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すべからく『愛』を謳え 第九話 『着岸』

 すべからく『愛』を謳え  第九話  『着岸』



真意
    聡太郎は、己を恥じた。
    彼が現を抜かしている間に、事は大きく動き出し、今、最悪の結果を迎えようとしている。
   そしてまた、彼は大きく検討違いをしていた。もっと少年に踏み込んで、耳を傾けていればこんな事にはならなかったのかも知れない――


     彼がスマホから、さおりと澄江の映像が見えたあの日より案の定、激しい頭痛と高熱、そして『渇き』に彼は打ちのめされた。
  およそ一ヶ月ほど『渇き』はなりを潜めていた為か、その分を取り返すかのように、彼の身体を痛めつける。
   トイレに行くのも億劫で、高熱のあまり意識朦朧と化し、ここ数日の記憶も曖昧なほど。ほぼほぼ寝たきりの状態が数日間続いていた。
   そんな中、あの少年がまた彼のもとに現れた。
   口は固く閉ざされているものの、今にも泣き出しそうなその目は、聡太郎に何かを訴えているようだった。
    聡太郎は意識朦朧とする中、震える左手を彼の頬に当てる。指に弾く微弱な電流。その粒子ひとつひとつが弾け合い、あらゆる映像が聡太郎の中に流れ込む。そして少年はその口を開いた。




   聡太郎は、自分が思い違いをしていた事に気づく。
  もっと早く少年の気持ちに気付いていれば、もっと簡単にもっと早くこの件は片付いていたはず。そう考えると『渇き』とそれを訴える彼の中の『誰か』に苛立ちを覚えた。奴はこの状況になるまで息を潜め、今更になって猛威を振るう。その狡猾さに、彼は舌打ちをせずにはいられなかった。

   聡太郎の右目は、一層紅みを帯びる。
   少年の念の軌道を辿って、彼はひた走る。
   夜の帳が落ちる街並みは、少年の哀しみを嗅ぎつけて群がる低俗霊と、行き場を失った情念達がその色を際立たせ、禍々しい極彩色の世界に染まっていた。





「ばあちゃん!  大丈夫?!」
  さおりは階段を駆け上がると、狭くて暑苦しい、屋根裏部屋の隅で打ち震える澄江の元へ駆け寄った。
「なんまんだぶ、なんまんだぶ……」
  いつものように、必死になって念仏を唱える澄江。
  彼女の周囲にはなぎ倒された扇風機と、夕食だったのか、サラダと酢豚と思しき食材が、周囲に飛び散っていた。合わせて鼻腔を刺激する屎尿臭。不衛生かつ、不快極まりない状況に、さおりは怒りを覚えた。
  「ばあちゃん!  大丈夫だから!  ね!  もう大丈夫だから!」
  澄江を抱きしめ、必死になだめるも、彼女の震えは一向に止まらなかった。
「もう、いい加減にしなさいよ!」
  さおりは、澄江が怯える視線の先にそう叫び、彼女もその薄闇に目を凝らす。
  すると、その暗がりの中に、うっすらと少年の姿が浮かび始めた。その姿は徐々に鮮明になり、怒りと哀しみに歪んだ表情の少年が現れた。彼はさおりの目をまっすぐに見据え、己の中にある感情を無言で訴えていた。
   さおりも気圧されないように歯を食いしばって、それに対峙する。
   そして少年は急にさおり目掛けて走り出した。あまりに急な展開に、さおりはそれを避けきれずに、彼の侵入を許してしまう。

  その刹那、さおりに渦巻く怒りと、少年の中に堆積した怒りが共鳴する。

「許さない!  ばあちゃん『お母さん』をいじめる奴は許さない!」
   さおりと則夫はひとつの身体に怒りを同居させ、憤怒の表情で階下を見据えた。
   ちょうどその時、下の方から誰かの声が聞こえた。
   先程まで居なかった伸子が帰ってきたのか?
   さおりと則夫は澄江を抱き抱え、急勾配の階段をまるで滑るように駆け下りた。




