その怨み、晴らします……第13話
元カノと毒親のブルース②
時計の針は二十二時を過ぎようとしていた。
功佑は一人、社内で残業。夕方過ぎに乙川たちに、明日のプレゼン資料の準備を頼まれ、一人悪戦苦闘中。今日中に終わるのか些か不安が募る。
しかも今日は近くの居酒屋で、篠北の歓迎会だった。資料の準備半ばで功佑もその席に駆り出される。そしてさっきまで隣にいた篠北は、たちまち先輩社員たちに囲まれ、わずか数分で高嶺の花と化す。
皆が酒と会話を愉しむ中、功佑は申し訳程度に串ものと烏龍茶を腹に流し込むと、急いでその場を後にした。隣にいた水野という女子社員に仕事に戻る旨を伝えるも、引き止められることもない。正直この場には功佑は必要ないという事。だったら強制参加させんなよ、そんな気持ちを飲み込んで、功佑は事務所へと駆け戻るのであった。
「終わるかなあ……」
残業開始二時間でやっと半分。缶コーヒーをすすりながら、功佑は一人呟く。
「よ! お疲れちゃん!」
その瞬間背後から突然、杏奈が飛び出してきた。
「わ! びっくりさせないでよ、もう!」
彼女の急な出現に、功佑は本当に驚いた。
「心霊童貞かよ! 功佑坊っちゃんはそこら辺、玄人のはずでは?」
「なにそれ?」
杏奈はケラケラと笑いながら、からかうような表情をする。その妙なテンションの高さに、功佑は不自然さを覚えたが、敢えてそれは胸に留め置いた。
「帰りが遅いからまた残業だろうって、この美人幽霊が手助けに来てあげたんだから、嬉しく思いなさい」
杏奈はしたり顔。
「こっちもおるで! 早う終わらせて酒にしようや」
今度は忍野と春氏が事務所に入ってきた。
「腹ごしらえはたんとあるで!」
忍野はそう言うと、手に持っていた風呂敷包みの中身を、机の上に広げて見せた。その中からはおにぎりと漬物、肉じゃがが姿を現した。その量はいつもの倍はあった。忍野は何かあると決まって、料理の量や品数が増える。功佑はその量を見て、彼にも『何か』があったことを悟った。
「拙者も助太刀致す!」
春氏もやる気満々で鼻を鳴らす。特に彼はここ数年、功佑の仕事を手伝うようになって、事務仕事をこなせるようになっていた。最初はその解釈に躊躇していたが、杏奈の指導が的確だったのか、或いはそもそもの素地が良かったのか、見る見るうちに仕事を覚え、楽しくなってきたのか、次はパソコン! とさえ息巻いている。
「じゃあ、ごめん、いつものようにお願いしていい?」
功佑は三人の幽霊に指示を出し、自らも作業に入った。
「終わったあ!」
時計の針は二十三時二十分を越えようとした刹那、功佑が感無量の声をあげた。
杏奈たちが来なかったら、絶対に今日の残業は日を跨いでたはず。
「ありがとう! みんな!」
功佑が三人に向けて力強くサムズアップすると、杏奈たちも同様に返す。
「さあさあ! 待ちきれんで……」
そう言って忍野が着流しの中から酒を取り出そうとした刹那、
「ちょっとたんま!」
杏奈が急に厳しい声を上げた。すると四人の後方、事務所の入り口のドアが徐に開いた。
と、同時に杏奈たち三人は速攻で姿を消す。
取り残されたのは功佑と、食べ残しのおにぎりと漬物、そして空になった容器。
「おつかれさまです~」
「あれ? 篠北室長?」
「やっぱり河東さん、残業してた!」
事務所に入ってきたのは、少しだけ顔を紅潮させた篠北だった。
「二次会抜けてきました。明日のプレゼン資料、乙川さんに言われてたでしょ? 一人に押し付けちゃってごめんなさい。今から私も手伝います!」
真剣な面持ちでそう言うと、篠北は上着を脱ぎ始めた。
「あ、いや……すみません、一応、もう終わりました」
「え? あの量を?」
「はい、取り敢えず終わらせました」
