新・砂を数える(1996-2002)

1996年頃から開始した〈新・砂を数える〉は、「写真とフェイク」をテーマにしたシリーズです。
1989年、昭和天皇の崩御と美空ひばりの死に際して現れた群衆の姿に一つの時代の終わりを実感し、前作〈砂を数える〉を完結。カラーによる続編は、バブル経済の崩壊とともに急速にバーチャル化する状況の中で日本人の「群れ」の型の変容に着目しています。
カメラは前作よりも引いた距離から「一つのベクトルの方向へ動くことのなくなった群れ、互いに距離をとって群れる姿」を捉えています。また、来たるべきデジタル社会とフェイク事象の氾濫を予測するかの如く、自らの姿を被写体として画像の中に合成し、現実よりも彩度を上げるなどのデジタル処理を施しています。当時圧倒的に力を持っていたメディアであるテレビの色彩体験に近づけたのです。
先見の明があったと自負していますが、発表当時は単なる色遊びや合成遊びと捉えられてしまった感はあります。来年、このシリーズを改めて見るための機会を準備しています。
この写真は1997年、横浜・こどもの国で撮影。このシチュエーションを通して、日本人の「群れ」の姿が、拡散した形になっていることを確信しシリーズを継続することになります。「新・砂を数える」の起点となった一枚です。

合成に関しての補足。
写真は、銀塩時代からも嘘をつくことが多くありました。本来、表現美学的には写真=事実という関係性はありえません。その「写真=事実」の関係性は、デジタルによっていよいよ成立しなくなっています。そんな21世紀の今を表現したく、色彩効果や自分を合成して、「嘘」であるかもしれないことを前提に作品制作しています。
しかし、それでも写真という形式であることで、これまでの学習経験がもたらす認知が働き、写されたものが現実にあった事実だと見えてしまったりします。
〈新・砂を数える〉は、群れの問題と共にデジタルデータがもたらしている前述の「写真表現の現在」を思考しようとした作業なのです。自分の姿の合成は、戯れからおこなっているのではありませんし、色彩調整のビジュアル効果を期待している訳でもありません。2000年頃の作品ですが、方法論は今もなお有効だと思います。

撮影は6x7のネガ/ポジカラー、フィルムスキャンしたデジタルデータに、色調整や合成を施しています。2000年当時は、まだデジタルカメラの解像度が良くなかったためこの方法を採用しました。 そして私自身がこの写真の中にいます。写真を撮っているのは私で、当然私自身の姿は写りません。しかしこの写真の中に、カメラを構えた私が群衆の一人として存在する。この決定的な矛盾ーー現実と写真の決定的差異。写真に写るイメージは、現実の視覚認識に非常に近いですが現実ではない。「現実に近い」写真という形式であることがそのフェイク性に気づくことをより困難にしているということです。まさに現代のAIやフェイク画像の問題に通じるテーマです。

この夏、大阪で「新・砂を数える」の写真展を開催します。 現在東京でも展示中のこの一枚は、8月6日、広島平和記念資料館の屋上から撮影。 実際は屋上にいた私ですが、もう一人、画面右手奥に立つ、小さな私がいます。このシリーズには、 其々の写真に自分自身の姿を合成しています。つまり、写っている事実はフェイク(Fake)なのです。 2000年に至り、デジタル技術は、写真はもはやFakeであることを、いよいよ自明に示すことになりました。そして現在、写真はさらにFakeの側面を肥大させています。それが2000年初めに発表した「新・砂を数える」の大きなテーマです。20年以上前に発表したこのシリーズが今、新たなリアリティを持つことを期待します。

新・砂を数える
1989年、世界の東西は雪解し、その急激な政治的変化はベルリンの壁を崩壊させた。日本でも天皇の崩御、世俗的には美空ひばりの死が昭和の終焉を表象した年。私は、それまで都市に現れていた群衆の風景を時代の表象として〈砂を数える〉(注1)と題し、撮影(1975-1990)を続けていたが、この世紀末に一つの時代の終わりを予感。その後のバブル経済の崩壊。前世紀末の蒸気機関の革命と対応するかのように登場してきたデジタル革命による時代が急速に変容する大状況の中で、日本人の群れの集団的カタチが急激に変容し、散分的に風景化してきたことに着目し〈新・砂を数える〉と題しその状況の撮影を加速した。さらに、カメラの背後にいて画面上には存在するはずのない撮影者の私を、その画面上に潜入加工した。現実の記録に虚構な像を重ねあわせるという、反写真美学的冒涜をも試みている。それでも、現れるイメージは、基本的な「写真」という遠近法の美学的構造を持たせることで、真実の仮象として受容されることになる。
写真は、銀塩時代からも嘘をつくことが多くあった。本来、表現美学的には写真=事実という関係性はありえない。その「写真=事実」の関係性は、デジタルによっていよいよ脆弱性を増している。〈新・砂を数える〉は、群れの問題と共にデジタルデータがもたらしている前述の「写真表現の現在」を思考しようとした作業である。2000年に至り、デジタル技術は、写真は必ずしも真実を語るものではないことをいよいよ自明に示すことになった。そして現在、写真はさらにそのフェイクの側面を肥大させてきている。その事象の表現が2000年初めに発表した〈新・砂を数える〉のテーマであったが、20年以上前に発表したこのシリーズが今もなおリアリティを持っていることを期待する。
今回の展覧会のために、私のみならず、多くの方々に作品の中に自身の姿を合成させることに協力いただいた。訪ねたこともない風景の中にいる誰かや自分自身を眺める時、不思議な違和感を覚えることでしょう。映像の欺きと錯覚がもたらす心地良さを、この〈新・砂を数える〉の作品で体験いただけますと幸いです。 (土田ヒロミ)
※(注1)砂を数える
1970年から5年ほどの期間、初期代表作「俗神」に集中した後、次に1970年代中ごろから1990年までの期間、都市の中の群衆に焦点を絞って撮り纏めたシリーズ。
高度成長期に人が集まる典型的な場所として、ハレの休日の街の雑踏やプール、初詣、花見、デモなどに人々が群れて行動している情景を「砂を数える」と題して撮影を繰り返していた。地方から東京に移り住み、都市化していく自らの存在を相対化する検証の試みでもあった。タイトルの「砂を数える」は、西洋にあって、それは空の星を数えることを指し、科学の無限への挑戦を意味し、東洋にあっては、ガンジス川岸辺の砂を数えることを指し、人間の認識を超える無限で計り知れない認知行為を意味する比喩的表現。
〈新・砂を数える〉
