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鈍色の浸蝕者 第七話

第七話


平静に、迅速に、そして諦めない事。

この三つは真理さんに伝えられた、この世界を無事に生き延びるコツ。

「私たちがこの世界の現実に気付いたとしても、そういう素振りをしさえしなければ、きっと奴らにはバレないと思うの。更に裏を返せば、まだ私たちは幻想の中で生きている事になってるし、奴らは私たちに理想の世界を見せようとする。だから、願いさえすれば真実に辿り着くまでの道のりは、困難ばかりではないはず」


 そう、真理さんは私に助言をくれた。そして更にもう一つ付け加えた。

「今まであなたのようにこの世界に迷い込んだ人たちを数人見てきたけど、その殆どは奴らの手に落ちてる。先日もあなたの自宅の近くで、一人の女性が轢き殺されたわ」

 その話を聞いた時、鮮明にあの日の記憶がフラッシュバックした。

 そう、あまりもの頭痛で会社を早退したあの日、コンビニの前の交差点で目にした女性と黒い車。あの時走っていた女性も、私と同じ境遇だったんだろう。目が合った瞬間、彼女も私の境遇に気付いたはず。だけどあの日の私では、彼女を助ける事など到底無理な話だ。正直、今でさえ自分の事で精一杯。だから、あの日の彼女、まだ居るであろう被害者には申し訳ないけど、今の私でも、誰の力にもなれそうにない。この世界で無事に生き残り、本当の現実に戻る事が、今の私の到達点。その為には目の前で誰かが見せしめにあったとしても、心を鬼にして無関心を貫き通す他はない。

 自己中心的ではあるけど、そうでもしなければ自分の身も危険に晒される。勿論葛藤はあるし、罪の意識もゼロではない。ややもすると、いずれその無関心が故に、私が奴らに狙われた時は誰も助けてはくれないだろう。ましてや、真理さんという協力者を得たにもかかわらず、誰にも手を差し伸べられない私は、もっと悲惨な末路が用意されているかも知れない。



 ダメだ――


 どうしても思考がネガティブに流れてしまう。このままでは最悪な結果を自らの手で引き寄せかねない……


 私は今、各駅停車の電車の中。洲崎に向かう為に、真理さんのもとを離れて、始発の電車に乗り込んでいた。

あくまで平静、何事もない事を装う為に、今日の仕事は有給を使い、昔からの友達の家へ遊びに行く、そんな見え透いた設定を考えた。そして、

『どうか、誰も不思議がらずに素直に受け止めてくれますように……』

 心の中でそう唱えて、宗佑へメッセージを送り、職場にはその旨の電話を掛けた。

 願いが通じたのか、双方から『気を付けてね』という言葉で見送られ、私は今、逃亡と脱出の一途。まだこの世界は、私の変化には気づいていないようだ。だけど、あの後宗佑は『どう』なったんだろう? 他の奴らと一緒にまた『再起動』したのだろうか……


 目の前に見えるのは、くたびれたスーツに身を包んだ男性と、同世代くらいの女性が数名、学生服姿の男女。その顔の全ては無表情で鈍色。あくまで『日常』を模倣しているに過ぎない。彼ら一人一人にはやはり、意志や感情はないのだろうか? 奴らはこちらの意思を汲み取って、あらゆる状況を円滑に操作している。その分、『感情』という不定形なものには過敏なはず。或いは感情が無いからこそ、その感情を目の当たりにすることで、それに鋭敏に反応出来るのかも知れない。いずれにせよ、彼ら『ヒトガタ』の正体とその目的は不明。私や真理さんが知っている以上に、計り知れない秘密を秘めているはず。最後まで油断は禁物。

今はとにかく洲崎まで辿り着く事が先決。何一つ正解が見えないけど、真理さんの言った通り、諦めない事。きっと洲崎が、そして『私』が私に何かを示してくれる筈。

私は電車に揺られながら、無表情のまま、拳を強く握りしめた。


「つうぐいはすぅざくぅいぃ」

 車内のアナウンスが緩慢に洲崎への到着が近い事を告げる。途中で乗り換えておよそ三時間、ようやく目的地に辿り着ける。その道中に数回送信されてくる宗佑からのメッセージ。

