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すべからく『愛』を謳え 第五話 『少年』

すべからく『愛』を謳え  第五話『少年』


①葛西さおり
「三点で千二百八十円です」
   材料費の高騰で、ここのケーキ屋も、とうとう値上げに踏み切ったようだ。時勢柄それは致し方ないとは理解するものの、やはり給料据え置きの契約社員からしてみれば、そこ百円、二百円の値上げでも辛いのが本音。
「あ、いつも来ていただいてらっしゃるので、おまけ、つけておきますね!」
  女子大生だろうか?  小柄で愛嬌のあるバイトらしい女の子が、マドレーヌ二個をそっと包装箱の中に忍ばせた。
「あ、ありがとうございます……」
  葛西さおりは、気恥しくなりながらも、彼女の行為に少しだけ心が和んだ。


「ゲッ!  雨降ってきた……」
   ケーキ屋を出ると、途端に雨が降り出した。
  今朝の予報では、一日の降水確率二十%程度で、十九時の今時分では曇りマークに十%という表記だったはず。傘を持っていないさおりは、つい舌打ちをこぼす。ここから先はコンビニや、傘を買える店は皆無。
   この店から自宅の団地までは、歩いて五分ほどの距離。走って帰ればずぶ濡れになるのは必須。
   もはや濡れるのは致し方無い。彼女は買ったケーキの箱を、守るようにして小脇に抱えた。
「しゃーない、行きますか!」
  一人鼓舞すると、彼女は雨の中に飛び出して行った。



『……ぁ……』
『……ぁさん……』
  雨粒を縫うように走り抜ける彼女の耳元に、誰かが
囁いた。

「え?」
  不意に立ち止まり、振り返るさおり。
  後ろには、本降りになった雨に濡れる住宅街があるのみ。
「空耳よね?」
  肩をすくませると、今一度彼女は、雨の中を走り出した。



「ああ! もうびしょ濡れ!」
  程なくして自宅にたどり着いたさおりは、濡れたままバッグに手を突っ込み、玄関の鍵を取り出す。
「ただいま〜!  ばあちゃん、帰ったよ」
  玄関に入り込むや、彼女はケーキを一度下駄箱の上に置き、濡れた上着を脱ぎ始めた。
  奥に配された祖母の部屋からは、何も聞こえてこなかった。
「ばあちゃん?」
  さおりは靴下を脱ぎながら、祖母の部屋に向かう。
  「ばあちゃん、入るよ」
   大きな声でゆっくり告げると、彼女は祖母の部屋の襖に手を掛けた。
「どうしたの?  ばあちゃん?」
  襖を開けると、祖母の澄江は布団を頭から被り、その中にうずくまっているようだ。

「ばあちゃん……」
  さおりはうんざりしたような表情を見せると、その布団の前に座り込んだ。
「ばあちゃん、則夫さんはもう帰ったよ。しばらく来ないって言ってたから、もう安心だって!  ほら、ケーキ買ってきたから、一緒食べよ!」
  努めて優しく語りかけるも、彼女は苛立ちを隠せなかった。
 布団をそっと持ち上げると、アンモニア臭が鼻を突く。また同じ紙パンツを何日も履いているようだ。
  澄江はその薄暗い布団の中で、何かに怯えているかのように、小さくうずくまっていた。

「ねぇ、ばあちゃん、いい加減にしようよ……」
   さおりは、つい堪えきれずに、ため息をついた。

   葛西さおり。
  彼女はこの公営団地に、祖母の澄江と2人暮らし。
  高校生の時分に、彼女は美大を目指して、日夜絵の具にまみれる日々を過ごしていた。しかし、食堂を営んでいた両親が、店の火事で二人とも帰らぬ人となる。当時高校三年生だったさおりは、美大への道をその時点で閉ざされてしまう。
    そして不幸な事に、両親は食堂の運転資金を返済しきらないままに他界。多額の借金と、軽度の認知症を患う祖母が、彼女には残された。返済と生活の為、否応なく進路を『進学から』『就職』に、彼女は変更を余儀なくされる。
    急な展開に、学校の教師陣も慌てふためき、色々と手を尽くすが、彼女を受け入れてくれる就職先は見つからぬまま、彼女は高校を卒業する事となる。
  彼女自身、切羽詰まった状態であることは理解し、彼女なりに焦りながらも、ベストは尽くしていた。
  が、しかし、金を貰って働く『社会人』になるには、やはり彼女まだは幼く、自覚が足りなかった。卒業後も繋ぎのバイトばかりで、『就職』は夢のまた夢であった。
  無駄に広い家と、一部の介護を要する祖母。それを維持するために、アルバイトを掛け持ちしながらも対処したが、早々にそれは暗礁に乗り上げる。持ち家だったが故に、毎月高額の固定資産税が発生し、食費、水道光熱費、その他諸々重なれば、月のバイト代など遥かに超えてしまう。さらに上乗せされる両親の返済金。祖母の年金など雀の涙程度。初めから宛にもならない。
     そんな状態が続き、郵便受けの中には、徐々に督促状がねじ込まれるようになった。
    見かねた母方の叔父は、彼女達を引き取ろうとしたものの、妻の伸子の断固たる反対によって、それはなし得なかった。その代わりに、彼らがさおり達の家を売り払い、それで得た売却金を借金の返済に充てる事に。そして、住む家を無くした二人には、終の住処として、この公営団地の一部屋を用立てたのだった。
    されど生活がギリギリである事は変わりない。安定した収入を得ようと、バイトを続けながらも、何社もの企業の面接を受けるが、こと如く惨敗に終わる。

