砂を数える(1975-1990)

群衆を撮るとき意識したことは、広角レンズで自分の視野を超えるフレーミング、自分が意識的に見ている以外のものがどのように目の前で展開しているか。単に対象として群衆を撮るのではなく、自分の視覚認知を越える対象の複雑な世界をカメラに記録させるということ、それを通して人間の視覚認識の限界を示すことが「砂を数える」のテーマでした。

「砂を数える」の場合、フレーミングの中のある一点を凝視することをいかに避けるか、ということが方法論として大事でした。フレームの中で起きていること全体を「点」ではなく「面」として見る。面全体として蠢いている群衆を、群衆の塊が崩れるまで撮り続ける、ということを繰り返していました。それはわりと一瞬の出来事です。 同時に、被写体にカメラである「私の存在」を無視させる、ということに腐心しました。目の前にいる私のカメラを誰も見なくなるまで撮り続ける。被写体にカメラを意識させないということは重要なことで、幸いにも私は身体が質量的に小さく威圧感がないので、相手を圧迫することはなかったと思います。

群衆の誰一人としてカメラに意識を払っていない(無視できるものとしてカメラを認識)、そのような写真が撮れると良いですね。スナップショットの醍醐味は、撮っている写真家そのものが透明人間になれた時です。ノーファインダーという方法は、撮影する者の存在を意識させないという点では有効な方法ではありますが、対象を構造的に掴むための方法としては欠陥が多すぎます。理想とするのは、ファインダーを覗きながら、撮る者が透明人間になることです。 (現在におけるスナップショットの困難さは、また別問題です)

意味を消す。ということを敢えてやってきました。写っている状況の読み取りが容易ではない、どう解釈して良いかわからないイメージに人は不安を感じますが、そこからさらに読み取ろうとする動機を誘発させるような手がかりは画面の随所にあります。そこで、人間の日常における目的の見えない行為やしぐさの意味を超えた不可解さというものを改めて認識することになります。目の前の現実に現れているものは、常に不条理なのですから。

写真を続けてきた中で最も重視してきたことは、カメラという無機的で人間の主体とは切り離された存在が作り出す映像の面白さと、そこから新しい意識の発見があることです。写ったものが必ずしも撮影者の意思や意図を反映するものではなく、時に乖離し、予想を裏切り思いも寄らない面白いものが構造的に映る。対象への理解や解釈の範疇を超えたもの、時にそれこそが対象の真実や本質を映し出すものでもあります。 人間(撮影者)の硬直した主体的な思考をどこかで裏切り、自分の意識を超えた新たな発見をさせてくれる。新たな発見とは即ち「自分の意識の拡張」。カメラが発見し写し出した複数の写真を、構造化し作品化していくことこそが、写真家に問われる資質であると考えています。 このことに最初に気づいたのは1970年代半ばの「俗神」から「砂を数える」に移行していく段階にて。写真家と被写体が一対一で自己表現を集積させていくような「俗神」のスタンスを迷いなく捨てられたのは、それらを直観的に確信したところが大きいと思います。
