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その怨み、晴らします……第15話

元カノと毒親のブルース④
涼香は功佑の立ち振る舞いに違和感を覚えた。
 いつもと変わらず真面目に仕事に取り組む功佑。しかし、それはあまりに変わらなさ過ぎた。そして彼から薫るミストの臭いも、先日彼女が渡したそれの薫り。
 しかしそれは清水の力を感じない、市販品の薫りだった。
 それは意図的としか思えない。
 なのに、何食わぬ顔でいつものように接してくる功佑。そのあまりもの自然さに、彼女は内心、躊躇する。
『そっちがその気なら……』
 彼女は仕事に使う備品全てに清水を振りかけ、紙製品にはその清水で悪霊退散の呪文をしたため、持ち物全てを呪符とした。それらを用いる事で、功佑の拒否反応を見ようという魂胆。少しでも彼が霊的な力と関係しているならば、日々の接触でもそれは違和感として現れる筈。
 しかし……
 それら全ては空振りとなった。否、逆にその霊の存在を決定づけた。
 その全てが無反応過ぎる。まるでその効果を無効にされたかのようだ。
 これは策士が付いている証拠。
 涼香は認めたくは無かったが、もはや認めざるを得なかった。
 そして今日は功佑が出した見積書のダメ出しに、清水で呪文の記した付箋を使用。更には彼の手帳にもそれを貼り付けた。もしそれに霊が触れれば、呪符の効果を発揮し、怨霊の身を焦がす火種となる。

 そして、彼女は覚悟を決める。
 もしそれで、功佑が異を唱えた場合、彼女は全てを伝えよう、そう決意する。自分が誰で、何のためにここに来て、何故に功佑と行動を共にしているのかを。きっと彼なら理解してくれる筈。そして、彼を怨霊の呪縛から解放する、それが彼女の目標となった。
 更に万が一、彼の存在が全霊審に発覚した場合、霊障を助長、悪用する者と見なされ、最悪、抹消される可能性も否めない。それだけはどうしても避けたい。彼を壊すことなく護りたい。否、彼を失いたくない、それが本音。公私混同、私利私欲の越権行為、そう周囲から揶揄されても構わない。それだけ功佑は彼女にとって、護るべき大切な存在となった。故に功佑への無言の牽制は賭けであり、全ての告白への序章。
今まで自分を律し、能力者として生きてきた涼香。しかし今回ばかりはその制御がままならなかった。いや、制御だとか理性とかそれ以前の問題。女性として、人間として希求する功佑への想い。それは思考から遺伝子に至るまで、彼女を書き換えた。
そして日々彼女は功佑を想い、熱い吐息を人知れず漏らすのだった。

「ただいま~」
忍野と別れた後、功佑は帰路についた。
「おかえり!」
玄関を開けると晩御飯を準備していた杏奈が出迎えた。
「美味しそうじゃん」
テーブルに並べられたのは大盛りのハヤシライスと、千切りのつもりの短冊状のキャベツと人参のサラダ。
「美味しいに決まってんじゃん! こうじー、好きだったでしょ? さ、座って。早く食べましょ」
先日より少しだけ柔らかくなった杏奈が優しく微笑んだ。功佑はうがいと手洗いを済ませ、急いで部屋着に着替えると、椅子に腰を下ろした。
「あれ? うっじーは?」
 椅子に座ると、今更ながらに春氏の気配がない事に気が付いた。
「なんか調べものをするって夜になって出ていったよ。大戸岳がどうとか――」

