この前お前がこっそり病院に見に来てたばあさんだけどな。そろそろこの家に戻そうかと思っているんだ」
竣は、こっそりついて行ったことがバレていたことと、家に戻るという提案との両方に驚きすぎて目を丸くしたまま返事も出来なかった。
周三は言った。
「お前はどう思う?」
「え?え?あの婆さんのこと?だって婆さん寝たきりじゃないか。身体にたくさんチューブとかコードとかつけてるし…病院から出て大丈夫なの?」
「大丈夫だ。何とかなるものさ。いつまでもあの病院で一日中天井ばかり見ている生活じゃあ、かわいそうだろう」
竣は以前に聞いた話を思い出した。身体も動かない、口もきけない。朝起きてから寝るまで同じ天井だけを見ている生活。これじゃあ、何のために生きているのか分からない。
「寝たきりだって、ドライブにも連れて行きけるし、海や山へ行っておいしい空気を吸うこともできる。竣、手伝ってくれるだろう?」
竣はよくわからないまま、自信なさげに頷くしかなかった。
台所でその話を聞いていた少女が楽しそうに鼻歌を歌っていた。
翌日、竣と周三と少女は病院へ向かった。
周三が担当の医師と面会を申し出た。
担当の医師はアポなしの面会に顔色を曇らせたが、緊急の話だと言う周三の話を聞いてくれた。
40代の脂の乗り切った感じの医師だった。受け答えの一つ一つに患者や病に正面から向き合う姿勢が見えた。それだけに自らの仕事に自信を持っている雰囲気が漂っていた。
「それは無理ですよ。見てのとおり食べ物は直接、胃へ流し込んでいますし、呼吸も機械の補助がないと上手くいかないのです」
とても無理だと繰り返し、何度も首を振る。
機械の操作方法もしっかりと覚えるから大丈夫だと周三が頼み込むが、担当の医師は全く相手にしてくれない。
自分の仕事に自信を持っているだけに頑なであり、周三が付け込む余地を与えなかった。
打ちひしがれた気もちで周三は病院を出た。
だが諦めるわけにはいかない。
周三は翌日、理恵を訪ねた。理恵は地元で訪問看護師をしている。
「わたしは看護師だし、それに病院の外にいる身分だから担当の先生を説得する力なんかないんだけど…」
と困惑しながら、周三の話に耳を傾けた。
最近は在宅医療や介護が進歩して、寝たきりでも自宅で療養が出来るということを周三はどこからか聞いたようだ。妻を十年間も刺激の少ない病院に入院させてしまったことにも後ろめたい気持ちがあるとのことだった。
理恵は周三の言うことはもっともだと思った。
周三の懇願の前に理恵はついに、
「周三さん、わかったわ。わたしなりになんとかやってみる」
と言った。
翌日、理恵は周三を連れ、担当の医師と面会した。担当の医師は理恵の話を聞き、眼鏡の奥の瞳を曇らせた。
「いくらご家族のご意向でも、この状態で『在宅』にするのは…」
と困惑している。
理恵が横から口をはさむ。
「先生、私、地元で訪問看護をやっているものです。在宅医療の先生に訪問診療をお願いすることも出来ますし、医療面での管理は問題なく出きると思います。幸い、私の自宅も鈴木さんの家からそんなに離れていないですし。訪問看護や介護も頻繁に入れるようにケアマネさんと調整して、責任もって看護します。」
と申し出た。
医師は腕組みしながら言った、
「訪問看護師であるあなたがそこまで言うのなら…ただ、私は医師として一切の責任を持てません、そこだけは承知しておいてください。」
いつのまにか周三の後ろに立っていた少女は顔を真赤にして怒っている。
「何いってんのよ!そもそもあんた達なんかに責任とってもらうつもりなんかサラサラないわよ。いままでチューブにつなぎっぱなしで何にもしてこなかったくせに、こういう時だけ大きな顔しないでほしいわ!」