「一体なんだったのかしら?」
  自宅に戻ってきた伸子は、面倒臭そうに口を尖らせた。
   彼女は急な誰かの来客に玄関へ出たものの、誰の姿もそこにはなかった。しかしながら誰かの気配を確実に感じたのは確か。今一度周囲を見渡す。すると視界の隅に少年らしき影が見えた。きっといたずらだろう、捕まえて叱りつけてやろうと、彼女はその影を追ったが、自宅からおよそ数十メートルの所で、彼女はその影を見失う。
「なんなのよ!  一体! ふざけんじゃないわよ!」
    苛立ちを隠せずに、彼女は悪態をつく。するとまた視界の隅に少年の影。慌てて目で追いかけると、その少年は彼女の家の門扉を潜り、中へと入っていった。
「いい加減にしなさいよ!」
  またもや憤慨すると、彼女は自宅へと走って戻っていった。


    サンダルを脱ぎ捨て、伸子はドカドカと部屋中を走り回る。
「どこに居るのよ〜!  さっさと出てきなさい!」
  どこを見て回っても、先程の少年らしき影はない。
  「あたし、疲れてるのしら?」
    見間違いにしては鮮明過ぎて、現実にしては違和感を感じる少年の影。考えるのも面倒になって、伸子はその一言で少年の姿を打ち消した。
    そして不意に振り返ると、一瞬彼女は固まった。
 

「さ、さおりちゃん……来てたの?  ど、どうしたのよ?  急に」
  伸子が振り向いたすぐ目の前には、澄江を抱き抱えたさおりが立ちはだかっていた。
    いつものように温和な印象とへ異なり、さおりの表情は怒りを顕にしていた。
「何が楽しく暮らしましょうね?  笑わせんじゃないわよ!  話が違うじゃない!  ばあちゃんをあんな汚い所に閉じ込めて!」
   急に怒りを撒き散らすさおり。日頃から感情を表に出さない分、伸子はその様に気圧されそうになった。     しかし、彼女とて口では負けなかった。
「どうしたの?  さおりちゃん?   誰もあんたが思っているような約束なんて、した覚えはないわよ!  それに『汚い』だなんて、厄介なもの引き取って貰ったのに、何よ!その言い草は!」
「厄介だなんて!  ばあちゃんを殺す気?  あんな場所に閉じ込めて、しかもあんな油っこいご飯なんか食べさせて!」
「あんたね!  言わせておけばいい気になりやがって!  舐めた口聞いてんじゃないわよ!」
   伸子は唇を震わせながら、さおりの頬を引っぱたいた。
「何様のつもり?  借金も返済して貰って、住む家も準備して貰って、ずっとこっちが助けてあげてきたのに、何よ!  その態度は!  こっちはね、感謝されても、文句言われる筋合いはないんだけど!」
   伸子は本性をむき出しにして、さおりに食ってかかった。
「許さない!  ばあちゃん『お母さんをいじめる奴は許さない!』」
    さおりと少年の声が重なると、部屋の中に破裂するような衝撃が走り、伸子は吹き飛ばされるように廊下に倒れ込んだ。
   そしてさおりは一心に伸子を睨みつける。するとどこからか電源コードが、蛇のようにのたうち回りながら現れ、伸子の首に絡みついた。

「ちょっと何よ!」
  伸子は慌ててそのコードを首からはずそうとするが、もがけばもがくほどそれは首にめり込んで行く。


「ただいまぁ、今日も疲れたぁ」
  伸子がもがく中、調子っぱずれな情けない声をあげながら健二郎が帰って来た。
「おーい、伸子……おい!  何やってるんだ!」
   玄関から廊下にあがった途端、健二郎は目の前の惨劇に目を疑った。
   さおりを押しのけ、健二郎は慌てて伸子のもとに駆け寄る。
「おい! 大丈夫か!」
  顔を真っ赤にして苦しむ伸子の首に手をあてがい、健二郎は必死になって、その電源コードをほどこうとする。
「邪魔するな!」
  さおりの口から少年=則夫の声が飛び出し、更に部屋中のあちこちから引き抜かれた電源コードが、健二郎達の周りに集まってくる。
  「ひぃぃぃ!」
   その怪異な現象に、健二郎は情けない声をあげ、モグラ叩きのようにして、這い寄るコード達に持っていた鞄を叩きつける。しかし、全てには対処出来ずに、いつの間にか健二郎の首元にも、オーブントースターのコードが絡みついた。
   二人の首に絡みついた、コードの先のコンセントは、壁から天井へと這い上がり、伸子達を吊るしあげた。
「や!や、め……ろ……」
  二人は必死にもがくも、もはや声にならなかった。
  コードをはずそうとして掻きむしった首には、幾筋もの傷が出来、そこから血が滲み出ていた。
  さおりはその様を見て、より一層に鬼の形相をその顔に宿した。
   すると台所から激しい金属音が聞こえ、包丁やフォーク、ペティナイフなど数本がさおりのもとに飛んできた。それらは彼女の周りで浮遊し続け、その切っ先を健二郎と伸子に向ける。
「よくも!  よくもお母さんをいじめたな!」
   則夫の怒号と共に、それらは健二郎と伸子へと飛んでいく!

