ヒロシマ・コレクション(1986-)① Hiroshima Collection
写真と文字との関係については、映像を作る人間として常に考えてきたことですが、特に1982年から現在まで継続している〈ヒロシマ・コレクション〉シリーズにおいてテキストの存在はとても重要なのです。

ワンピース 寄贈:2005年11月15日/寄贈者:髙瀬二葉(本人)(旧姓:三戸)/690×980 mm 三戸二葉さん(当時18歳)は、7月26日に東京から広島に疎開。母・節子さん(当時38歳)と妹・かすみさん(当時15歳)と三人共に大手町五丁目の自宅(爆心地から1,100m)で被爆。倒壊した自宅から脱出。母・節子さんは9月1日に敗血症で死亡。二葉さん、かすみさん共に原爆症で苦しむが後に回復。このワンピースは、二葉さんが被爆当日着ていたもの。節子さんが二葉さんのために縫ったもので、母の形見として大切にしていた。
写真は現在しか写りません。80年前(1945年8月6日)の過去の現象を、現在に写すことはできません。一方、言葉は、現在はもちろん、過去でも未来でも自在に表現することが可能です。写真だけで過去を表現しようとする方法論は、個人的印象や曖昧な記憶といったものに陥る可能性が高く、より正確でリアリティ(現在性)を持った「ヒロシマ」の表現を目指すにおいて適切ではないと判断しました。 写真と文字を並列し、現在と過去を一つの作品の中で同時に提示する。1982年に確信し実行したこの方法論は、2024年の直近の撮影においても変化なく、一貫しています。

ワンピース 寄贈:1974年1月30日/寄贈者:小川リツ(小川節子さんの母親)/570×820mm 小川節子さん(当時21歳)は第五師団司令部(爆心地から790m)で朝の体操中に被爆。縮景園に逃げたが、火の勢いを避け京橋川に浸っているところを兵隊に助けられ、師団司令部に収容された。9日、似島に転送されたが、11日に死亡。この絹のワンピースは、上着とモンペの下に着けていたもの。
写真と文字の併用で可能になるのは、撮影における脱表現・非演出の徹底です。ヒロシマの被爆資料の表現において、陰影や傷跡を強調することで悲劇性を演出したり、情緒的なイメージ操作を誘発することは避けるべきと判断し、撮影においては私的感情を排除、ありのままの「日常のかたち」を重視し、即物的に鮮明に写すことに注力しています。 なぜなら、1945年当時の「日常のかたち」は、現在の我々の日常につながる記号性を共有しているからです。「昔の誰かのワンピース」ではなく、現在を生きる我々自身の、あるいは家族の持っているワンピースというように。 アングルは基本的に俯瞰、より記号性を写し取ることができる構図です。2000年以前は4x5、以降はデジタル撮影ですが、方法論は1982年から現在まで全く変えていません。 40年前に確信し実行したことが今でも、今だからこそ一層の有効性と現在性を持ち得ていると自負しています。

弁当箱 寄贈:1970年6月25日/寄贈者:渡辺茂(渡辺玲子さんの父親)/165×30×110mm 渡辺玲子さん(当時市立第一高等女学校1年・12歳)は学徒動員として中島町(爆心地から550m)で建物疎開作業中に被爆。翌7日、遺体やガレキの散乱する作業現場から姉の桂子さんが見つけたもの。ぶんどう豆の煮物に白米という当時にしては贅沢な弁当だが完全に炭化している。遺体は行方不明。
写真と文字の関係性は当初から最も重要なコンセプトです(1984年「アサヒカメラ増刊 Hiroshima」で重森弘淹が言及)。テキスト制作については、資料とともに保存されているデータを何度も読み込みます。寄贈者ー本人や家族が多いがそうでない場合もーが資料を寄贈する際に聞き取りなどがなされたものです。所蔵資料の来歴や背景は多様で、記録が全くないものから、2000字を超える説明文がついているものまで、様々な背景と経緯があります。私の場合は、写真と同時に認識できる文字数300字を目安に、作品に入れるべき内容と削る部分を繰り返し精査し、推敲を重ねます。テキスト制作はなかなか困難な作業で、写真と同等の時間をかけています。この作業も1982年から一貫しており、私自身が行うことが大切だと思っています。 重要なのが、タイトルの下にある1行のデータです。「いつ、誰が寄贈したか」資料と寄贈者との関係性、子供の遺品を親が寄贈するケース、その逆など、この1行だけでヒロシマにおいて被爆者に降りかかった大状況が見えてくるはずです。被爆から60年、70年後に寄贈されているものも多くあります。二代、三代とそれぞれの家で守られてきた形見が、世代交代などにより、寄贈されるケースが増えているのです。寄贈件数の推移など、そこから見えてくるものもおそらくあるはずだと、改めて調べてみたいと考えています。

人形 寄贈:2014年9月3日/寄贈者:濱田良子(濱田満子さんの妹)/25×65×5mm 寄贈者の姉・濱田満子さん(中学校1年生・当時13歳)は、動員学徒として鶴見橋西詰の建物疎開作業現場(爆心地から1,500m)で被爆。翌7日、父・良一さんと母・ミヨノさんは満子さんを探しに入市、大やけどの満子さんを二葉山で見つけ、8日に帰宅。満子さんは自分の容体を察し、「私が死んだら、おかあちゃんをみる人がおらんようになるねえ」と話した。満子さんは、髪が抜け、19日午前死亡。小町で被爆した兄・才さん(当時17歳)も同日午後死亡。その後ミヨノさんは2003年に98歳で亡くなるまで、朝晩の読経を欠かさず、この遺品を大切に守り続けた。
〈ヒロシマ・コレクション〉1982年の撮影時から、象徴的な衣類だけではなく身近な台所用品や日用品などを撮影しましたが、直近2023-24年の撮影では、家庭内にある些細な日用品や玩具などを意識的に選択しました。戦渦の悲惨な状況だけをクローズアップするのではなく、原爆投下によって日常の細部に至るまでの人々の生活が一瞬で破壊されたこと、日常が停止したことを表現するためです。そういった小さな日用品、生活用品を数多く並列させることで、人々の生活の奥深いところまで原爆の被害が及んでいることを示します。