周三はそれを背中で聞きながらそれでもいいことを医師に伝えた。
医師が看護師長を呼び、こういうことだから退院の手続きを進めるように指示した。
看護師長は、「この状態で『在宅』ですか?」
と呆れたような声をあげた。
看護師長が「一週間後に退院の手続きと機械の操作方法を説明するので、予約を入れました」と事務的に伝えた。
「説明を聞くのを待つだけで一週間ですか?」と周三は苦情を申し出たが、看護師は取り付く島もなかった。この様子だと、実際に退院できるのはまだまだ時間がかかりそうだと思った。
少女は頭から湯気が出るほどの勢いで、「今晩、退院します!」と周三に言った。妙に焦っている。
少女が介護用のベッドやポータブルの人工呼吸器など、当面必要な介護用品のリストをつくった。周三がそれを理恵に渡して準備を依頼した。
周三は竣へ、
「ワーゲンバスを改造してばあさんのベッドが入るようにするぞ」と指示をだした。
竣は周三の指示どおりワーゲンバスの助手席と後部座席を外し、ベッドがはいるように改造した。
「本当にこんなことして大丈夫なの?」
言われるままに手際よく動いてはいるものの、竣はこの計画に未だ半信半疑だ。周三はいう
「本人が望んでいることだからな。自分の人生は自分で決める。それだけだ。」
竣には周三の言葉の意味がよくわからなかった。ただ、長年の闘病・看病生活の末のその決断に逆らえるはずもなかった。
準備が終わると、夜の時間を見計らって、周三と竣と少女は病院に向かった。もちろん表玄関は真っ暗だ。裏口のような救急口に回る。救急と言ってもこの病院は救急患者はこない。入院中の患者の急変時にもっと大きな病院に搬送するようなときのための搬送口だ。守衛室も暇そうな警備員がひとりいるだけ。入院中の家族の急変だと偽ると簡単に守衛室を通ることができた。
三人は守衛室の傍らに置いてあるストレッチャーを拝借しおばあさんが入院している部屋に向かう。用意してきたポータブル人工呼吸器は非常に軽く、ショルダーバッグで持ち運べる程度のものだった。病室に着くと周三はその人工呼吸器をおばあさんの喉元に素早く装着する。長年の看病の間に身につけたのだろう、手慣れた手さばきだ。持ち込んだ呼吸器からおばあさんの体にきちんと空気の出入りしていることを確認すると周三は竣と力をあわせておばあさんの身体をストレッチャーに乗せた。
その身体は竣ひとりでも持ち上げられるくらいの軽さだった。栄養を管で送られ生きてきたおばあさんの10年間、その重さと軽さが両腕で感じられた。
少女の先導でストレッチャーが廊下を急ぐ。不審に思われないように平静を装いながらも、なるべく早足で病室のドアを過ぎてゆく。夜の病院はひんやりとしていて、廊下はいつもより長く感じた。
「迷子になりそうだね」
竣が息を切らしながら不安そうに言う。少女が、
「大丈夫よ。この病院のことなら私が全部知ってるから。このルートは今は看護師が見回りにこない時間帯だから大丈夫。」
と言いながら二人の前を行く。廊下の電灯は夜間用に薄暗くなっているが、進行方向の電灯が行く先を導くようにピカッ・ピカッと明滅する。少女はそれを見てかすかに笑った。
廊下を進みながら、通りかかる病室を竣が横目で見る。どの部屋もベッドが最小限の隙間でびっしりと並べられており、ベッドにはチューブにつながれている高齢者が静かに眠っている。
「みんな、寝たきりで意識がない人たちよ。誰だって、早くあのチューブから解放されて自由になりたいのよ」
と少女が言う。
少女は滑るように進む。
随分と滑らかな進み方だと竣が思い、ストレッチャー越しに少女の足を覗き込む。少女の足が地面から浮いているではないか。竣はびっくりして目を剥いた。
