音楽を流さなかった夜
あの夜の続きみたいな話です。
その夜、私は音楽を流さなかった。
部屋に帰って、いつものように
スマートフォンを手に取って、
再生ボタンを押しかけて、やめた。
理由は、特にない。
ただ、そのままの静けさを、
少しだけ置いておきたくなった。
何も流れていない部屋は、
思っていたよりも広かった。
冷蔵庫の低い音。
時計の針が進む、小さな音。
外を通り過ぎる車の気配。
普段なら気にも留めないものが、
一つずつ、はっきりと輪郭を持ち始める。
少しだけ、落ち着かない。
音がない、というよりも、
自分の中にあるものが、
そのまま浮かび上がってくる感じがした。
いつもは、何かを流している。
好きな音楽や、
なんとなく選んだプレイリスト。
音に包まれていると、
考えなくていいことが増える。
少しだけ気分が上がって、
少しだけ安心する。
たぶん、それでちょうどよかった。
でも、その夜は、
何も流さなかった。
流さなかった、というよりも、
流す理由が見つからなかった。
静かなまま、部屋に座る。
時間がゆっくりになる。
何かをしなければ
いけないわけでもないのに、
どこかで「このままでいいのか」と思う。
その感覚を、いつもは音で埋めていたのかもしれない。
コンビニの帰り道も、静かだった。
あのときも、私は何も選ばなかった。
何も手に入れずに帰ってきて、
そのまま、何も流さずにいる。
少しだけ、不安で。
少しだけ、落ち着かない。
でも、それをごまかすものが、何もない。
音がない分だけ、
自分の輪郭が、はっきりしてくる。
考えたくないことや、
言葉にしきれない感情が、
ゆっくりと浮かび上がってくる。
それは、決して心地いいものではなかった。
でも、不思議と、嫌ではなかった。
音で整えられた時間よりも、
少しだけ、正直な感じがした。
部屋の中の静けさは、
外の夜とつながっているようだった。
窓の向こうの暗さと、
この部屋の空気が、
同じ温度で続いている。
何も足さないまま、
時間が過ぎていく。
気づけば、いつもより長く、
何もしていなかった。
それでも、退屈ではなかった。
むしろ、少しだけ軽かった。
何かを足して満たす感覚とは違う、
そのままでいることの、静かな軽さ。
あの夜、音楽を流さなかったことは、
ほんの小さな選択だった。
それでも、あの静けさは、
どこかに残っている。
今でも、ときどき思い出す。
何も流れていなかった部屋のことを。
「足さない夜の記録」というマガジンを作りました。
静かな時間の話をまとめています。
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