 その都度、無難な言葉で返信し、今まで通りを私は装う。つい昨日まではこのメッセ―ジに、期待で胸を高鳴らせていたが、今となってはその度に戦慄で肝を冷やす程に、私の心境は変化した。あらゆる状況に拒否を示していた身体に、やっと心が追い付いた、今になってそう感じられた。



「すうざあくぅいぃ」

 間延びした車内アナウンスの後、緩やかに開くドア。私は降車する群れに交じり、その列に合わせて電車を降りた。そこから各々に散らばりだす乗客たち。私もそれに倣い、ノロノロと改札口を目指した。

 

 駅を出ると、激しく濁った曇天の空、そして肌に纏わりつくような、存分に湿気を孕んだ生ぬるい空気が私を出迎えた。それはまるで、梅雨時期の雨が降る直前のよう。そして海が近いのか、薫る潮風は下水やヘドロの臭気を孕み、その不快感でまるで私を威嚇、或いは拒絶をしているかのよう。その証拠に、駅のロータリーに停車しているタクシーと思しき車は、全て真っ黒のセダンばかり。ガラスも黒くスモークが焚かれ、運転手の顔は確認できない。

私はそれを罠だと判断し、敢えて見て見ぬふりをする。

 私は緩やかにロータリーを通り過ぎると、温泉街へと繋がる繁華街へと足を向ける。目指すは真理さんから貰った添付写真の旅館。その旅館は音月荘。つい先日、こちらの宗佑と婚前旅行で泊まったあの旅館だ。私は電車に乗り込むなり、ネットで音月荘に予約を入れていた。その際、予約画面に出てきた、それぞれの部屋の内装に、消え入りそうなほどに儚い既視感が、そっと私の胸中にざわついた。私はその波紋をすくい上げるように、直感でここだと思える部屋を探す。

『浅葱の間』

私はその名前の部屋を選択し、そこで決裁も済ませた。

あまりにも儚く心許ない記憶の糸に、私は直感と言うより山勘でその部屋を選んだ。前回の予約はこちらの宗佑がしてくれていたので、正直、部屋の名前までは憶えていなかった。

だけど、私の中に居るであろう、おかしくなかった本当の私がその部屋だと、背中を押した。そんな気がした。

旅館にしろ、その部屋にしろ、昨日、写真を見た時は、正直言って全くピンと来なかった。

だけど、見返す度にそこがその旅館だという認識は深まり、ここに来てもう、私は確信を得ていた。これも真理さんが言っていたように、靄に包まれている記憶が鮮明になり始めているのか? その実感は湧かなかったが、いつのまにかそれを認識している自分が居る事は確か。

きっと道は開ける筈! この世界は私の理想通りに動くんだ!

私は何度も自分にそう言い聞かせて、都合のいい解釈で自分を繕った。



 街を徘徊するヒトガタはまばらだけど、皆、肌は鈍色で、その表面には黒い点が忙しなく動いていた。皆一様にして頭を左右に振りながら、まるで私を探し出そうとしているかのように思えた。更には急に増えだした黒い車の往来。それはまさに車道を埋め尽くす勢い。

 私のミスを発見し次第、全車で轢き殺すと言わんばかりの威圧感。きっとヒトガタたちの間になにかしら私の情報が流れたのかもしれない。ここで慌てふためいてはいけない。あくまで冷静に、平静に徹する事。何度も自宅前のコンビニですれ違った女性の視線が頭によぎり、なんとか私は発狂せずに『現在』を保つことが出来た。