   そもそも『絵』しか頭になかった彼女には、現実社会に通用する為のスキルは、正直皆無だった。
    挨拶の仕方から、目上の人への喋り方、立ち振る舞い、一般常識的な知識に至るまで、彼女は無知で無学だった。
    しかしだ。ある意味、それは致し方無い事。誰もそんな事を彼女には教えていない。これから少しずつ身につけて行くべき事を、急に繕う事など到底無理な話。
   されど面接を受けた企業、やっと受かったバイト先からも、彼女は叱責を買う始末。それはどこの職場に行っても着いてまわり、彼女を執拗に苦しめた。
    少しでも周囲に同調しようと、彼女は休みの日に最寄りの図書館で、マナーや自己啓発の本を手に取った。しかし、聞き慣れない用語やそのロジックに、思考と知識が追いつかず、最初の数ページで指と脳が止まるのが常だった。

   同年代の大学生のバイトや、フリーターの面々は、彼女がぶつかっている壁など、正直お構い無しで、注意をされたら腹を立て、しまいには辞めていく面子ばかり。
    実際のところ、彼らは『生活』を背負っている訳ではない。何もしなくとも不自由なく暮らせる、家と食事がそこにはあって、真っ直ぐに『自分』の人生に生きる事が出来た。
    何処そこに旅行に行っただの、株で儲けた、大損した、はたまた恋に恋する惚気話など、あくまで『自分』を中心に回る世界に、彼らは生きていた。
   そんな中、さおりは来月の支払いや、手元に残る金で毎月、どうやって凌いでいくか?  そして徐々に進行する祖母の認知症のケア、もうそれだけで頭がいっぱいだった。それにも増して、職場に於ける自身の立ち位置も、崖っぷちだった。
    ただただ『生きる』為に働く。それだけで精一杯で、『自分』をその、生活の土俵にあげる余裕など、微塵も無かった。

   しかし。
   心の奥底には『絵』が、まだ息づいていた。
   絵画雑誌やSNSで、若い画家達が作品を発表したり、或いは受賞しているのを見掛けると、彼女は激しい焦燥感に襲われ、息が詰まる程に咽び泣いた。

『こんなはずじゃなかった……』
   この台詞は、当時の彼女の口癖であり、同時に禁句でもあった。


「さおりちゃんは偉いね!  良くやってるよ!  おばさんはさおりちゃんを応援してるからね!  さおりちゃんがしっかり働いて、しっかりおばあちゃんを守っていかなきゃね!」

   母方の叔父の妻、義理の叔母である伸子は常にそう、口走っていた。何かにつけて『頑張ってるね!』と言うくせに『しっかりしなくちゃね!』と、最後に締め括る。彼女からすれば叱咤激励のつもりかも知れないが、さおりからすれば彼女の魂胆が丸見えで、脅迫にしか聞こえなかった。そう言われる度に、彼女は『孤独』である事を痛感する。
   叔父の家には、男兄弟二人が高校と大学受験を控えていた。さおりも大学受験を志していたが故に、莫大な費用が必要である事は、十分に承知している。親戚とは言え、さおりたちを食べさせる金などないことも。ましてや気の小さい叔父は、伸子に家庭での実権を握られ、言わば言いなりだ。本当の意味で宛にはならない。しかし彼は、血縁者である事に義務感を感じてか、毎月一万から二万を自分の小遣いから、さおり達に工面してくれていた。そこには素直に感謝していたが、何かしら『決断』が必要な場合には、必ず伸子が声を張り上げてしゃしゃり出る始末。
   実質、さおりには『味方』は居なかった。親戚とは名ばかりで、言い換えれば最悪の『仇敵』でもあった。