驚きを隠せない篠北。杏奈たちに手伝ってもらった手前、少しだけ後ろめたい気持ちもあったが、一先ず笑顔で誤魔化した。
篠北は目を丸くしながら、長机の上に綺麗に整理された資料に視線を落とした。
「だから室長は二次会に戻っていただいて大丈夫です」
功佑はこれ以上詮索されないように平静を装う。
「あれ?」
篠北は、今度は食べ残しのおにぎりに気付いたようだ。
「あっ、これは、会社の近くに行きつけの小料理屋があって、歓迎会の帰りに立ち寄ったら、こんなにたくさん……」
見え透いた嘘をつく功佑を置いて、篠北は残っていたおにぎりに手を伸ばした。
「おいひぃ~! どこの、なんて言うお店なんですか?」
口いっぱいに頬張りながら、篠北は興味津々に功佑に振り返る。
「あ、いや……その……内緒です!」
功佑は精一杯の誤魔化しで、その難局を交わす。
「ひどい! えっと、企画室長からの業務命令です! 私をいつかその店に連れて行きなさい! いい? 分かった?」
酔った勢いか、悪戯におどけてみせる篠北。
「あ、はい……いつか……」
功佑はその悪ふざけに、ただただ苦笑いをすることしか出来なかった。
それからおよそ一週間、功佑と篠北は常に一緒だった。
多少の窮屈さを感じてはいたものの、優しく接してくれる彼女に、功佑は少しずつ心を開き始め、その関係性に心地よさと安心をも感じ始めていた。
「河東君、そろそろ記事を書いてみない? 今の業務も大切だけど、河東君ならきっといい記事を書けると思うんだけど」
とある日の昼休み、ビルの屋上で篠北が切り出した。いつの間にか彼女は功佑を河東君と、親し気に呼ぶようになっていた。
「一度だけ、副編集長に企画書を出した事あるんですけど、読めたもんじゃないって突っ返されました。それ以降は見向きもしてもらえません」
「そっか……それでどんな企画書だったの?」
「えっと……当時、高苗市内の飲食店が軒並み閉店や休業をしていまして、その時マンスリーナビたかなえの読者欄に、思い出の店が無くなったとか、あの店を復活させてくださいって声が多かったんです。だから読者参加型の推し店舗応援企画として、応援したいお店を募集して、そこの上位五店舗にお得なクーポンを発行するみたいな……そんな感じの企画でした」
過去の傷跡をそっと撫でるようにして、功佑はその企画を掻い摘んだ。
「確かに無料情報誌では、その企画だと出来る事は限られてくる……けど、あくまで読者の目線を持つっていう着眼点は悪くないし、ねえ、その企画、改めてブラッシュアップしてみない? 私も協力する!」
功佑は急な申し出に躊躇した。
「いや、滅相も無い! 室長にご迷惑をかけるだけです! そんな、僕の為なんかに……」
「ねえ、河東君、少し厳しい物言いになるけど、ずっとこのまま雑用に徹するつもり? それって勿体なくない? 貴方と同年代で沢山記事を書いたり、企画やイベントを取り仕切ってる人もいっぱい居るんだよ。確かに企画を練り直しても形にならないかも知れない。ましてやどんなにいい企画であっても、結果を出せない事だって沢山ある。だけどその積み重ねが無いと、良い企画書なんて出来っこないし、結果なんて出ない。要は動かなきゃダメって事。ここ一週間だけど貴方を見てて、私、実感したの。貴方はやればできるって」
まるでやる気のない子供を諭すように、篠北は功佑に力説する。
そしてその言葉一つ一つが功佑の胸の内を締め付けた。
傷付くことが怖くて、敢えて目先の仕事に逃げている彼を、篠北は見抜いていた。
「大丈夫! 安心して。貴方には私が着いている!」
言葉に窮する功佑に見かねたのか、篠北は優しく微笑んで、右手でサムズアップして見せた。それでも功佑は何も言えず、ひたすらに唇を噛みしめるのだった。
『もう過去の事、もう終わった事なんだから……』