「ただいまでござる……」
 杏奈の言葉を遮るかのように、玄関をすり抜けて春氏が現れた。
「おかえり!」
 功佑と杏奈は声を揃えて出迎えるが、帰ってきた春氏はその声に応えなかった。
「うっじー? 大丈夫?」
 杏奈が玄関前に立つ春氏に、心配そうな目を向ける。功佑もそれに倣い、春氏に目を向ける。
 哀しそうな目をした春氏。その背後には薄黒い念がたなびいている。お人好しの彼の事、どこかで誰かの情念を見て、心を痛めて帰ってきたのか、その表情と佇まいには日頃の覇気がなかった。
「ほら! 早く座りなさいよ。ご飯冷めちゃうでしょ」
 杏奈が急かすように促すと、春氏の目つきが一変した。
「曲者!」
春氏は叫ぶと同時に抜刀し、壁にかけられていた功佑のスーツを斬り付けた。その途端、スーツから激しい炎が噴き出した。その炎は春氏の刀身を伝い彼に引火する。
「ぎゃああ!」
 逆巻く炎に絶叫する春氏。火の粉を撒き散らしながらベッドに倒れ込み、のたうち回った。
「うっじー!」
 功佑と杏奈は慌てて春氏に駆け寄るが、激しい業火がその行く手を阻む。それでも功佑は炎の中に飛び込んで、燃え盛る彼を抱きしめた。
『熱い!』
 肌を焼く尋常ではない熱さに歯を食いしばりながら、功佑はその火を振り払おうと、必死に春氏を抱きしめた。
「ちょ! もうやめて! こうじー、死んじゃうよ!」
 杏奈が悲痛な叫びをあげる。されど功佑は抱きしめる手を緩めなかった。
『飲み込まれなければ消える筈』
 功佑はそれを頑なに信じて、より一層春氏を強く抱きしめた。
 しかし……
「こうじー殿……生きて下され……」
 そう呟いた後、ボロボロと零れ落ちる、春氏の亡骸。
 それはわずか数分だった。今までそこにいた春氏が、たった数分で燃え尽きて、その燃えかすさえ塵となって、功佑たちの前から消えてなくなった。
「なんで?」
「うっじー……」
 功佑と杏奈はあまりにも急な展開にそれ以上の言葉を失った。そして功佑は、ベッドに何かが落ちていることに気付く。それは、彼がスーツのズボンのポケットに忍ばせていた、焼け焦げた付箋。彼はそれを手に取ると、怒りを込めて握りしめた後、そのままポケットに忍ばせた。
「……!」
 そして功佑の背筋を悪寒が走る。と、同時にけたたましい音量で彼のスマホが鳴り響いた。
 更なる不安が彼を襲う。

「こうじーや! ちょいと手伝うてくれ! 桜井に変な奴が入りおった!」
 電話の主は忍野だった。
「ごめん! ちょっと出て来る!」
忍野の必死な声に功佑は杏奈を置いて、今一度マルニチ大泉店へと走り出した。
『きっと、何かしら解決策がある筈! 絶対にこれで終わらせない!』
 功佑はそう鼓舞しながら、春氏の消滅を否定する。そしてひたすら忍野の下へと急ぐのだった。

「きゃああ! やめて……」
 功佑がマルニチ大泉店へと辿り着いた刹那、甲高い女性の悲鳴が聞こえた。
 その叫びに更に不安が爆発し、功佑は声のする方へと急いだ。

「お願い……やめて!」
 それは裏のスタッフの駐車場から聞こえた。見るからに薄黒い念が周囲に蔓延っている。これは……!
「ええい! やめんか! この男に触れるな!」
 悲鳴と共に、必死に叫ぶ忍野の声が功佑の鼓膜を貫いた!
 その駐車場には、澄子と思しき女性の首元に手を伸ばす桜井の姿があった。そしてその周りには、それを止めようとする忍野と、彼に加勢する低俗霊たちが青白い念を撒き散らしていた。そして桜井の中には、漆黒に塗り固められた人型の念が陣取り、完璧に憑依していた。
その禍々しさたるや、まさに凶悪で醜悪。全てを踏みにじり、消し去る程の脅威に溢れていた。
「やばい!」
 功佑はその緊迫した状況に、慌てて飛び出した。
「やめろおお!」
 功佑は力の限りに桜井に体当たりを喰らわせる。
「痛っ!」
 しかしトドのような体躯はびくともせず、功佑は弾き飛ばされる。
「こうじーや、よう来てくれた! ちょいと身体借りるで!」
 娘への乱暴に切羽詰まった忍野は、功佑に有無を言わさず、彼の中に入り込んだ。
「往生せえ! この死にぞこないが!」
 ゾンビのように急に立ち上がった功佑は、桜井に檄を飛ばす。そして、手刀で澄子の首を掴んだ手をはたき落とした。そして水を得た魚のように殴打を繰り出す。実体を手に入れた忍野は無双と化し、間髪入れずに殴る蹴るの応酬を繰り広げる。それには流石の桜井の巨体も後退を余儀なくされ、しまいにはノックアウトされ、後方に激しく倒れ込んだ。

