鈍色の浸蝕者 第六話
第六話
深夜一時四十分を回った頃、私はそっと部屋を跳び出した。
寝室からリビングへ抜ける際、私はソファに横たわる宗佑の姿に一瞬だけ目を向けた。
変な怪電波を流していたテレビは消え、リビングは静寂に包まれている。
『今ならまだ引き返せる……』
本音を言えば、今日、目にしたものは幻覚だと笑い飛ばしたい。おかしかったのは私で、薬を飲んで安静にしておけば、また宗佑と幸せな日々を送れるはず。そんな儚い一縷の望みを賭けて、そっとソファを覗き込んだ。
「!」
私のささやかな希望は、ものの見事にそこで潰えた。
ソファに横たわっていた宗佑は、肌の色はセメントのようにツヤの無い鈍色にくすみ、表面を泳ぐ黒い点は眠っているかのように停滞していた。そして薄く開いた目は余すところなく真っ黒で、開けられたままの口はだらしなく涎を垂らしていた。その表情には感情が欠如していたが、苦悶に満ちた表情にも見て取れた。この宗佑に何かあったのか? だけど他人の心配をしているほどの余裕は、今の私には無い。
私はその現実に見切りを付けると、リビングを後にして外に飛び出した。
外に飛び出すと、その様相に私は再び緊張感を余儀なくされた。
街中全ての電気が落ちたように、街灯も部屋の灯りも全てが消され、周囲は暗闇と静寂に包み込まれていた。更には街中を歩いていたであろう数人の誰かも、まるで時間が止まったかのように、その場所で動かぬまま固まっていた。私が通り過ぎようとしても見向きもせず、奴らはそこで固まっている。と言うよりそれは、街の灯りと同様に電源を落とされ、急停止させられたかのような印象だ。
その現象が何を意味するのか分からない。だけど私はゆっくりと、焦り過ぎないように、岬ホテルを目指した。
辿り着いたホテルも同様に真っ暗で、入口の自動ドアも作動しなかった。私は手でドアを開けると、誰も居ない真っ暗なフロントを通り抜け、階段から目的の二〇三号室を目指した。
静寂の中に響く、私の階段を登る足音。私はそれに驚き、音を立てないようにそっとゆっくりと足を踏み上げた。
このホテルは築年数が長く、建物自体も老朽化の一途にある事は、この暗闇の中でも容易に感じ取れた。また、古い建物独特のカビ臭さがそれを助長する。更にはこの暗闇が一番、異様な雰囲気を醸し出していた事は言うまでもない。
私ははめていたマスクを、今一度しっかり整えて、この闇に飲み込まれないように、もう一度浅く深呼吸を繰り返した。
二階に上がると暗闇の中を壁伝いに目を凝らし、一部屋ずつ番号を確認していく。
「あった……二○三……」
そして見つけた二〇三号室。
この扉の向こうにはいったい誰が待っているのか、そしてこの後私はどうなってしまうのか、尽きない不安で胸は一杯。ややもするとこの扉を開ければ、最悪、私は死ぬのかもしれない。死なないにしても拉致され、非業な扱いを受けるのかも知れない。だけど、それを差し置いても、この状況に納得のいく説明が欲しかった。そしてわずかでもいい、『普通』に戻る為の手立て、今の私にはそれらが必要だった。考えうるリスクに足止めされるわけにはいかない。
「ふうーー!」
深呼吸で息を整える。手のひらに滲む、不穏な汗をデニムに擦り付けた後、私は覚悟を決めて、その扉をノックした。
誰も出てこない。
『あれ? 誰も居ない?』
私は再度、少しだけ強くノックする。
『もしかしてイタズラ? いや、そんな訳がある筈もない!』
私は心の中でそう呟くと、今一度ドアを強くノックした。と同時に、その扉は徐に開かれた。暗闇の中に開く、もう一つの暗闇への入口。私はその常闇に目を凝らす。
「何をしてるの? 早く入って!」
この状況に順応する前に、暗闇の中から急かすような囁きが聞こえた。私は二の足を踏んでいたが、思い切ってその暗闇に飛び込んだ。
そして音を軋ませながらゆっくりと閉められるドアに、私は今以上の警戒と覚悟を決めるのだった。