杏奈は自分にそう言い聞かせる。しかしあの日の光景が彼女を問い詰める。
『お前は何故そこにいる? お前は誰だ? お前は何だ?』
あの日彼女が目にしたのは、変わり果てた桜井の姿だった。
スリムで年齢を感じさせない容姿はいずこへ。贅肉の塊と化した体躯に、ボサボサで白髪だらけの頭。無責任で悪戯な表情は、自信の無さに転化し、周囲に怯える『弱さ』と『疲れ』に蝕まれていた。
まさに急激に太って老けた、それに尽きた。一般男性としては年相応だが、過去の彼を知る杏奈にしてみれば、それは驚きを越えてもはやショックだった。こんなみすぼらしい男の為に自分は命を落とし、死後の数年間を彷徨い続けていたのか? そう考えただけで虫唾が走る。
そしてそれ以上に、そんなにも変わり果てた過去の想い人を、たったの一度で、声と顔だけで本人だと確信し、ましてや胸がざわつく自分に腹が立って仕方がなかった。
更に、彼を取り巻いている二人の母子が、杏奈の心境を複雑にする。
母親と思しき女性の、痩せた身体と骨ばった顔からも、辛苦の色が見て取れた。おどおどと泳ぐ目がまるで死んだ魚の目。
そしてその母親を振り回し、わがままに声をあげるその娘。年齢は四、五歳か、見るからに頼り無い親を小馬鹿にしている節が、その表情と態度に滲み出ていた。
そして桜井はその母親と付き合っているようだ。二人の間に漂う淡い桃色の念と、互いを見合う目がそれを物語っていた。そして娘は桜井を『おじさん』とのたまう。
きっとその女はシングルマザーで、新しい彼氏に懐かない娘に手を焼いている、杏奈にはそう見えた。
それが、桜井が選んだ『道』
杏奈を過去に捨て置きながら、辿り着いた答えがこの二人。
正直に言えば、杏奈とその母親とでは、女性としての魅力は明らかに杏奈が圧勝だろう。
いざという時に彼を支えられる人間力だって比ではないはず。
それなのに……
『私は通過点……負けた?』
一人の女性として、この『結果』にも納得がいかなかった。もし彼女が生きているなら、これしきの事は結果的に笑い飛ばすだろう。しかし、彼女はこれが原因で怨霊となり現世に留まった。これでは成仏どころではなく、ぶつけようのない憤りは渦巻くばかり。
もうあの男に届けるものなど無い。そして、行き場のない負の感情が彼女に問い続ける。
『お前は何故そこにいる? お前は誰だ? お前は何だ?』
目的を失った魂は低俗霊たちの格好の餌食。自らも低俗霊に堕ちる末路が待っている。杏奈が彼女であり続ける為には、新しい『道』が必要だった。
『何ゆえにあんな頼り無い男とくっついとるんじゃ!』
忍野も腸の煮えくり返るほどの憤りに、苛立ちを隠せなかった。
春氏と登った大戸岳で出会った一組の母娘。その二人は紛れもなく忍野の娘、澄子であり、しのぶと呼ばれた少女はその娘だった。
予想だにしないタイミングで、彼は悲願の娘との再会を果たしたのだった。
どんなに時が流れようとも、歳を重ね、姿が変わっていようとも、忍野は一目見ただけで、目の前の女性が愛娘、澄子である事が分かった。浅黒い肌と、幼少時に負わせてしまった口元の傷跡が、後悔と共にそれを確信へと繋げる。
しかし、喜ぶのも束の間。忍野は澄子の今の姿を見て悟るのだった。家を飛び出して以降の彼女の人生は、決して平坦なものではなかったという事を。
痩せ細った身体に、周囲の目を気にするあまりに気後れした表情。手入れの行き届いてない髪の毛や肌。今の彼女には、見た目に気を払う余裕など無いのだろう。
更に彼女は、忍野の知らぬ間に誰かの子供を身籠り、女手一つでその子を育てようとしている。忍野には誰の子供かなど知る由もない。