「あ、あれ!」
と周三に向かって少女の足を指差す。周三もそれを見た。それなのに周三は眉一つ動かさない。黙々とベッドを進めるだけだ。竣はそれ以上何も言えなかった。
少女は「ちょっと、待って」と言い、足を浮かせたままとある病室に入って行った。いくつもの寝たきりの高齢者のベットの横を通り、一人の老婆の前に立った。
少女はその老婆の口にスポイトで少量の水を流した。
すると老婆が「うぁ~」と気もち良さそうに大きなあくびをした。それからわずかに目を開けて少女を見た。
老婆は少女と目が合うと、ゆっくりと頷くようにして微笑みかけ、やがてまた眠りに入った。
少女は
「このおばあさん、知恵さんって言うの。私の友達。五年前までは生きる気力が少しはあったんだけど、今はもうすっかり諦めているわ。」
と呟いた 。
守衛室はたまたま留守で難なく通り過ぎることができた。ワーゲンバスに着くと周三はおばあさんを抱えあげ、ストレッチャーから車内のベッドに乗せかえた。竣はポータブル人工呼吸器を手に、呼吸器の管がおばあさんの喉から外れないようにしっかりと確認した。
周三は車を走らせた。
ワーゲンバスがおばあさんを歓迎するようにいつもより派手なエンジン音を上げ走り出す。やっとの思いで法定速度までスピードを上げ、国道を進んでいく。
周三と竣と少女、そしておばあさん。4人を乗せたワーゲンバスは車もまばらな真夜中の街を滑るように走る。しばらくして少女が言った。
「ねえ、このままあの海までドライブしたいわ。いいでしょう?」
と少女。周三が、「わかった」と言い、次の交差点でハンドルを切って海へと向かった。
少女がおばあさんの呼吸器のバッテリー表示を確認する。残りは六時間。
途中で一度、エンストを起こし、竣と周三がボンネットを開けて中を見た。
「たのむぞ、ワーゲンバス!お前だけが頼りなんだ。」
竣がそう声をかけながら、エンジンのバルブを調節した。竣のその言葉を理解したようにワーゲンバスは再びエンジン音をうならせながら走り出した。
やがて正面に海が見えてきた。フロントガラスの向こうで水平線の空が白み始めている。夜が明け始めていた。海が白く輝いている。
少女は何かの思いに耽りながら美しくも懐かしい海を見つめている。その目は水平線の遥か彼方を見つめているようだった。
「着いたぞ」と周三が声を張り上げた。
竣は「よく頑張ったな。ぼくのワーゲンバス!」と声をあげた。
海岸の駐車場にワーゲンバスを停め、周三はおばあさんの上半身をゆっくりと抱き起こした。ベッド端に座らせると、彼女の身体を支えるように自分もその横に座った。ワーゲンバスの窓から朝日が水平におばあさんの顔を照らす。頬が光っている。微笑んでいるようだ。
「ばあさんがよろこんでる。気もち良さそうだ」
と周三が微笑む。少女はおばあさんの反対側でピッタリと周三に寄り添い、周三の腕に頬を寄せた。少女が周三に言う。
「昔、二人でよく来たわね」
周三はしみじみと頷いた。少女と周三とおばあさんはただただ吸い寄せられるように海を眺めていた。三人の顔は朝日でオレンジに輝いていた。それはまるで若かりし頃の思い出を一つ一つ辿っているようだった。竣には、三人の横顔がとても楽しそうにも、この上なく悲しそうにも見えた。竣は少し遠慮して、車の外にでた。
呼吸器の残り時間は三時間。少女がさらに周三に身体を近づけた。
「あなた、これまでありがとう。十年間も一人にしてしまってごめんなさい。でもあなたに家族が出来て本当によかった。これで私も安心出来たわ」
周三は、黙って少女の肩を抱きしめた。
耳に届くのは波の音だけ。三人はそのまま動かず、時間が止まったようだった。