「や……めて……」
  伸子が息も絶え絶えに懇願するも、勢いよく滑走する包丁達。
「ぎゃぁ!」
  包丁達が二人に突き刺さろうとした刹那、それらは音を立てて、健二郎達の足元に落ち、首に絡みついていたコードも、まるで意思を無くしたかのように、その場に抜け落ちた。
  途端に、廊下に叩き落とされる健二郎と伸子。
   二人はあまりもの脅威に、泡を吹きながらその場に崩れ落ちた。

「誰だ!」
  鬼の形相で叫ぶ則夫は、後ろに目をやった。
  そこには、右目が紅く染まった聡太郎が、彼の左肩を強く握り締めていた。

「邪魔しないで!」
  聡太郎を見るなり、怒りを顕にする則夫。
「君はそんな事をする為に、今までこの世に残っていた訳ではないんでしょ?  そんな事をしても、お母さんは喜ばないよ!  喜ぶどころか、また悲しさませてしまうよ」
  優しく諭す聡太郎。彼は則夫の左肩をより強く握りしめた。その途端、今まで鬼の形相だった則夫の影がすうっと消え、さおりの表情に戻った。

「あ、あれ?  私……」
  則夫に身体を占領されていたさおりは、夢から覚めたように、目の前の惨状に唖然とした。
「安心してください。そこのお二人は気を失っているだけです。」
  目の前にいるのがさおりと分かると、聡太郎は手短に状況を説明した。
「則夫君は先程まで、さおりさんの怒りに同調して、あなたの身体を占領していました。そして、お祖母様、澄江さんを無下にするそこのお二人に、包丁を突き立てようとしていたんです」
「え!  ど、どうしたらいいんですか? 」
  今の状況に慌てふためくさおり。取り敢えず彼女は居間に澄江を下ろした。
「ばあちゃん、ごめんね。大丈夫?」
  震えながらも無言で頷く澄江。

「則夫君は、怨みだけでお二人の前に現れていた訳ではありません」
  聡太郎は、則夫の本当の気持ちについて、さおりに話し始めた。
「勿論、怨みも激しく残っています。それよりも彼は
母親である澄江さんが心配で仕方なかったようです。生前も急に会わせて貰えなくなり、澄江さんを『護る』事が出来なかった、それが一番の心残りだったようです」
「じゃあ、怨みで祖母を怖がらせていた訳ではない、ということですか?」
  澄江の肩を擦りながら、さおりは聡太郎の話に耳を傾ける。
「則夫君は意図して捨てられた事で、その哀しみが怨念として残ったのは事実です。ですが、それ以上に彼は澄江さんの事が大好きで、ずっとそばに居たかった。だから、さおりさんのご両親が火事で亡くなられる前に、それを予見して、どうにかして伝えようともしていたようです」
「え?  そんな事まで分かるんですか?」
   両親が火事で亡くなった事は、さおりは聡太郎には話していなかった。それをさも知っていたかのように喋る聡太郎の口ぶりに、彼女は目を丸くした。
「そして最近になって、認知症も酷くなっていくことに、我々にさえ姿が見えてしまうほど、彼も心配していたんだと思います。だけど、彼自身、どうすればいいのかも分からずに、ただただ、澄江さんを怖がらせてしまっていたようです」
   聡太郎はこの家に辿り着く前に、則夫の口から溢れ出た、言葉にならない想いを、可能な限り言語化して、さおりに伝えた。

  そう、則夫は哀しくて、寂しくて、自分を捨てたにも関わらず、それでも母親が愛しくて、そして心配で、その想いが永い間怨念となって、澄江の周りを浮遊し続けていたのだった。尚且つ怨念ではあっても、決して澄江やさおりに、危害を加える意思などは持ち合わせていなかったのだ。しかし、捨てられた事への哀しみや、母親をいじめてきた祖母への憎しみもまた、計り知れず彼の中に渦巻いており、その気持ちをコントロール出来なくなる事も少なくは無かった。故に、怖がるばかりで、いつまで経っても彼を見てくれない澄江に、駄々をこねるようにして部屋のものを滅茶苦茶にしたり、彼女を虐げる者には殺すことも厭わぬ程に、憎しみをぶつけるのだった。そして、このまま彼を放置してしまえば、伸子他、澄江に仇なす者は全てを手にかけ、その罪はさおりに降り掛かる事は間違いない。
   それだけは、何がなんでも回避しなければならない。