娘であるしのぶも母親同様に華奢で、その瞳には諦観を滲ませていた。きっと金銭的な面でままならず、しのぶ自身も我慢の連続で、幼いなりに色んなものを諦めてきたようだ。
『せめてまともな暮らしをさせたい……』
忍野はそう、切に願った。
そしてそれ以上に気になるのが『おじさん』と称された男の存在。その影が忍野を更なる不安へと導いた。
二人の会話からすると、そのおじさんは澄子と付き合っているようだ。
しのぶはそのおじさんに会えることを楽しみにしていたが、彼は待ち合わせ場所の大戸岳の麓には現れなかった。楽しみにしていたしのぶは口を尖らせ、澄子の話も聞かない程に腹を立てる始末。
その姿に懐かしさを覚えた忍野は、口角を緩ませる。しかし、可愛い孫娘の機嫌を損ねる、そのおじさんをどうしても許せなかった。その『おじさん』がどんな男なのか、一目見ずには居られない。
苦労をし続けた二人は幸せになる権利がある。所帯を持つのであれば、忍野の眼鏡に叶う男でなければならない。
忍野と春氏は大戸岳の事は一旦さておき、澄子たちの背中を追うのだった。
澄子たちの後を追うにつれ、功佑と距離を取り過ぎたのか、忍野たちは息苦しさに胸を押さえ始めた。そんな中、彼女達は二度目の待ち合わせ場所の、市内のカフェに辿り着こうとしていた。その最中だった。
「ごめんごめん……遅くなっちゃって……」
ヨレヨレのパーカーを着た、肥満体の男が澄子たちの前に姿を現した。
「なんじゃ! あれがおじさんかえ? なんと情けない……」
忍野はその姿に絶句した。白髪だらけでボサボサの頭。図体だけ大きくて、おどおどとした態度には男としての貫禄は皆無。ただの動く脂肪の塊。
『澄子はこんな男を選んだのか……』
そう思うと忍野はめまいを覚えた。
「おじさんの嘘つき! 大戸岳の展望台に行こう! って言ってたのに!」
しのぶは容赦なく噛みついた。
「ごめんね、しのぶちゃん。昨日仕事で腰と膝をやっちゃって……展望台には登れないけど、一緒にパフェ食べようね」
見え透いた甘い声でしのぶをなだめすかすおじさん。しかし、しのぶの腹の虫は治まらない。
「いや! おじさん、きらい!」
そう言ってしのぶは走り出した。
「あ、ちょっと……しのぶ! 待ちなさい!」
澄子も金切り声をあげてしのぶを追いかける。そして一人取り残されるおじさん。その、どうしていいいか分からない挙動の情けなさに、忍野は頭を抱えるのだった。
「世も末じゃ……」
呆れ果てる忍野の肩を、春氏がそっと叩いた。
「おやじー殿、あそこ……」
春氏が指さした先には、呆然と立ち尽くす杏奈の姿があった。
「まさか、儂等がこんなことで繋がるとはのう……夢にも思いもせんじゃった」
その後忍野、杏奈、春氏は落ち合い、互いの状況を確認し合った。
「霊の世間も狭いよね……あ、でも、あの男、以前はあんなじゃなかったから!」
杏奈は丸くなった桜井を指して語気を強めた。
そう、杏奈を死に至らしめた桜井は、澄子が今付き合っている男、『おじさん』だったのだ。どこでどう二人が出会ったのかはまだ藪の中だが、なんとも好ましくない現実に、忍野と杏奈はどうしていいか分からなかった。
「ここはひとつ、こうじー殿も交えて……」
「だめ!」
いつもの流れに運ぼうとする春氏を、杏奈は咄嗟に制した。
昼間の明るい表情の功佑を思い返すと、切り出すのは今じゃない、杏奈はそう察した。きっと功佑の前に現れた女性が、その明るさの要因のはず……
杏奈はどことなく悔しさと苛立ちを感じながらも、功佑を巻き込むのは得策ではないと踏むのだった。
「こうじー、仕事大変っぽいよ。最近はうちらがずっと独占してたから、少しは時間をあげようよ」
「じゃな……こうじーは生きとるで、うちらとは本当は違うでね」
杏奈の言葉に忍野は少しだけ皮肉を感じたが、敢えてその意見に賛同する。