「驚かせてごめんなさい。あなたとまともに接触するためには、この方法しかなかったの」
暗闇の中から、囁くように謝罪する声が聞こえた。真っ暗な中、足下さえおぼつかず、その声の主を認識できず、私は答えに窮した。程なくして蠟燭の仄かな光が灯り、その声の主の姿が、暗闇の中に浮かび上がった。私はその顔を見て、ハッとした。
「あ、あなたは……」
暗闇の中に現れたのは、今日の夕方にすれ違った、人の肌の色をしたあの女性だった。
彼女の名前は鷲巣真理。
全く私と同じ境遇で、自身の置かれた状況に苦しみ続けていたらしい。その結果、この現在(いま)』に彼女なりの答えを見出したという。
その答えの一つとして、彼女はこの世界のウイークポイントを発見する。それは深夜一時半ごろから未明の四時過ぎくらいまで、鈍色の奴らは活動を停止するという事。まさにそれは一斉にシャットダウンとなり、皆それぞれの場所で固まってしまうらしい。そしてその日経験したことをデータとして書き換えて後、四時過ぎから再起動を果たすという。
ここまでたどり着くまでに目にした、時の止まった人たちはそれにあたるのか? でも、そう考えればあの異様な光景に説明がつくのも確か。そのおかげで無理なくこのホテルにも忍び込めた。それ故にこんな時間に呼び出したのだと、私は理解した。
話の内容に、夕方彼女に感じたシンパシーが本物であったこともあり、私は少なからず安堵を覚えた。そして張り詰めていた緊張と警戒が、少しだけ緩むのを感じるのだった。だけど、その後の真理さんが見出したそれ以外の答えに、私は息を飲む……
「変なメール、何度もごめんなさいね。ああいう方法でしか、あなたに連絡を取る手段が無かったの。でも気付いてくれたという事は、あなたもこの世界に疑問を感じてるっていう証拠よね?」
儚い灯火の先で、彼女の声が静かにこだまする。彼女の話では、長文であったり、詳細な内容を問うようなメッセージは送信した時点で、奴らに排除、そして逆探知までされてしまうという。更には一日に同じ相手に何度も送信することも、奴らに怪しまれる要因になるという。その為に、私へのメッセージは多くても一日に一回が限度だったという。そして更に、送信先の相手が『現在』に満足している時点では、そのメッセージに気付きにくく、逆に疑問を覚えた時点で初めて、その着信に気付くことが殆どらしい。
「はい……」
私もわずかな灯火の中で頷いた。
「真理さん、ここは、どこなんですか? 今、何がどうなってるんですか? 私、おかしくないですよね?」
彼女に聞きたいことは山のようにあった。だけど、どこからどう聞いていいか分からず、、支離滅裂な質問になってしまう
「ここがどこかは私にも分からない。でも、今、私たちが居るこの世界は現実じゃない、きっとここは私たちの記憶を模倣して作られた仮想の世界。更には私たちに理想の世界を見せて骨抜きにしようとしてる。でもその全てはまやかし。あなたもそれに、薄々感じていたんじゃない?」
真理さんは蝋燭の向こうで囁くように私に語り掛ける。
「確かに、自分が望んだように物事が進み過ぎてると感じてました。こうだったらいいな、とか思うようなことまで先回りして、いろんなことが好転していたように思います」
「私もそうだった。私の場合、持病が治ってて、どんどん身体が元気になって、物凄く嬉しかった……」
そう囁く真理さんの顔が、わずかな灯りの中でも物凄く儚く見えた。
「あと、この世界に居る、鈍色の人って何なんですか? 急にそんな人ばかりが周囲に溢れて……しまいには知人もそんな風になってしまって……それに添付されていた私の写真……あれはいったい何を意味するんですか?」
遮るように私は彼女に質問をぶつける。その中で私は宗佑の事を『知人』と濁した。現時点で、ほぼ七割ほど真理さんの事を信用していたが、『宗佑』の存在に関しては、敢えて濁してしまった。大切なものに触れられたくない、或いは最愛の人を『知人』と敢えて言うことで、宗佑の存在を『過去』にしようとしているのか、私自身よく分からなかった。