 どんどん増えていくヒトガタの群れと、黒い車の中を何気なく、素知らぬ顔で歩いていく。

 まるで私も脱走しようとする誰かを探すかの如く、左右に頭を振りつつその流れに沿う。

 そうやってその空気の一部になりながら、私はひたすらに歩き続けた。およそ二十分ほどすると、街並みは徐々に田舎の温泉街の様相を醸し始め、私の胸中は高鳴り始めた。あと数分歩けば、音月荘のある通りに出る筈。その近辺で食べ物を買い、部屋に着いたら一息をつく。そう考えると、つい、足早になりそうだったが、私はそれを堪えながら、緩慢に突き進んだ。



「あるぃぐぅわとうごずぅわいむあすぃたあああ」

 狭い店内で、もはや喃語と化した挨拶が、纏わりつくように響き渡った。

 音月荘の手前にあった土産物屋で、私はスポーツドリンクとおにぎりを所望。正直、ここに来て、ヒトガタが作ったであろう、あるいは幻かもしれない食べ物を摂取することは、果たして体にとって悪い影響を及ぼすのではないか、そう勘繰ってしまう。だけど、現にお腹は空いているし、私がこれを食べることで体力維持に繋がる、そう肯定すれば、それは意のままのはず。絶対に諦めない事。私は真理さんからの言葉を強く噛みしめ、それを実践する。


 私はその店を出て、行き交うヒトガタの流れに倣おうとした。

 その時だった。

 ショルダーバッグの中にしまい込んでいたスマートフォンが、けたたましい程の着信音を轟かせた。マナーモードにしていたにも関わらず、それを突き破って、私のスマートフォンは雄叫びを上げる。その音に一斉に私に振り向く周囲のヒトガタたち。一糸乱れぬ眼差しで私を直視する。

『やばい……』

 私は慌てふためき、バッグの中のスマートフォンを止めようとしたが、敢えてそうせずに、素知らぬ顔でバッグの中に手を忍ばせた。

 奴らの刺さるような視線が、あまりにも痛かった。だけど、その痛みに飲まれてはいけない。私は大丈夫だ! そう信じ、徐にスマートフォンを取り出して、着信の番号を確認する。

 案の定、その番号はまるで文字化けしたかのように、意味不明な数字と記号の羅列だった。

 不快と不可解を感じ合わせながら、私は通話のボタンをタップした。

「もおし、もおし……」

 ヒトガタに倣い、私も緩慢な口調でその電話に応じる。だけど電話口からは何も聞こえない。でも、この電話は私にとって必要な電話のはず。私は今一度耳に強く押し当てた。

 すると案の定、あの甲高いノイズ音が、徐々に私の耳元に駆け寄ってきた。今やその音に、私は安堵さえ覚える。この音が聞こえるという事は、本当の現実に近づいている! きっとそうだ! 私はスマートフォンを握る手に力を込めて、今一度、耳元の音に集中した。

 やがて鼓膜を蹂躙するほどにその音は肥大化し、そしてその向こうに誰かの声が聞こえた気がした。私は更にその声に集中する。


『……む! ……って来てくれ! お願いだから、……って来てくれ! 僕が、僕が……った』

 ノイズ音を隔てた向こうから断片的に聞こえる声は、まるで懇願するかのように切羽詰まっていた。併せて深い悲しみと後悔、更には重く圧し掛かる『責任』を孕んでいた。そしてその責任には、私が関与している事を、私は無意識に感じ取った。


『お願いだから! 早妃! 帰って来てくれ!』

 激しく響くノイズ音を掻き分けて、その声は確かにそう言った。私はその声に、全てをかなぐり捨てる程の愛おしさと、寂しさと、そして懐かしさを覚えた。

『宗佑!』

 私は声が出そうになるのを必死に抑え込みながら、幻ではない最愛の人の名前を心の中で叫んだ。声質もトーンも、その柔らかさも、この世界の宗佑となんら変わりはない。だけど確実に違う、理想や都合合わせではない、それは本当に生きている、私が愛している本物の宗佑の声だった。なんの根拠もないけど、私の心と身体は初めてその事に合意した。