「私、おやじーの娘さんの気持ちを覗いてみるね」
「儂はあの男に憑いてみるで。生半可な気持ちで澄子に手を出そうもんなら、天罰さ下してやるで」
こうして杏奈と忍野の歪な共同戦線が張られる事となった。そしてその事により初めて、彼らと功佑の間に『距離』が生まれた。彼らからすれば些細な気遣い。しかしそれが功佑にとって何を意味するのかは、まだ誰も知る由はなかった。ただ一人主君に忠実な春氏だけが、気もそぞろにソワソワし続けるのだった。
功佑ははたと困った。
ここ数日、仕事が押して頭がパンクしそうだ。
功佑との雑務研修を終えた篠北は、企画室長の職務を開始。
そして彼女は何を血迷ったのか、プロジェクトメンバーに功佑を任命する。
故に功佑の日々の業務は一変した。
清掃、備品管理、お茶汲み、資料作成、配達と、今まで雑用で満載だったが、それとは真逆な企画立案、プレゼン、企業への挨拶周りが、彼の業務の大半を占めるようになった。今まで配る事の無かった名刺は瞬く間に底を尽き、着馴れないスーツに袖を通す日々に一変。
されど悪しき習慣か、他の連中は何かと雑用を彼に押し付けようとする。無下に断れない彼はつい、そっちを優先させてしまう。見かねた篠北は一緒になってそれを片付けてくれるが、
「やるべき事と、やらなくてもいい事の線引きを一度引き直したほうがいいよね」
と、優しく諭す。しかしその優しさは、『断る勇気』がない功佑には、重く圧し掛かるばかり。
そして明日は乙川のプレゼン資料と、自身の企画の稟議書の締め切り。更に今現在、増刷されたマンスリーナビの納品を言い渡された始末。
功佑は作りかけの稟議書を上書き保存すると、デスクから立ち上がった。
現在十五時。今日のルートは二時間あれば終わる筈。そこから乙川の資料をまとめ終われば稟議書に戻れる。こぼれ出る溜め息を深呼吸に変えて、彼は社用車の鍵を握りしめた。
「河東君、外出?」
功佑と入れ替わるように、篠北が打ち合わせから戻ってきた。
「増刷分の納品、今日らしくて……」
「仕方ないわね……私も一緒に行く。手分けして終わらせましょ!」
「そんな申し訳ないです。配達なんて室長にさせれません。僕一人で十分です」
「河東君、私はあなたの稟議書待ちです。早く準備してもらわないと、私が困ります」
毅然と言い放つ篠北。
「すみません……」
「ほら! 悪い事した訳じゃないので謝らない! さっさと終わらせるよ!」
篠北はそう言うと、駐車場へと走っていった。功佑も慌ててそれに続くのだった。
「ありがとうございました! 今後ともよろしくお願いします!」
最後の納品先で挨拶を済ませると、功佑と篠北は社用車に戻った。
「さ! 帰ったら稟議書頼むわよ!」
助手席に乗り込んだ篠北が息巻いた。
「あ、でも……乙川さんの……」
「河東君、あなたの仕事は何? 誰かの尻拭いじゃないよね? 今、あなたは企画室に配属されてるのよ。企画室の仕事に専念して! それと、乙川さんの件は私が片付けておいたから、今日は自分の仕事をして」
「え? あ、はい……すみません……」
「ほら! また謝る! 君は何も悪くないでしょ?」
そう言って助手席から軽快に功佑の肩を叩く篠北。その笑顔に、功佑は少しだけ肩の荷が下りた。
「はい!」
その言葉と共に社用車は軽快に走り出した。
「終わったああ!」
時計の針が二十一時を越えた頃、やっと功佑は職場から解放された。
十七時に社に戻り、そこから篠北のダメ出しと数回の推敲を重ねた末、晴れて稟議書は完成。これがFMたかなえで受理されれば、功佑の企画が動き出すこととなる。
功佑は久しぶりに仕事に達成感を感じていた。毎日嫌々だった仕事もここ数週間で目まぐるしく変化し、彼の中でそれは『高揚感』へとシフトし始めていた。まさか今の段階で、自分が稟議書を書くとは夢にも思ってもいなかった。また、それ故に戸惑いもあった。