「分からない……でも、私たちが現実だと思っていた隣人も、結果的に鈍色の肌の奴ら、私は奴らを『ヒトガタ』と呼んでいるわ、で、それも奴らが成り済ましていたんだと思う。あの写真、ごめんなさいね、勝手に撮っちゃって……で、あなたがヒトガタと楽しく談笑している写真も、当時のあなたには普通の友人に見えてたけど、実際はヒトガタが成り済ましていただけ……だからこの写真を撮った時も、あなたは幸せの渦中にいて、私の存在には見向きもしなかった。結構近くに居たのよ。でもあなたはきっと気付くはずだと信じて待ち続けたわ」
「ごめんなさい……でも、私の事をどこで知ったんですか?」
更に私は質問をぶつける。
「あなたがここに落ちてきた時、一斉にあの黒い車が街中に増えたの。私はその車たちをそっと追いかけたわ。その先に出くわしたのは、洲崎湾の海岸沿いに乗り捨てられたワゴン車。そこからあなたがヒトガタに連れ去られるのを目撃したの。夢中で写真を撮り続けたけど、唯一そのワゴン車が写っていたのは、あなたに送った写真のみ。あのワゴン車は現実世界のものが、こちらに映り込んだだけ。ものの数分で跡形も無く消え去っていったわ。事の詳細は分からないけど、あなたのこの世界への入口は、きっとあの場所。あそこには写真で送った一軒の旅館があって、現実世界ではあの旅館を利用したんじゃないかしら? そこから私はずっとあなたを探し続けていたわ。そんな中、私はSNSであなたを見つけたの。この世界ではインターネットも模倣されてて、閲覧できるようになってるわ。その中でストーリーや動画を上げるのは、私たち人間でしかない。何も表示されていなかったフィードに突如現れたのがあなた。そこから私はあなたの住んでいる場所を大まかに探って、絶えずSNSでメッセージを送り続けていたの」
彼女の囁きはいつしか熱弁の様相を呈し、蝋燭の灯りも彼女の吐息にゆらゆらと揺らめいていた。
ワゴン車も旅館も、確かに目に覚えがあった。しかしそれは『記憶』には至らない。そこは靄がかかっており、それは今の段階では晴れそうになかった。
「そうだったんですね……気付くのが遅くなってすみません……」
「気にしないで……」
「でも、そのヒトガタって、何の目的で私たちを?」
「これは私の推測だけど、きっと私たちは何かの実験材料として捕らえられ、ここに閉じ込められているんだと思うの。私たちはこの世界で飼い馴らされ、絶えず何かの情報を抜き取られている……そんな気がするわ。現に私たちは右耳のすぐ下と、右足のくるぶしに金属片が埋め込まれてて、そこからきっと色んな情報が、奴らに流れているはず。位置情報もきっと彼らには筒抜けで、感情の高ぶりや体調の変化とかも、つぶさに記録されていると思う」
そう言って彼女は蝋燭を床に置くと、履いていたスニーカーを脱いで、右足のくるぶしを出して見せた。
「きゃ!」
私はそれを見て目を覆った。彼女のくるぶしの下には、激しい切り傷が無数にあった。しかし、そのくるぶしの下は少し盛り上がったまま……きっとその傷は金属片を取り出そうと試みた為のものだろう。その傷跡に彼女の今までの苦痛と哀しみが垣間見えた気がした。そして忘れてはいけないのは、そのふくらみは私にもあるということ、私も当事者。その痛みは他人事ではない。私はそっと右耳の後ろに手を当てた。そこには変わらず異物の硬い感触と、膨らみがあった。その感触に私は溜め息をついた。
「ごめんなさい。変なもの見せて……でもこうやって奴らはずっと私たちを監視し、現実に気付かないように常に裏で動いているの。また奴らは食事や薬、私たちが摂取するもの殆どに、このまやかしを持続させる薬剤を混入しているの。人によってはそれが上手く順応する場合もあるけど、私たちはそれに順応できなかった。きっと私もあなたも、激しい頭痛と吐き気に悩まされてたはず。その拒否反応の末、私たちは薬剤が見せていた幻から目を覚まし、自分たちがヒトガタと一緒に生活を送っていたことに気付く。だからあの緩慢な動きや肌の色に、目覚めて初めて私たちは気づかされるの。そして奴らは、その現実に気付いた私たち人間を容赦なく消し去るか、或いは私たちをもっと過酷な環境へ送り出そうとするわ。あなたも見たでしょ? あの黒い車。あれは私たちを処刑か拉致をする為の車……」