 その証拠に、一筋の涙が頬を伝って流れ落ちていった。

 「!」

 感動も束の間、私は自分に向けられた数多の目の数に、現実に引き戻された。

 いつの間にか、ヒトガタたちは私の前後左右に囲うように無数に集まり、皆一点に私の挙動に固唾を飲んでいた。パラボラアンテナのように旋回していた頭も固定され、まるで獲物を見つけた猫や豹のように、今か今かと飛びかかる瞬間を探しているようだった。更には徐々に歩を詰めて、じりじりとこちらに近寄ってきている。併せて彼らの肌の上を泳ぐ黒い点たちが、バケツの水をひっくり返したかのように、激しく踊り狂っている。更にそれらはぶるぶると振動をしたかと思うと、肥大してまた更に分裂をし、まさに増殖をしている。その様があまりにも気色悪くて、目を覆いたいほどだった。

 どうすればいい? このまま表情変えずに、緩やかに受け流せば事なきを得るのか、それとも一か八か彼らの緩慢さに賭けて、全力で逃げ切るか? いや、駄目だ! コンビニの先で遭遇したあの女性の二の舞になってしまう。だけど周囲とは違う動き、更には涙を流してしまった私は彼らにとっては異端者。しかも幻に生きていた時のようにこの世界に順応していないし、身体の中には意味不明な機械さえ埋め込まれている。私の心拍数の状況や居場所など、奴らには筒抜け……

 本当にどうすればいい?


 その時だった。

「え? ここ、どこ? どこなのよ! 何で誰も居ないの!」

 前方からヒステリックに叫ぶ女性の声が聞こえた。

「なに? なんなのよ、あんたたち! 気持ち悪い!」

 その声は半狂乱の様相を呈し、更には絶叫へと転化した。その悲痛な叫びに、私の目の前のヒトガタたちは、急遽身体を翻して、その方向へと駆けだした。私に集まっていた以上に、どこから湧いて出たのか分からない程に、そのヒトガタの群れは無数で、まさに満員電車の様相を呈していた。私はその量に唖然とした。更にはその人だかりを割って、黒いSUV車が何台も連なって爆走していく。大音量の走行音が私の耳と身体を蹂躙する。そしてきっと聞こえていたであろうその女性の叫び声は、車の駆動音と激しい急ブレーキ音によって搔き消され、私の耳元には届かなかった。

「助かった……」

 私は人知れず呟きながら、周囲に悟られないように、同様にその流れに沿いながら、目的地へと急いだ。

 きっと今の悲鳴は私と同じ境遇の女性のはず。新しく連れてこられて、この世界に馴染めなかったのか、或いは私と同様に最近になって現実に目覚めたのか、もはや知る由もない。

私にできる事は、心の奥底でただひたすら、その声の主の無事を祈る事と感謝のみ。

 

 数十メートル先はヒトガタのひとだかりと、玉突き事故に遭ったかのように連なる黒い車の列。ヒトガタはの車の屋根やボンネットをもよじ登り、最前列に倒れているであろう女性へと詰めかける。その様相はもはや獲物を見つけたゾンビのよう。更にはどこからともなく奴らは無数に現れ、その『餌』にたかり、群がった。先程まで私に向けられていた視線は、悲痛な叫び声の女性に、一斉に矛先を変えたようだ。

 私は視えてないフリを装い、すれ違いざまにわざと壁にぶつかって倒れ込んだ。案の定、当たり前のように誰も気付かない。そのままゆっくりと立上がっては壁にぶつかり、倒れてはぶつかりを繰り返しながら、徐々にその群れから遠ざかる。そして、音月荘への道のりを緩やかに急いだ。