「澄子や、もう大丈夫だて! この男は操られとっだけじゃ! お前なら許してやれるじゃろ?」
 功佑に入っていることを忘れて、忍野は躊躇なく娘へと言い放つ。
「あ、あの……どちら様でしょうか? 私をご存じなんですか?」
 突然の出来事に状況を掴めない澄子は、功佑の言葉に混乱を来たす。
 そこで初めて我に返った忍野は、急いで功佑の中から飛び出した。急な交代に功佑は言葉を失う。
「あ、いや、その……よくこのお店には僕も来てて、それで忍野さんのお名前も存じておりまして……」
 苦し紛れに誤魔化す功佑。
「そ、そうなんですか……」
 有耶無耶に返す澄子だが、その目はまだ怯えたままだった。功佑は澄子に悟られないように忍野の手を掴み、彼女の中に入って安心させることを彼に強いる。
「じゃけんども……」
 功佑はうじうじする忍野を無理やり押し込んで、澄子の中へと入り込ませた。どさくさに紛れて忍野は我が娘の中に入ったが、その途端、澄子の目が変わった。その目にはうっすらと熱いものが込み上げていた。それは澄子の涙なのか、忍野の涙なのか、功佑は敢えて詮索しなかった。
そして目の前に倒れている桜井に目を向けると、今一度彼の中に潜む漆黒の念に目を凝らす。
「あれ?」
 つい今しがたまで彼を掴んで離さなかったその念は、まるで最初から居なかったかのようにその姿を消していた。
「どこへ消えたんだ?」
 功佑は周囲を見渡し、その念の軌跡を探したが、それは跡形もなく消え去っていた。
 退散したのであればいいが、あれほどの深い念が、そう簡単に退散するとは考えにくい。

「ああああ……」
 背後で澄子が渇いた叫びをあげた。功佑は慌てて振り返ると、澄子は忍野を中に秘めたまま駐車場に横たわり、身体を小刻みに震わせながら、口から泡を吹き出していた。
「ちょ!」
 慌てて澄子に駆け寄り、彼女の中に目を凝らした。
 その中には共に苦しむ忍野の姿があり、二人の首元にあの漆黒の念が絡みつき、物凄い勢いで締め上げていた。
「……」
 その力強さに一層の禍々しさを覚えた功佑は、慌ててその黒い念を振りほどこうとした。
しかし忍野の力を失った今、功佑の腕力ではそれを解くには至らなかった。
『どうすればいいんだ!』
 徐々に目の焦点がおかしくなっていく澄子を前に、功佑は成す術を無くす。しかし諦めてはいけない! 考えるんだ! 考えるんだ!
 功佑はその念を掴み、その存在を頭の中で必死に否定し続けた。

『そうだ!』
 功佑は咄嗟にズボンのポケットに手を突っ込み、あの焦げた付箋を取り出すと、漆黒の念に叩きつけた。その途端、二人の首元から激しい火花が飛び散り、漆黒の念は黒煙を吹き上げた。そしてその火花は先程の春氏同様に炎へと転化し、文字通りに燃え始めた。
 濛々と立ち込める黒煙の中、功佑は澄子の中で苦しむ忍野の手を掴み、彼女の中から引きずり出した。春氏の二の舞をせぬように、功佑はその付箋を捨て置き、忍野をそれから遠ざけた。
 しかし……
 漆黒の念から引火した炎は忍野をも包み込んだ。
「ぎゃああ!」
 絶叫をあげる忍野。激しい熱さに踊るように忍野はその場でのたうち回った。
「や、やめろ!」
 功佑は叫びながら忍野に駆け寄り、春氏同様に抱きしめた。その業火は容赦なく功佑をも包み込む。功佑はそれに負けじと炎を否定する。。
「こ、こうじー、お、お前さんは生きろ!」
 燃え盛る炎の中、黒く焦げた顔で忍野はそう呟くと、最後の力を振り絞るようにして、功佑を突き放した。
 したたかに地面に転がる功佑。その際に激しく腰を打ち付け、激痛にうずくまる。
「やめ、や、やめて……お願い……」
 涙ながらに悲痛に囁くも、誰も彼の声を聞き入れる者は居なかった。
 そして……
 忍野もその業火に飲み込まれ、わずかな塵と化した。そしてそれを嘲笑うかのように風が吹き、彼を亡き者とした。
 駐車場には気を失ったままの澄子と桜井、そして茫然自失となった功佑が取り残された。
 漆黒の念はまたもやその行方をくらました。
 功佑は徐に立ち上がり、澄子と桜井の安否を確認する。彼らにしてみればただの霊障。火種が消えれば全ては消え、その支障は残らない。
 二人とも無事に息はしている。功佑はそれだけ確認すると、二人の間に転がっていた焦げた付箋をまたもや回収する。焦げてはいるものの、それは決して燃え尽きてはいない。あれだけの炎の中、原形を留めている。この付箋も生きていると仮定すれば、勿論霊障による消失はあり得ない。そう、この付箋は生きている。誰かの念を纏い、その思いを成就せんが為に、強く存在し続けている。たかが紙切れ。されどそれは、功佑の大切な仲間を二人も闇へと葬り去った。