   そのような過去を引きずりながら、気がつけば十五年もの月日が過ぎた。
   さおり自身、正社員としての職には辿り着けなかったものの、バイト先のスーパーで、その努力が報われ、契約社員としての位置を勝ち取った。僅かながらも『安定』に辿り着く事が出来た。しかし、まだ『自分』の為に生きる余裕はなく、日々進行する祖母の認知症に一喜一憂する毎日だった。


「ばあちゃん、ほら、出てきて。」
  さおりはゆっくりと、布団を剥ぐ。
 「なんまんだぶ、なんまんだぶ……」
   澄江は、布団を剥ぎ取られた事にも気づかない程に、目を固く瞑り、こめかみの前に手を合わせて、その言葉をしきりに連呼していた。
   一度この状態になると、手の施しようがなかった。      本当の澄江が戻ってくるまで、ひたすらに待つしかない。
  朝方は仕事に向かうさおりを労う程に、比較的意識はしっかりしている。しかし、何かしらのきっかけで、『則夫』という男が現れ、彼女の思考を破壊する。そうなったが最後、何かに縋るように、彼女はしきりに念仏を唱えるのだった。日頃は掃除洗濯や家事をこなし、足腰もしっかりしている分、その変貌ぶりには恐怖さえ感じる。
    この症状は、さおりの両親が亡くなってから、少しずつ増えていった。最初は年に二、三回であったが、月日を増す毎に頻度が増え、最近では週に数回起きることも少なくない。毎月一回の通院で、この事を主治医に相談するも、静観する他ないとの答え。
    過去に負った心の傷が、今更になって化膿し始め、それが形となって出ているだけ。それを無理やりこじ開けたり、否定したりすれば、本来の朗らかな澄江はさらに奥へと逃げ込んでしまう。正視に耐えないが、膿を出し切るように、ただただ『待つ』事が、唯一の処方箋。
   主治医は申し訳なさそうにそう言うと、無難な数錠の薬を処方するだけだった。
   ただでさえ『現在』を忘れて赤ん坊と化す祖母。それに上乗せしてのこの『則夫』の存在は、さおりにとって、この上なく迷惑で厄介だった。老人ホームに預ける程の余裕もなく、祖母のケアは月一の通院と、週一の訪問看護のみ。それだけで精一杯だった。彼女のケアマネージャーはしきりに、提携先の老人ホームを薦めていたが、その余裕が無い事が分かると、手のひらを返すように、対応が粗雑になった。

『さおりちゃんがしっかり働いて、しっかりおばあちゃんを守っていかなきゃね!』

   伸子の言葉が、さおりの胸を深く抉る。
   まさにその通り。彼女には『味方』は居ない。
   そして、誰も助けてはくれない。
   もし、彼女がまだ学生であったならば、ヤングケアラーとして、何かしらの援助が望めたかも知れない。     しかし、彼女がその時分にはそんな言葉も無く、精神論だけで叱咤激励をされるばかりだった。そして今や、ヤングとはお世辞にも言えない年代だ。今更泣き言を言っても、誰も耳を傾けない。いや、敢えて耳を塞ぐだけだ。

   さおりは徐に立ち上がり、剥いだ布団を澄江の肩までかけ直す。そして薄汚れたエアコンのスイッチを押し、ドライモードに切り替えた。
    雨のせいで、部屋の中はむせ返るように湿気っていた……



閉口
   「君は誰だい?  名前はなんて言うの?」
     聡太郎は、いざよい橋から着いてきた少年に声を掛ける。しかし、彼はずっと聡太郎を見ているだけで、閉ざした口を開こうとはしなかった。

    この少年には僕が見えているのか?  そして何かを訴えようとしているのか?

   怨念や情念、はたまた生霊は皆、自分勝手だ。
   あまりもの無念さ故に具現化するだけのも居れば、確かな意思があって、何かを訴えているものも居る。     そのどちらかの判別は、生者には非常に難しい。
   特に聡太郎は『渇き』のせいで、その可視の精度は鋭く、『彼』を認識しない情念まで、色鮮やかに視界に映り込んでしまう。
    しかし、この少年の表情からすると、耐え難い『寂しさ』の中に沈んでいるようだ。そして、その風貌からして、かなり過去にその命は朽ち果てたものだと、推測される。丸坊主の頭に薄汚れたランニング、ボロボロに敗れたズボンという出で立ちは、あからさまに現代のそれとは掛け離れていた。
    聡太郎は熱を帯びた左手をかざし、少年の過去に焦点を合わせる。
『助けて……』
『死にたくない……』
『お母さん、なんで?』
   その叫びと一緒に、たくさんの瓦礫の山、暗闇の中で押し潰されていく恐怖、そして、痛烈な右脚の痛みが聡太郎に流れ込む。
   しかし、見えたのはそれだけ。
   その映像はきっと、彼が命を落とす瞬間に見たもの。そして、その時に怨念としてこの世に残るに至る、悲痛な思いを彼は味わったのであろう。
    少年の中には深い闇があって、それは寂しさから深い憎しみに変貌する危険を孕んでいた。
    下手にこじ開けると、良からぬ事態を巻き起こすのは必須。慎重に、丁寧に、この少年には接する必要があるようだ。
   頑なに口をつぐんだ少年を前に、聡太郎は腕を組んだ。