「そんな……」
真理さんの説明に私は今更ながら驚嘆する。それらは私の感じていた疑問に対して、溜飲の下がる説明だった。それに整合性を感じつつも、私は納得まではたどり着けずにいた。勿論、彼女の話の全ては憶測。だけど、それには自我を殺しながらも、壊れることなく貫き通してきた、彼女なりの経験による説得力があった。何一つ確実な情報が無い中、彼女の経験は何よりも生きた情報。彼女の発言は信じたくないことばかりだけど、私には今、それを信じる他、術はない。
「それから早妃さん」
「はい」
「夕方伝えた九月十九日って覚えてる?」
「言われたのは覚えてます。だけどその日が何の日なのか、さっぱり分からなくて……」
「じゃあ、その日の事、若しくはそれ以前の記憶って残ってる? 貴方の中で一番古い思いでを聞かせてくれない? あと、子供の頃や家族、友人とか、数年前の記憶とか 」
なんだ、そんな事……
そうタカを括って記憶の糸を手繰り寄せる……
「え? 嘘……ちょっと待ってください……」
そう言ったものの、私は焦った。
思い出せない……
ここ一か月そこそこの過去の記憶は残っているけど、それ以前の記憶に丸ごと靄が掛かっているようで、何一つ思い出せなかった。
「そう……私たちの記憶も奴らに操作されてる。もしかすると私たち自身も『本物』ではないのかもしれない。ただ確実に言える事は、その日を境にして、それ以前の記憶が無いということ。あなたがここに来たのは、私の覚えてる限りでは九月二十日。だからその前日、九月十九日にあなたの身に何かが起きたはず。そして今、幸か不幸か、私たちは現実に気付き始めた。それは何かの予兆かもしれない。『身体』が『現在』を拒否しているという事は、きっと『本物』の自分が目覚めようとしている、私はそう信じたいの。だから……」
そう言って真理さんは言葉を詰まらせた。
「だから? どうしたんです? 真理さん」
「ごめんなさい……だから、幻聴だと思っていた誰かの声を聴き逃さないで。それがきっと本当の自分への命綱になるの。その声に耳を傾ける事で、徐々に、断片的にだけど遮断されていた過去が戻ってくるから……」
真理さんの声は震えていた。何かを堪えるかのように、気持ちを声で蓋をしているかのようだった。私はその震えに言及すべきか戸惑った。
「聞こえなくなったらそれで終わり……」
「え?」
「実際にどうかは分からないけど、聞こえなくなった時点で本当の現実には戻れない……」
真理さんの表情が曇った。たたでさえ疲れ、やつれているのに、明暗著しい薄明りの中でその曇りはさらに彼女の顔に影を落とした。
「私、どうしたらいいですか?」
私は努めてその声に力を込めた。
「あなたが落ちた場所は洲崎湾の近く。そこにヒントは隠されてるはず。この後すぐにでも、洲崎湾へ向かって。そして幻聴や幻覚、体調の変化は恐怖じゃない。本当の現実に戻る為の近道で道標。怖がらないで受け入れて。現実に気付いた今なら、その異変があなたの背中を押してくれる筈」
そう言う真理さんの顔に、少しだけ兆しが見えた気がした。
そして私も、この現実から抜け出して、本当の現実、本当の自分に戻る事を心に決めるのだった。具体的な策や根拠など何もない。真理さんが教えてくれた事全てを理解したとも言い難い。だけど、そう思わざるを得なかった。現実に戻れる、そう信じる事のみが現在の突破口。
私は私に戻って、本物の人生を取り戻す!
そして本物の宗佑と本当の幸せを掴むんだ!
私はそう、自分に誓うのだった。
つづく