しかし、篠北のフォローもあって順調に動き始めている。
まさに今、『兆し』が彼を取り巻き始めている、そんな感覚だった。
そしてこの一連の流れは、篠北が彼の前に現れた事に端を発する。この数週間の間、彼女は功佑の傍にずっといた。そして彼を見て、彼を知り、彼を認め、そして受け入れた。見透かされそうで正直怖くもあったが、彼女の笑顔と声はそれを杞憂に終わらせる。気づけば四六時中、夢も現も篠北の笑顔と声援が、彼を取り巻いていた。
『ありがとうございます』
幾度も口にしたその言葉。
その言葉だけでは足りない熱い息吹が、いつしか彼の中に湧き立っていた。
それは時に嵐のように彼の胸中を吹き荒れ、今までに経験したことのないほどの充足感と、それと同等の息苦しさを功佑に課す。その絶え間ない繰り返しに、気が付けば涙を零している自分が居た。そしてその涙に、もう後戻りできない自分が居る事を彼は自覚する。
過去にも似た経験はあった。しかし今回ばかりは、その嵐を看過することは出来そうにない……。
「ちょっとぉ! 何それ?」
仕事から帰宅した功佑を、杏奈がこれ見よがしにいじりだした。
疲れ果ててベッドに突っ伏した際に、バッグから小さな紙包みが床に落ちたのだ。それを見逃さなかった杏奈が、その紙包みを拾い上げる。
「あ、いや、それは……」
慌てて取り返そうと功佑はベッドから飛び起きた。
「あの女の人からでしょ?」
悪戯に笑う杏奈は勝手に紙包みを開いた。
その紙包みは、今日の帰り際に篠北に渡されたものだった。
「社会人たるもの、臭いもエチケットのうち」
配送で汗だくになった功佑に見かねていたのか、そう言って彼女は自分が愛用しているというボディミストと同じものを彼に差し出した。
「え? いいんですか? ありがとうございます!」
可愛らしくラッピングされたそれは、あからさまに『プレゼント』だった。女性からの初めてのプレゼントに狂喜しそうになるのを抑えて、功佑は大切に持ち帰るのだった。
「へえ~これ、人気ある奴じゃん」
「ちょっと、あんじー、それ、僕が貰ったものなんですけど」
杏奈は功佑の言葉を他所に、中身を開けて品定めを始める。
「どんな匂いすんの?」
そして中身を取り出し、蓋を開けてプッシュ式の頂部に指を掛けた。
忍野と春氏も流石にまずいと思ったのか、杏奈を止めようとした刹那、
「きゃああ!」
「うぐっ!」
「ぐぬっ!」
杏奈が一押しした途端、噴出された霧状の液体が三人の頭上に舞い、そして降り注いだ。
さらにそれは三人に付着すると、肌を焼くような異臭を放ち、仄かに紫煙を放った。
「ちょっと! 何なのよ? これ!」
杏奈が奇声をあげる。忍野も春氏も堪らず、その雫を払う。
「これは成分に霊験ある清水が入っとるで、儂等にゃ毒じゃて!」
「拙者もこれは苦手でござる……」
紫煙が収まると、三人は顔をしかめながら異を唱えた。
「ただのボディミストなのに……なんで? なんか……ごめん……」
心許なく功佑は詫びたが、三人に異常反応をもたらしたそのミストに違和感を覚えた。
「なに、時折ある事じゃて。この世は怨霊にまで配慮して物は作らんで。たまたまそれに儂等が反応したまで。こうじーはなんも悪うない」
「せっかくの贈り物。拙者らには気を遣わずに使って下され」
「返す!」
忍野と春氏は穏やかに微笑んだが、杏奈は腹を立てたようにそのミストを功佑に手渡すと、そそくさと寝床のソファに飛び乗った。
「あんじー、ごめん……」
功佑の声を無視するようにして、杏奈は毛布を頭から被る。
三人の男達はまるで、わがまま娘の横暴に成す術を無くしたかのように立ち尽くすのだった。