「いらぁっしゃいまぁせぇ」

 辿り着いた音月荘ではなんと、女将らしい女性がわざわざ私を出迎えてくれた。その女性の無数の黒い点は鈍色の肌を泳ぎながら、その肌の色を人肌色に脈打たせる。それはあまりにも激しい明滅を繰り返し、肌色である錯覚を私の瞳に焼き付ける。更には瞳の無いその目は澱みの無い漆黒で、尚且つ何かを射抜くような鋭さがあった。その視線はまっすぐに私の目を見据え、こちらの心の内を探っているかのよう。私はその眼孔に一瞬躊躇するも、それを悟られないように、表情をこわばらせた。

「予約していた篠田です」

 気持ち緩やかにそう伝え、スマートフォンの予約画面を差し出す。

「ようこそおいでに。篠田様、浅葱の間でございますね。ご案内いたします」

 女将は緩やかではあるものの、私たちと変わらない速さで言葉を繰り出した。それにも私は耳を疑い、表情が崩れるのを歯を食いしばって堪えた。この女性は他のヒトガタとはレベルが違うようだ。そう言えばこんな視線、過去にも感じた事があったっけ。芳野さん、課長、精神科の先生からも、それに似た視線を受けた事があったような。とにかくは一時たりとも油断は禁物。私は前方を歩く女将の背中に警戒を強めた。


「こちらでございます。どうぞお入りください」

 開かれた襖の先には、既視感のある部屋があった。前回の宗佑と訪れた時に使った部屋ではなく、靄がかかった記憶の中にある部屋。私の直感は間違いではなかった。ここはきっと、現実の世界で利用したことがある部屋。

「ありがとうございます」

「ご夕食はいかがなさいますか? 夕方の六時ごろお出ししておりますが、もしご希望があればそちらに合わせますが」

「いえ、大丈夫です。その時間でお願いします」

「かしこまりました。そしたら失礼いたします。どうぞ、ごゆっくりおくつろぎくださいませ」

 女将は流暢にそう言うと、そっと襖を閉めて出ていった。

「はああ――」

 彼女の退出を確認すると、私は畳の上にへたり込んだ。目の前の視線から解放され、わずかに緊張感が和らぐ。だけどここで安易に安堵に浸れば、私の右耳と右足の金属片が何かを計測し、ヒトガタたちに送信されるはず。急激な感情の落差や喜怒哀楽、それさえも自粛して、あくまで平静に。よもや、何処かに監視カメラなんかも設置されているかも知れない。

私はそう考えると、落とした肩を上げて背筋を伸ばした。


「ここにはいつ来たんだろう」

 盗聴器も付けられているかも知れない。私はそっと囁きながら、部屋を見渡し、窓から見える景色を、前世と等しい記憶に重ね合わせた。

 その部屋からは洲崎湾が一望出来た。この旅館自体が海岸沿いに建てられており、洲崎湾は目と鼻の先。窓を開ければ、潮の香りが流れてきそうなほど。私は窓辺に腰かけて、そこから見える洲崎湾を注視した。

 今日の洲崎湾はいつもと様子が違った。太陽を水面に映し、キラキラと輝いている印象が強かったけど、今日の姿はまるで極寒の果ての絶海。底知れぬ深さと冷たさ、そして情け容赦ない威圧感が、海岸線の波打ち際にさえ押し寄せていた。それをずっと見ていると吸い込まれそうなほど。まるでその海原のど真ん中に叩き落とされ、四方を水平線に囲まれているような錯覚さえ覚える。

 私は目を逸らした。

『海』さえも私を監視しているようだ。その威圧感に、私は息が上がった。

「大丈夫……私は大丈夫……」

 聞こえるか聞こえないか程度の声で、自分に言い聞かせる。盗聴されているだろうけど、声に出さずにはいられなかった。

 その時だった。

 またもやけたたましい着信音で、スマートフォンが雄叫びをあげた。

 私は慌ててバッグから取り出し、通話をタップする。

 ジリジリと小さなノイズ音が散らばる電話の向こう。私はその先に潜む誰かの声に耳を傾けた。

『……る? ……らが初めて……』

 不安に怯えていた私を察したかのように、電話の先の声はさっきと同じ声で、張り詰めた心の糸にそっと寄り添った。

『……ってきたら、今度は一緒に……』

『焦らずに、ゆ……』

『このあいだ、帰りに……』

 大切な所は上手く聞き取れないけど、そう、その声はきっと現実世界の宗佑。私が帰ってくることを信じて、待ち続けてくれている彼の声。それは私を癒す以上に、この危機的状況の私に勇気と希望をもたらした。