透過
 
   空は群青に染まり、吹き抜ける風は穏やかで、太陽と草木の伊吹をほのかに匂わせる。
    さおりは週に一度、澄江を外に連れ出していた。連れ出すと言っても、八十五を迎えた彼女をそんなに遠くまでは連れては行けない。団地のすぐ側にある公園が、さおりと澄江の散歩コースだった。

「はい、ばあちゃん、ここに座って」
  そう言って、さおりはベンチにタオルを敷いて、澄江を座らせた。
「ああ、ありがとうね」
   今日の澄江はいつもの彼女だった。
   さおりはここぞとばかりに、履き古した紙パンツを履き替えさせ、風呂にまで入らせた。そして澄江に自分を保たせる為に、少しでも刺激になればと、調子の良い時はこうして外へ連れ出していた。

「はい、おにぎりね」
  行きがけのコンビニで買ったおにぎりを、封を外して澄江に渡す。彼女はいつもツナマヨだった。それはまだ彼女が子供のころに米兵からもらったツナ缶が忘れられないらしく、おにぎりは常にツナマヨだった。
「ばあちゃん、美味しい?」
「米がパサパサしとる」
「贅沢だって」
   ケラケラと笑い合う二人。今日の澄江は冗談を言える程に調子が良かった。
   いつまでもこのままならいいのに……
   さおりは、心の底からそう願わずには居られなかった。

   さおりは愛用のイーゼルを立て、その上にスケッチブックを載せる。そしてバッグから鉛筆と筆、紙パレット、水彩絵の具を取り出し、紙コップに水を汲む。
    眼鏡をかけ、目の前の池に目を馳せる。鉛筆を持ち、徐にスケッチブックに芯を走らせる。
   散歩の時だけ、彼女は自分に『絵』と向き合う事を許した。そうすることで、ほんのわずかだか胸の仕えが和らぎ、息苦しさを忘れる事が出来た。
「あ、こっちの線はここの延長線か……」
  夢中になると、途端に独り言が多くなる彼女。
     その真剣な眼差しを、澄江は優しく見守るのだった。





  「さおりちゃん、ちょっとおしっこ……」
    小一時間程集中していたさおりは、申し訳なさそうに口を挟む澄江の声に、我に返った。
「あ、ごめん。トイレ行こうか?」
    下書きは出来た。後は筆を入れるだけ。
    さおりは澄江の手を取り、ゆっくりと立ち上がらせた。そのまま公園内のトイレまで、二人で向かう。
「ばあちゃん、ゆっくりでいいからね」
「ごめんねぇ……」
   繋いだ澄江の手は柔らかく、子供の頃に繋いだ、あの優しい温もりを持った、あの手だった。



「ばあちゃん、出た?」
「あと少し」
   便座に座らせた後、一度外に出て、敢えて介添えをしないさおり。そうすることで澄江の自尊心を保ち、甘えを抑制していた。
   「あっ!  ハンカチ!」
   ポケットをまさぐり、澄江のハンカチを忘れた事に気づく
。きっとバッグの中だ。
「ばあちゃん!  ちょっと待っててくれる?  ハンカチ取って来るね」
「はいよー」
   澄江はそのハンカチでなければ手を拭かない。澄江の返事を聞き取ると、慌ててさおりはベンチへと走った。


『あ……さん……』
『……かないで……』


   さおりは、ベンチに戻るまでのわずかな間に、また、誰かの囁きに気づいた。振り返りながら四方に視線を配る。そこにはいつも見慣れた公園の風景しか無かった。

「あれ?  また空耳?  やっぱり私、疲れてるのかな?」
   小首を傾げながら、彼女は再度ベンチに視線を戻した……

「あっ!」
  その瞬間、さおりは我が目を疑った。そして、驚愕する。
   彼女達が座っていたベンチの前には、うっすらとだが、子供らしき姿が、透かして、見えていた……



   つづく

    


   



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