『許せない……』

 功佑の中で激しい憎悪が湧きたった。今まで分かち合ってきた日々は全て嘘。自分は踊らされていたに過ぎない。彼の前に現れた唯一の光は、希望の光ではなく絶望への漁火だったのだ。
『もう誰も信じない』
その憎しみは、生きている者たちに対しての不信感と諦観をも誘発し、彼の胸中を混沌へと導いた。彼はスマホを取り出し、誰かへ電話を掛けた。相手が出るまでの間、彼はそっと呟いた。
「この怨み、晴らします……」

          
「本日、二十時半過ぎに異様に高い霊波が、大戸岳付近に観測されました。そしてその後、それと同種の霊波が高苗市内のアパートの一室、そして半径一キロ以内のスーパーの駐車場でも観測されています。この霊波は五十年前のあの日と同じ波調。現在、メンバー及び、各宗門へ厳戒態勢の指示を通達した次第です」
 涼香と田所は終業後、全霊審の理事長である山本に呼び出された。いつになく物々しい山本の様子に二人は襟元を正した。
「五十年前とは?」
 涼香は臆せず声を上げた。
「番隨君、君も我々の仲間。そろそろ打ち明けてもいい頃合いでしょう。」
 山本は渋い表情をすると、再度口を開いた。
「番隨君、我々の使命は何かご存じですよね?」
「はい、あらゆる霊障から我々の世界を護る事――」
「それは建前です。本当の意味での我々の役目は?」
「今世と霊界の均衡を保つ事です」
「そうです。それが五十年前の夏に一度、崩壊しました。その崩壊した場所がここ、高苗市です。その発端となったのは、とあるトンネルの開通工事でした。当時、経済発展が著しい世相の中でこの高苗市もとある事業を計画しました。それは市内中心にある大戸岳にトンネルを開通させるという巨大なプロジェクトでした。しかし昔より大戸岳は神の降り立つ山として未開の禁足地でした。地域住民および、各宗教法人、そして我々霊能力者で結成された全霊審も断固として反対し、その工事を止めようとしましたが、工事は着工を迎えました。その結果高苗市は未曾有の霊障に見舞われる事となりました。」
 山本はそう言うと、当時発生した群発地震を例に、数々の霊障を取り上げた。
「世界はバランスで成り立っています。日本の霊泉は実はここ、大戸岳に集中しています。ここに触れる事で、あらゆる均衡に歪(ひずみ)が生じます。その結果の一つが五十年前のこの一件。それにより地震を始めとした霊障がこの高苗市を襲いました。内閣府よりの指示で我々は、その霊障の事実の隠蔽に奔走しました。今も尚その勅令は秘密裏に生きています。何があっても我々はこの件を隠し通さねばなりません。しかし、事はそれ以上に重大です」
 そう言って山本は一連の殺人事件についても言及する。
「今回の一連の事件は、まさに大戸岳を震源とした霊障の余波。これまでの五十年という月日は、この世とあの世の境界をより一層曖昧にしました。巷に渦巻く無数の負の念が影響を及ぼし、大戸岳に根を張る黄泉の意思が、この世に侵食を始めました。その意思とは『死』、言わば『無』を司り、全てを無に帰すこと。その一つが今回の殺人事件。我々の調査でもはや容疑者は特定し、拘束中です。彼らは被害者との面識も無ければ、殺す動機すらありません。彼らは、その意思より飛ばされた悪霊、怨霊の類によって憑依され、その傀儡とされただけ。」
 更に山本は続ける。
「番隨君、全ての終わり、言わば『無に帰す』場合、その予兆は何か分かりますか?」
「分かりかねます」
「いいでしょう……覚えておきなさい。『無』に至る為の予兆とは、絶望を意味する『混沌』です。絶対的な『無』を実現するためには、全ての希望を叩き潰し、徹底的な絶望を我々生きし者に叩きつける事。その為に派生するのが『混沌』。今回の連続殺人もその予兆に過ぎません。凄惨な殺害の手口は絶望に陥れるためのファクター。これよりもっと人知を超えた混沌が、我々の今世に降臨する事でしょう。そう、それが我々の危惧する『来るべき災禍』なのです」
 山本の言葉は涼香にとってあまりに壮大過ぎた。
「その災禍の犠牲になった一人が、君のお父さん良石(りょうごく)さんです。黄泉の意思は生きし者の中で対抗に値する者から抹消を始めます。彼の死は我々にも痛手でしたが、それは何よりも君、番隨君の心に傷を残すことになった」
 その言葉に涼香は今際の際の父親の顔を思い出す。しかし、それはもう過去の事。涙はとっくの昔に枯れている。
「そして我々に出来る事は限られています。黄泉の意思に対して我々は無力。我々が出来る事はその意思の影響下の霊障に対しての退散、祈祷のみ……しかも、その力になってくれるメンバーも残り少ないという……」
「その意思を根本的に鎮める事は出来ないのですか?」
 食い気味に声を上げる涼香。
「それには定かではありませんが、無垢なる供物が必要とされています。しかしその供物が何を意味するのか、我々は解明に至っていません」
 その時だった。彼女の胸ポケットに入っていたスマホが激しく鳴動した。彼女は慌てて取り出すと、その着信者に頬を緩ませる。
「どうぞ。出てください」
「申し訳ありません。少しだけ失礼します」
 山本の言葉に甘えて、涼香は暫しその場を離れるのだった。