自宅に戻ると周三はすぐに理恵の携帯に電話し、事情を説明した。訪問看護や訪問介護・在宅医療の手配をいち早くせねばならない。事情を知らない理恵は激怒した。
「え?勝手に病院を逃げ出してきた!?ほんとに?ちょ、ちょっとなんてことをするのよ!今すぐ行くから待ってなさい!」
電話口から火が出そうな勢いだった。理恵は医師に連絡を取り、始業前の忙しい時間に申し訳ないが周三の家に訪問してもらいたい、と頼み込んだ。
周三の家に医師と理恵が駆けつけた。理恵は猛然と家の中に入り、周三と竣を問い詰めた。医師はちょうど周三と同年代くらいの高齢医師で、どうやら周三とは知り合いらしかった。
「まあまあ理恵さん、もう連れてきちゃたんだからしょうがないさ。そうだろ、周三さん。美枝さんだって早く帰ってきたかったんだろうしね。」
と言いながら、ゆっくりと美枝の診察を始めた。その間も理恵は、周三や竣に小言を言いながら人工呼吸器や胃瘻チューブのチェックをしている。医師はしみじみとつぶやくように
「倒れる前まではよく診療所に夫婦で来てくれたよね。美枝さんも歳をとった…。いままでよく頑張ったなぁ。辛かったろうね。そうか…、家に帰ってきたのか。よかったな…。」
と言った。理恵は周三と竣の方に振り向いて、あらためて怒鳴る。
「もう!ほんとによくこんな無茶なことしてくれるわね!折角病院に頼みこんで許可をもらえたのに!私の立場だってあるんだか…」
その時、竣の耳に轟音のような耳鳴りが響いた。
それは一瞬のような、それでいて長く続くような、なんだか周りの景色が渦を巻いて回転するような激しい感覚だった。その感覚がすっと引き竣は我に帰った。あたりを見わたすと、理恵も医師も動きが止まっていた。まるで動画の一時停止ボタンを押したかのようだった。
「え?え?これ何?理恵さん?」
狐につままれた竣が慌てふためいて理恵に駆け寄ろうとする。理恵は口を大きく開けたままだ。理恵も医師も、その場の誰もが不自然な姿勢のまま全く動きを止めてしまっている。まるで時間が止まったかのようだ。
すると横から少女の声が聞こえた。
「昨夜は本当に楽しかった。ありがとう。でもこれでお別れよ。」
「え?」
少女は周三に走りより、周三をギュッと抱きしめた。まるでその感触を噛みしめるように自分の顔を周三のシャツの皺の中に埋め込んだ。
「あなた、十年間ありがとう。あなたもずっと一人で苦しかったと思うわ。感謝してる。でも、今はもう大丈夫ね。もしかしたら元気をもらったのは私たちの方かもね。」
少女は力いっぱい周三を抱きしめながら、チラっと竣を見てそういった。周三はまるで時を惜しむかのように無言で少女をギュッと抱きしめた。
竣は混乱していた。
「どうしたのさ!なにこれ?訳が分からないよ!」
「本当はね…本当は十年前に行きたかったんだけど。あの時、あなたのお母さんに頼み込まれちゃってね。いきそびれちゃったのよ。まあ、これで約束も果たせたわ。やっと終わりにできる。最後に懐かしい家にも帰れたし…じゃ、あなた。行くわね。いつまでも愛してるわ」
少女はもう一度、周三を強く抱き居しめた。
「え!?母さん?母さんってなに?」
少女は微笑みながら言った。
「もう思い出しても大丈夫よ」
竣は再び轟音のような耳鳴りを聞いた。同時に竣の頭の中の記憶のテープが一気に巻き戻される。記憶がフラッシュバックする。それは竣が忘れていた、いや忘れようとしていた、赤ん坊のときの記憶だった。
おっぱいを飲みながら見上げた優しい母の顔。
事故の時、自らの犠牲にしてまで自分を助けくれた母の必死の形相。
傍らで倒れた老婆の上にいる少女。
母は少女に泣きながら『竣を頼む』と懇願していた。
葬式では母の魂が親戚たちに激怒し、天井の照明がジジジと点滅した。