 



気が付けば、私は真っ白な世界に居た。

上下左右、前後、その感覚が無い程に、その世界は何もない。感じる事はただただ塗り固められたような白。そこに何かあったはずなのに、それをなかった事のように帳消しにした白。私がその白に疑念を抱けば抱くほど、その白さは増し、そこにあったものへの記憶は遠ざかってゆく。そして、その疑念さえも抱かぬほどまでに、その白で塗り固められた後、私は目を開ける。そこは、初めて見るのに知っている、いつもの世界。いわゆる『日常』が、私を取り囲んでいた。少なからずその不可解さに戸惑いを覚えたが、またその白がその戸惑いさえも、私を塗り替えていく。それを幾何か繰り返し、私は目の前の『日常』を疑うことなく享受する。


だけど……


不意に訪れる不安と違和感。

私はこのままでいいのだろうか? 何かが違う……そう感じた矢先、私の視界の隅に現れ始めた黒い点。それは私に気付かれないように、視界の四隅を絶妙に泳ぎ回り、徐々に中心に向かって、浸触を続けていく。それに伴い、私の視界も灰色に濁りだす。

それに気づいた私は、その浸蝕を嫌悪し、そして拒んだ。


『これ以上近づかないで!』


 そう叫んだ刹那、私は再度目を開ける。

 今度は真っ暗闇の中、私は宙に浮かんでいるようだった。その不安定な浮遊感に、私は一瞬にして不安に包まれる。だけどまるで体に力が入らず、身動きもままならない。ゆらゆらと浮かぶその浮遊感に酔ってしまいそうだ。

 私はそれでもここが何処なのか、必死にその暗闇に目を凝らした。すると、目の前には岩肌らしきものが見えた。そして微かに鼻腔をなぞる潮の香り。さらに肌に纏わりつく湿気。

 ここはどこ?

 私は闇に慣れた目で周囲を見渡そうとしたが、思うように目と体が動かない。

 なんでよ!

 私は躍起になって、身体を動かそうとした。その時、誰かの手が私の背中をなぞった。私はそれに驚いて、動かそうとしていた身体が勢い余って反転した。



『ぎゃああああ!』



私は反転した勢いで、視界に飛び込んできた光景に絶叫した。

私が浮んでいるその下には、無数のヒトガタがまるで私を求めるようにして連なり、蠢き合っていた。それは人柱となり、遥か下方にまで連なりって皆、私に向かって他者を押しのけながら、よじ登っていた。そして皆一様に私に手を伸ばし、緩慢とは言え、その固執ぶりは鬼気迫る程。更に彼らの鈍色の身体に、黒い点が今まで以上に忙しなく泳ぎ回り、それはまるで孵化を迎える寸前の、巨大な蛙の卵を想起させた。


その不快感たるや、気を失うほどのおぞましさと、背筋を走る悪寒は凍てつくほどの勢い。


『いやあ!』


 私はそれを断固拒否した。

『嫌! 嫌! 絶対に嫌!』

 そしてその嫌悪感にさえ、私は既視感を覚えた。それは、宗佑と身体を重ねようとする際に私を苛めた、あの嫌悪感。あれはもう乗り越えたはず。そう振り返ると同時に、意味不名の激しい後悔が心と身体を貫いた。