「室長、今から会えませんか?」
 電話の相手は功佑だった。その言葉に淡い期待と一抹の不安を抱えながら、彼女は待ち合わせのいつもの屋上へと出向いた。その場所の空気はいつになく冷たく、殺気じみた低俗霊たちが悪戯に浮遊していた。
「室長……」
 その声に振り向いた涼香は、わずかに抱いていた期待を捨てざるを得なかった。彼女の目の前に立っていたのは、青白い殺意の念にまみれた功佑だった。
「どうしたの? 河東君」
 篠北の声音で返す涼香。
「あなたは一体何者なんですか? 何が目的で僕に近づいたんですか?」
 功佑はそう言うと、ボディミスト、付箋、その他、篠北が彼に対して使用したメモやノートなどを鞄の中から取り出して、彼女の前に叩きつけた。
「え? どういうこと……」
 功佑の哀しそうな視線に、つい篠北のまま声を上げてしまう涼香。
「とぼけるのもいい加減にしてください! これらには全て清水が仕込まれていて、怨霊退散の呪文まで書いてあります! あなたは僕の事を、僕の大切な仲間の事を知っていたんですよね!」
 全てを話す……
涼香は起死回生を誓い、覚悟を決めた。
「あなたの事、あなたが霊と繋がっている事は知っていたわ」
「やっぱり! だからと言って罪もない霊を消し去るなんて、あんまりじゃないですか! 僕は大切な仲間を二人も一度に失いました! しかも激しい炎に包まれながら! 彼らが何をしたって言うんですか? あなたは知らないでしょ? 彼らの声も聴かずに葬り去るなんて赦せない!」
「ちょっと、待って!」
 涼香は功佑の言葉に違和感を覚えた。確かに呪符と化した文具類は怨霊を燃やす力があるが、怨霊一人を焼き尽くす程の威力には到底なり得ない。きっと何か違う力が……
「河東君! 待って。全部話します! 私は全霊審という、霊障から日本を護る組織からの指示でここに派遣されたわ。高苗市は今、危険な霊障に晒されてる。あなたも視えるなら、何かしら異変に気付いてるんじゃない?」
「そんな事は話してません!」
「聞いて! 確かに私は霊との繋がりを探るためにあなたに近づいたわ。だけどそれはもう、任務じゃない! 今はあなたを救いたいから! 霊の呪縛から解き放って、生きてる人間として普通に生きて欲しかったから! それにその呪符にはそこまでの――」
「もう、あなたの言葉は信じない!」
 功佑が涼香の発言を制すると同時に、彼を取り巻く青白い念の中から低俗霊が無数に飛び出し、彼女を羽交い絞めにした。そして功佑が駆け寄り、彼女の首元に手を伸ばし、一気呵成に締め上げた。
「や、や、めなさい……」
 気道を圧迫され、喉を詰まらせながらも抵抗する涼香。しかし、身動きできない彼女は、低俗霊と功佑の力に手摺の方まで追いやられる。