何も知らずそれを笑顔で見つめていた赤ちゃんの頃の自分…。
赤ちゃんの頃の母の思い出を詰め込んだ記憶の箱、今まで鍵がかかっていたその箱が「もう思い出しても大丈夫よ」という少女の一言で一気に開放された。
その瞬間、それまでずっと続いていた轟音のような耳鳴りが消え、ノイズのような日常の生活音が突然戻ってきた。
時間が流れる。
理恵が再び動き出す。竣はすべてのことに頭が混乱し、頭を抱えながら
「ウワーッ」
と叫ばずにはいられなかった。
その時理恵が異変に気づいた。美枝の顔から血の気が引いていたのだ。医師が慌てて診察する。呼吸も心臓も止まっていた。
理恵が大声で叫ぶ。
「AED持ってきて!心臓マッサージ!」
竣はまだ混乱から抜け出せ切れていなかったが、それでも美枝の異変には反応せずに居られなかった。美枝に駆け寄り体を揺すった。
「ばあちゃん!死んじゃダメだ!うわーっ!」
と泣きながら叫んだ。理恵は大声で
「先生、救急車!」と叫ぶ。医師はおろおろしている。竣は周三の方を振りかえる。さっきまで周三に抱きついていた少女はすでに居なくなっていた。周三は立ち尽くし、上を向きながらこらえきれない涙を一筋流していた。そして、全てを悟ったかのように目を見開き、大声で言った。
「先生!」
一同驚いて周三を見る。
周三は一呼吸おき、落ち着いた口調ながら力強くこう続けた。
「老衰でいいよな」
理恵も医師も竣も、強い意志のこもった周三のその言葉にハッとなった。皆が沈黙した。それまでの喧騒が嘘のような静けさが訪れた。
窓の外から晩夏の力強い日差しが室内に照りつけ、森のセミが静かにミーンミーンと鳴きだした。
そしてまた照明がジジジと音をたてて点滅した。
エピローグ
春。森では暖かな日差しの中で桜が咲き始めている。あれから8年、周三の家は以前と何の変わりもなく森の中で佇んでいる。一方、竣は大きく変わった。身長180センチのスマートな青年に成長した竣はこの春で高校を卒業、四月から地元の大学で自動車工学を学ぶ予定だ。
周三は杖を突きながらも元気。理恵・太郎・子どもたちも元気に暮らしている。 あれ以来、周三と太郎は二人で廃車寸前の旧車、特にワーゲンバスを仕入れてきては協力して修理をするようになった。
「周三、今度のワーゲンバスは上物のべっぴんさんだ!お前のへっぴり腰で掘り出し物をオジャンにするなよ!ガハハ!」
お互い憎まれ口をたたきながらも二人は楽しそうだ。間を取り持つ竣がいることも大きな要因だろう。流石に周三も太郎も高齢なので、彼らが指示を出し、作業は主に竣が担当している。
竣はそんな日々を『不良ジジイのワーゲンバス復刻日記」というブログで全国に発信。日々更新しているうちに名前が売れ、少しずつ全国から注文が入るようになった。中学生になった理恵の子供たちがスマホでいい写真を撮ってくれるのだ。
周三に竣に太郎に理恵、そして大きくなった子どもたち、みんなが集まって笑っている。周三が「腰が痛い、もうダメだ」と弱音を吐いた。 竣が言った。
「そんなこと言ってるとばあちゃんにおこられるぞ」
作業場の照明が一瞬ジジジと点滅した。
「ほらね!」
竣がそう言うと、皆が大笑いした。
笑い声は森の中に包みこまれるように消えていった。
終
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夕張に育ててもらった医師・医療経済ジャーナリスト。元夕張市立診療所院長として財政破綻・病院閉鎖の前後の夕張を研究。医局所属経験無し。医療は貧富の差なく誰にでも公平に提供されるべき「社会的共通資本」である!が信念なので基本的に情報は無償提供します。(サポートは大歓迎!^^)