『嫌……』

 そして私は本当に目を覚ました。

「はあ……夢、か……」

 目を覚ましたことに改めて安堵するも、極度の硬直状態だったようで、体中汗びっしょりになっていた。更には所在の分からない涙が頬を伝っていた。

 手に握りしめていたスマートフォンはとっくに充電が切れていた。慌てて充電器に繋げて、電源を押す。長押しの後、ゆっくりと息を吹き返すスマートフォン。

 私はその復活に、今一度胸を撫で下ろした。

 電話口の声にホッとして緊張の糸が揺らいだのか、夜通し起きていた身体も限界が来て、つい、眠ってしまっていたのだろう。スマートフォンを持ったまま、座ったまま寝落ちしていたようだ。余程疲れていたのだろう。だけど座ったまま寝ていたので、お尻に腰、首がそこそこ痛かった。

そして、何かを意図する夢。きっとヴェールに包まれていた記憶の欠片たちが、少しずつ息を吹き返し始めたのだろう。

 スマートフォンの時計は十七時四十分を過ぎていた。およそ四時間以上眠っていたことになる。ややもするとヒトガタが寝ている間に訪れたかも知れない。私は注意深く室内を見渡す。見る限りは部屋に入った時のまま。

「大丈夫……か……」

 私は微妙に痛む腰とお尻を持ち上げて立ち上がると、今一度外の洲崎湾に目を向けた。

 洲崎湾は申し訳程度の夕焼けを水面に宿し、少し早い夜の到来を予見させる。その光景には、今まで感じていた美しさや雄大さは微塵も感じられなかった。あからさまに張りぼての夕焼けに、それとは裏腹に無慈悲で凍てつく海が、そこに相対していた。

 さっきの夢は何を意味していたのか? 

 私は夢の内容を反芻した。

 全てを塗り替える程に真白な世界から、『日常』をかたどった世界。そして不安と違和感に包まれてからの、見るもおぞましい、ヒトガタたちの群れで作られた人柱の光景。

 まるで、今の私を象徴したかのような夢。これは正夢か? 本当の私は、あのヒトガタの上で不安に浮遊しているのか……そして鼻の奥にわずかに残る潮の香り。

 目の前には洲崎湾。

 私は悟った。この海岸に、その答えはあると。そして、その答えまであとわずか。

 奴らが眠りに就くのは深夜一時半過ぎ。その時間を狙って海岸沿いを探索してみれば……

 ここまでの道のりは間違っていない。そして、きっと本当の現実に帰れる、そう、今一度自分に言い聞かせた。


「篠田様、お夕飯をお持ち致しました。お部屋、失礼しますよ」

 私の決意に重ねるようにして、女将の声が襖の奥から聞こえてきた。

「はい、お願いします」

 私は何事も無かったかのように返事をし、彼女を部屋へと招き入れた。

 中居と思しき数名を引き連れ、女将は飯台の上に料理を並べていく。

「篠田様、こちらのお酒は当店からのサービスで、ぜひ、ご夕食と共にお楽しみくださいませ。あ、あと、備え付けの温泉もまだでしたら、ぜひご堪能下さいね。とろとろの泉質で、とても気持ちようございます。美肌効果もございます故。あ、それともう一つ、夜の海は危ないで、出歩かん方がええかと存じます。」

 早口とも取れる女将の喋り口に、私は警戒の念を強めた。敢えて早口でまくし立てる事で、こちらの反応を伺っている、そんな印象が拭えなかった。温泉に入っていない事も、深夜に海岸沿いに出ようという魂胆も、まるでお見通しと言わんばかりの牽制ぶり。私は敢えて無関心を貫き通し、それを受け流す。


「それでは、ごゆっくりどうぞ」

 そう言って女将たちは私の部屋を後にした。

 並べられた魚の活き作りや、炊き込みご飯にその他よく分からない料理。そして、どんと置かれた得体の知れない一升瓶。数日前ならそれらに喜んで飛びついただろう。だけど、今の私にはそれらはすべて腐ったように見えた。更には何かが盛られている、そうとしか考えられなかった。だけど、明日をも知れぬ我が身。この料理に一切手を付けなかったことで、明日以降、より一層奴らの監視が強くなることは必至。不幸中の幸いで、ここにこうして私が健在しているという事は、まだ少しばかりでも私の理想通りにこの世界は動くはず。