「か、河東君……あ、あなたは……い、生きてるのよ!」
 視界が狭窄し、息も絶え絶えになりながら、彼女は言葉を振り絞った。
 そして……
「あああああ!」
 功佑は雄叫びをあげて、彼女からその手を放した。そして瞬く間に消えていく青白い念。
「河東君……」
 篠北の声に功佑は涙ぐんだ目を見せると、逃げるようにしてその場を立ち去った。
「はあ、はあ……」
 少しずつ呼吸を繰り返す涼香。荒い息遣いの中で、彼女は後悔した。彼女の行動は最悪の事態を招いた。もう功佑とは今まで通りに接することは出来ない。彼にどんな怨霊が憑いていたのかは分からないが、あの男をここまで怒らせたという事は、余程大切な仲間だったのであろう。殺されそうになったにも関わらず、彼女は功佑の心情を慮った。こうなってしまった事に対して責任を感じ、彼の信頼を失ったことで激しい焦燥感に駆られた。

「!」
 感傷に浸るのも束の間。周囲は一気呵成に禍々しい空気に包まれた。失意に集まる低俗霊とは比べ物にならない程に凶悪。それは漆黒を纏いながら瞬く間に彼女を包囲した。そして彼女は頭上を見上げる。
そこには濛々と立ち込める漆黒の闇が、大きく口を開いていた。

「うわあ!……」
 屋上から逃げ出した功佑は、地下の駐車場まで一気に階段から駆け下りた。そして殺意に汚れた手を強く握りしめ、そのままコンクリートの壁面に叩きつけた。
 痛烈で鈍い痛みが骨にまで沁みわたり、彼は悶絶する。
決して篠北への憎悪が消えた訳ではない。しかし、彼女との日々、そして春氏と忍野と過ごした日々が、彼のその手を引き止めた。許せない、しかし裏切れない。そのジレンマの中、彼は痛みに逃げた。憎しみも罪の意識も、その拳に一任せにし、痛みでそれを誤魔化した。
そして不意に、彼の脳裏に業火の包まれる杏奈の姿がよぎった。
「あんじー!」
 鈍く痛む手を胸に抱え、彼は自宅へとひた走った。
「あんじー! 無事でいて! 今行くから!」

 

『ぎゃあああ!』
 アパートに辿り着く刹那、功佑の鼓膜を杏奈の絶叫が貫いた。
「あんじー!」
 心配極まって、功佑は弾き飛ばす勢いで玄関のドアを開いた。
しかしその時点でもう、室内は炎に包まれていた。燃え盛る業火の中心には、黒焦げになった杏奈が横たわり、今まさに灰塵に帰そうとしていた。
「こうじー……あんたは……生きて……」
 杏奈は帰りついた功佑に微笑み、焼けただれた気道から囁くように声を絞り出した。そしてそっと目を閉じる。と同時に黒い塵と化し、業火の中に消えていった。
「そんな……」
 功佑は茫然自失と化し、誰も居ない部屋に一人取り残された。

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