「どうすれば則夫さんの、その哀しみを鎮めてあげられるのでしょうか?」
  本題を切り出すさおり。
「彼の願いはひとつです。我が子として、澄江さんに抱き締めて貰いたい、その一心なんです。僕としても彼を悪霊のようにはしたくありません。子供のまま、純粋な気持ちのまま、旅立たせてあげたいと思っています。その為には、澄江さんの協力が必要です」

   さおりと聡太郎は、顔を見合せた後、震える澄江に視線を移した。




帰宅
   澄江は、聡太郎に今一度則夫の気持ちを伝えられた後、その場に泣き崩れた。彼が話した内容は理解は出来た。しかし、子供を捨てた母親として、まっすぐに我が子の顔を見ることが出来なかった。日々付き纏う罪悪感に、彼の母親として、顔をあげる事がどうしても出来ずにいた。湧き出る言葉は、ひたすらに謝罪の一点。そして、則夫の気持ちなど考えずに、ただただ怨み殺されるとしか思っていなかった自分は、母親として、則夫を抱き締める資格などないとさえ、自分を責めた。

「澄江さん、あなたがどんなにご自分の事を批難して、嫌いになったとしても、それでも則夫君はあなたが大好きで、ずっとあなたが微笑みかけてくれるのを待っています。母親として、もう一度則夫君を抱き締めてあげて貰えませんか?」

  聡太郎のその言葉に感化され、彼女は覚悟を決めた。自分の過ちに蓋をするのではなく、責任を持ってそれを受け入れる覚悟を。
「わかりました……」
  震える声でそう呟き、彼女は唇をきつく噛み締めた。

「則夫君はまださおりさんの中に居ます。先ずは僕がさおりさんの中に入って、彼を呼び出します。そして澄江さんの所へ連れて行きますので、それからは澄江さん、思いっきり彼を抱き締めてあげてください」

   聡太郎の説明が終わると、三人は居間の中で鎮座し、互いに手を繋ぎあった。



   
『則夫君!  則夫君!  お母さんが呼んでるよ!』
   さおりの中で薄暗い闇を纏い、則夫はその中に隠れていた。
『則夫君!  お母さんが呼んでるってば!』
   相手は子供。努めて明るく優しく、聡太郎は語りかけ、右手を差し出した。
   彼の呼び掛けに、則夫は野良猫のように警戒をしつつも、様子を伺いながら、近づいてくる。
『大丈夫!  誰もお母さんや則夫君をいじめたりはしないよ。やっと、ちゃんと会えるんだから、そんな暗い顔してたら駄目だよ』
   聡太郎がそう言って暫く経った後、薄暗がりから酷くやせ細った右手が伸びて来た。



   澄江は気が付けば、遠い過去、則夫と暮らしていた長屋の玄関の前に立っていた。身なりも当時の出で立ちで、何度も洗濯をして着回していた、ブラウスとズボン。両方とも年季が入っており、色褪せと擦り切れそうなくらいに生地が薄くなっていた。そして顔も身体も当時のそれに戻っており、しわくちゃだった顔も、真っ白だった頭も、ツヤとハリのある肌で、黒々とした髪の毛が、風になびいていた。


『……お母さあん!』
   すると遠くから、懐かしい声が彼女の耳に届いた。     その声に彼女は身構え、唇を噛み締める。許して貰えるとは思っていない。よもやこのまま地獄へ連れ去られるかもしれない。もう、それでも構わない。それだけの過ちを冒したのだ。

『お母さん!』
   気がつくと、目に涙をいっぱい浮かべた則夫が、目の前に立っていた。
   その顔を正視した途端、罪悪感や自責の念を飛び越えて、母親としての子を想う愛しさが、彼女の身体中を駆け巡った。
   彼女は膝を着いて、則夫と目線を合わせると、両手を伸ばした。