「大丈夫! ご飯だけは私に力を与えてくれる」

 そう呟くと、腐ったように見えていた料理が、徐々にその色合いを取り戻し、それなりに美味しく見え始めた。

「腹が減っては……」

 私は自分を鼓舞するようにして、飯台の前に着座した。





 深夜一時。

 無事にスマートフォンも充電が終わり、その液晶画面は煌々と真っ暗な室内に輝いた。

 食事を済ませた私は、そのまま電気を消して就寝を装った。サービスとして出された酒は、見るからにゼラチン状に近い液体で、無色透明に思えたけど、よくよく観察すると、微細な黒い点が蠢いているのが見て取れた。流石にそれを発見してしまった後は飲む気も消え去り、だけど減ってないと疑われるので、その半分をトイレに流して誤魔化した。更には備え付けの温泉も同様だった。まるでその酒を温めたかのようにほぼ固形状態の泉質に、そこにも活発に蠢く微細な黒い点が散見された。結果的にそれらで汗を流すよりも、自身の汗にまみれている方を私は選んだ。そして布団に潜り込み、何回もスマートフォンとにらめっこしながら、深夜一時半になるのを待ち続けた。

「まだか……」

 いい加減待ち続けるのが億劫になってきた。だけどこのまま外に飛び出たら、午前中に私の身代わりになった女性と同じ羽目になってしまう。全ては水の泡。焦る気持ちをしっかり押さえ込みながら、私はその時間が来るまで、布団の中で耐え忍んだ。




 そして……

「そろそろ大丈夫……かな……」

 液晶画面に照らされた時間は、深夜一時四十三分。

 満を持して、私はそっと布団の中から起き上がった。そして音を立てないように襖を開け、廊下に繋がるドアに手を掛ける。

 その手に極度の緊張が走る。このドアを開けた先には何が待ち構えているか分からない。

ややもするとあの女将が、ドアの前に立ちはだかっているかも知れない。

「大丈夫、誰も居ない……」

そう呟き、ドアノブを回し、ドアをそっと開けた。そこには誰もおらず、昼間見た廊下と他の客室のドアがあるだけだった。一度胸を撫で下ろし、私はすり抜けるように廊下に飛び出した。

勿論廊下も真っ暗で、物音ひとつしなかった。これならいけそうだ! 私は密かにガッツポーズを取ると、そのまま忍び足で廊下をロビーに向けて歩き出した。

この廊下を突き抜けて、右に曲がればロビー、そして玄関に辿り着くはず。私は慎重に、慎重に歩を進める。客室エリアを抜け、右に曲がる。左右に土産物の売店コーナーが立ち並び、そこを抜けると大広間のロビー、そして玄関だ。はやる気持ちを抑えながら、周囲に目を配りながら、更に先に進む。

きっと奴らはシャットダウンの最中。誰もロビーにはおらず、非常灯も、ジュースの自動販売機さえも電源が消えていた。

奴らはいったい何者? 電気で動いている? 何故、この時間帯だけ動かなくなるのか? 考え出したらもうキリが無い。次から次へと疑問が湧いて出る。だけど、今はそんな場合じゃない。とにかく、彼らが寝静まっている間に、少しでも現実に戻る手掛かりを探すことが先決! 

私はロビーを抜け、玄関へと辿り着いた。そして施錠された自動ドアの鍵を開けようと、ドアの前に座り込んだ。その時だった。


「お客さん、こんな夜更けに何処へお出かけですか? 私、申しませんでしたっけ? 夜の海は出歩かん方がええって……」


 私は背後の声に、身体が固まった。そして意思とは裏腹に、身体はその声に振り返った。

「……」

 私は目の前の光景に凍り付いた。そしてこう思った。

『一巻の終わりだ……』

 と……



                                 つづく

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