『則夫や、ほら、おいで!』
  その声に、則夫は直ぐさま彼女に飛びついた。
  そして澄江も則夫をひしと抱きしめた。いがぐり頭から少し伸びてちくちくする髪の毛も、風呂を嫌がって、しょっちゅう黒く汚れていた腕や足、そしてそれに着いて回る汗臭さ、それら全てが、彼女がお腹を痛めて産んだ、心血を注いで愛し育てた、紛れもない『則夫』だった。
『ごめんね……寂しかったね、辛かったね、ごめんね……』
   二人とも、汗と涙で顔はくしゃくしゃになっていた。強く強く抱き締めあった後、もう一度二人は顔を見合わせた。
   この数十年、その視線を避けて来た澄江は、今、彼女の中に湧き上がる気持ちのまま、しっかりと則夫の目を見据えた。
   泣きながらも、屈託のない笑顔を向ける則夫。
   澄江は彼のその頬に伝う雫を、親指で拭き取り、今一度優しく微笑んだ。
『お母さん、会いたかった……』
『お母さんも、則夫と会いたかったよ』
   罪悪感を隅に押しやって、澄江は今、沸き立つ本心をそのまま、息子に伝えた。息子は声をあげて笑い、今一度、彼女に抱きついた。


  どのくらい時間が経ったのだろうか?
  二人は永遠とも一瞬とも思しき時間を共有し、お互いの想いを確かめあった。 
   そこにあったのは互いに想いあう親子の『愛』と、生死を隔てても切れる事のない『絆』だった。それは未来永劫、変わる事もなく、衰える事もない、唯一普遍のもの。

『お母さん、僕、もう行かなきゃ……』
  則夫は寂しそうな顔をするも、その表情には曇りはなかった。
『また、会えるから……』
  澄江は、則夫とまた来世で親子になれる、そんな気がした。
『お母さん、負けないね!  強くなる!』
  その言葉に則夫はにっこりと微笑んだ。

   そして則夫の背後から、そっと聡太郎が姿を表した。
『則夫をどうぞ、よろしくお願いします』
  澄江がそう呟くと、聡太郎は笑顔で会釈をして、則夫の手を優しく掴んだ。



   その瞬間、聡太郎の中で抑え付けられていた『渇き』が、もはや抑えきれない程の勢いで、彼の中を蹂躙する。可能な限り『自分』を保ちながら、彼は左手を則夫の頭に置いた。
『じゃ、行こうか?』
  はやる気持ちを抑えながら、聡太郎は優しく則夫に語りかける。則夫も目を瞑り、無言でそれに頷くのだった。
   そして、聡太郎は『渇き』を解放する。








   聡太郎はまたもやいざよい橋の下で、目を覚ました。澄江と則夫が以前暮らしていた長屋は、この川沿いに建てられていたらしい。
   
  清貧を余儀なくされる生活から、一瞬にして自由を失い暗闇の中での生活。それを経ての母親から見捨てられるという悲劇。そして地震と洪水に見舞われ、聡太郎は身も心もズタズタになった。
   が、しかし最後に行き着いた先には、愛する母親が待っていてくれたので、目を覚ました瞬間は、満たされていたと言ってもいい程に、気持ちは晴れやかだった。
    されど右脚は倒れ込む程に、激痛に見舞われた。則夫が波に飲み込まれた際に、その右脚は瓦礫に挟まれたま、ちぎれてしまっていたようだ。その為、またもや脚を引き摺りながら、長い時間を掛けての帰宅を余儀なくされた。
    しかし、聡太郎は愚痴を零すことなく、一歩一歩、力強く踏み締めながら、自宅へと急ぐのであった。











意思
   一ヶ月後。
   澄江は自分の意思で、老人ホームへ入ると宣言をした。勿論さおりも伸子も反対をしたが、彼女はそれを頑として受け入れなかった。費用を心配するさおりだったが、彼女は伸子が奪おうとしていた預金を思い出し、晩年はそれで生計を立てると、強く意見を通した。
   伸子はとは言えば、たった数週間の同居だったにも関わらず、あの時はこうしてやった、あーだこーだと、その金をせびり取ろうと必死だった。しかし第三者を後見人に立てた事で、それも自由にすることは叶わなくなった。
    

  また、則夫が起こした今回の件も、辛うじて事なきを得た。
   一先ずは伸子達が倒れていた所に、さおりが駆けつけて救急車を呼んだ、という筋書きでさおりもシラを切り通した。というか、途中からは則夫の記憶になり、彼女自身もよく覚えてはいない。
   伸子達は運ばれた病院でその霊障を訴えたが、二人の首もとには何も痕跡は残っていない為、彼女らの言い分は何一つ証拠にならなかった。それどころ二人して血相を変えて訴える様に、心療内科の受診を勧められた程だった。しかしながら、伸子とさおりには少なからずしこりは残った。何かにつけて一方的に事を荒立てようとする伸子。されど健二郎は、母、澄江の意志を通す姿に触発され、叔父として、血縁者として、自分の意思の通り、さおりを擁護する側に回った。それにより今回の件は、これ以上は明るみに出ることは無くなったようだ。

    そしてさおりも団地を引き払い、澄江の老人ホームの近くのアパートに引越した。
   仕事はいつものようにお局達のいびりと、店長の微妙なセクハラは続いていたが、それは瑣末な事として、彼女の中では昇華出来るようになった。今は三日に一回の澄江との面会が、何よりの楽しみだった。


「さおりは、いい人とか居ないの?」
  最近の澄江はとても調子が良かった。たくさんの人と接する事で、それが刺激となり、以前に比べても認知症の症状が出る機会も少なくなった。それにも増して顔色もずいぶんと良くなった。
「もうね、そんな余裕なかったからね。だけどまた絵を描こうと思ってる」
  痛いとこを突かれて、話題を変えるさおり。
「それは良かった!  私はあんたの絵好きやけ。感覚を取り戻したら、似顔絵でも描いてね」
「うん!  ぜひ!」
  さおりは二つ返事で即答する。


   


『いい人とか居ないの?』
   老人ホームからの帰り道、澄江の言葉が、なんとなく彼女の心を突いた。
   愛だの恋だの言っていい年代はとっくに過ぎており、お世辞にも自分は綺麗だとは思えない。故にそれとは違う世界で生きていくのが、自分の人生だと思っていた。しかし、清貧とは言え、少しばかりの『自由』を手に入れた彼女は、まるで思い出したかのように、それらの事柄が気になり始めた。
「店長は……圏外!」
  彼女に好意というより下心のある、いわゆる『オス』は論外だった。考えながらさおりは独りで吹き出した。
  そして頭の中を過ぎる、一人の男の寂しそうな表情。夏の盛りに完全防備で厚着をする、挙動不審な男ではあるが、人は悪くはないようだ。そして、なんとなく落ち着いて話が出来る雰囲気は、正直心地良くもあった。

「まあ、無いかな?」
  もう会う機会も無いだろう。彼女は考える事をやめた。


   老人ホームから数分歩いたところで、自宅のアパートが見えてきた。
   夕方から雨の予報だっただろうか?  快晴だった空はいつの間にか曇天に染まり、雲の流れが早くなっていた。もしかしたら一雨来るかもしれない。傘を持っていなかった彼女は、少しだけ歩く速度を早めた。
   徐々に見えてくる自宅のアパート。
   門塀に視線を向けると、そこには周囲とは違う明度で、一人の女性が立っているのが見えた。
『あれ?  誰か立ってる』
  そう思いながら徐々に近くなる、その女との距離。
  その女の周囲は明らかに周りとは違う色彩で、異質で不気味だった。そしてその女はさおりの視線に気づいたのか、項垂れていた頭を急に持ち上げ、彼女にその目を向けた。
「!」
  息を飲むさおり。
  その女の顔は、まるで鉄球で潰されたように陥没し、潰れてはみ出た目だけが、白く爛々と光っていた。そしてケタケタと笑い出し、さおりとすれ違いざまに、口から大量の血飛沫を吐き出した。
「きゃぁぁぁ!」
  あまりの恐怖にさおりはその場にうずくまった。そして、ズボンのポケットに入っていたメモ紙を握りしめた。


   そして数秒?  数分経って、さおりは顔をあげた。
  もうそこには女は立っていなかった。
  そして、曇天に染まっていた空もいつの間にか、先程まで目にしていた快晴に戻っていた。
  恐る恐る立ち上がり、周囲を見渡すさおり。
  何も変わらない、いつも通りの自宅のアパートが、そこにはあるだけ。
「!」
   唾を飲み込み、彼女はメモを握り締めていた事を思い出す。そしてそれをポケットから取り出して、目を通した。
   そこには汗で滲んでしまった、聡太郎の電話番号が書かれていた。



   つづく


   

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