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⑥:僕の今日は、母が生きたかった未来。


カンボジアでの時間が終わり、アメリカへ。
短期ではあったが、Dr.本間氏から「タッチフォーヘルス」を学んだ。
“体と心はひとつ”──
その言葉の意味が、少しずつ自分の中で深まっていった。

帰国後、リゾートバイト先に戻った。
夏が始まる7月初旬。
中学生の頃、「いつかやってみたい」と思っていたホテルの仕事。
今、その現場に立っていた。

一流のニューオータニホテル。
結婚式、ディナーショー、年末年始のサービス。
多くの人の“特別な時間”を支える現場で、
人と関わる喜びを学んだ。

そして、出会いがあった。
韓国の大学でフランス語を専攻していた彼女。
なぜか日本語のゼミを受け、研修という形で4人が来日していた。
その中のひとりが、のちに妻となる人だった。

アメリカ帰国後、最初の仕事のパートナーが彼女。
第一印象はあまり良くなかったらしい。
「細かい」「何がアメリカ帰りなの?」と思っていたそうだ(笑)

けれど一緒に働くうちに、
お互いの“真面目さ”と“思いやり”が通じ合っていった。

研修を終え、彼女は韓国へ帰国。
それからはメールや電話で近況を伝え合っていた。

そんなある日、父から一本の電話がかかってきた。
「母さんが、癌かもしれない。」

電話越しの声には、焦りと悲しみ、
そしてどこか頼るような弱さがあった。
受話器を握る手が震えた。
頭の中が真っ白になった。

迷わなかった。
1〜2週間で仕事を辞め、荷物をまとめ、鹿児島に帰った。

鹿児島に帰った私は、
日中は母の病院の付き添い。
何もない日は、個人事業主としてボディケアサロンをしていた。
ただ、母の病状が進むにつれ、
日中は付き添い、深夜にアルバイトをしながら
母との時間を大切にしていた。

いまだから言えるが、
この時、父親も大腸癌が見つかり手術をしていた。
同じタイミングで両親が癌になり、
高校生の妹と二人で「これからどうしようか」と
何度も話し合ったのを覚えている。

母は、それから3年近く頑張ってくれた。
その間に、東日本大震災が起きた。
テレビの報道を見ながら、母はこう言った。

「私は癌できついけど、震災で亡くなった方は本当につらい。
私はまだ命をいただいている。」

その言葉を聞いたとき、
命をどう生きるかを母はすでに理解していたのだと思った。
看護師として多くの“最期”を見てきた母。
ホスピスに行く意味も理解していた。

それでも、最後まで命を楽しんでいた。
「レモン味のアイスBOXが食べたい」
「胡桃パンが食べたい」
と、穏やかな笑顔で言う母に、
私は街を走って買いに行った。

胡桃パンを小さくちぎって渡すと、
「小さい!(笑)」と笑った。
その笑顔を、今でもはっきり覚えている。

そして、最期の夜。
チアノーゼの出た母の足をひたすら揉んだ。
揉めば血色が戻る。止めるとチアノーゼが広がる。
私はこの手を止めたら、
母にもう会えなくなるような気がして、
涙をこらえながら揉み続けた。

──癒しは技術じゃなく、心だ。

今まで学んできたことが、
すべてこの瞬間につながっているように思えた。
“癒す”とは、命を想うこと。
その夜が、私の人生の答え合わせだった。

翌朝、7月3日。
外は土砂降りの雨。
母は静かに息を引き取った。

7月3日の雨が、悲しみの雨なのか。
母が泣いているのか。
その時は分からなかった。

葬儀には、当時付き合っていた彼女も来てくれた。
その日、初めて父と顔を合わせた。
母の遺影を見つめながら、
“出会いと別れ”がひとつにつながっていくのを感じた。

不思議なことに、火葬を終えたあと、
頭や心の奥がスーッと軽くなった。
それは悲しみが消えたわけではなく、
母がちゃんと旅立ったことを、
体が静かに理解した瞬間だったのかもしれない。

あれから4年。
その年の7月3日は、初めて晴れた。

その青空を見上げた瞬間、ふと思った。
──私たちが生きている今日は、
 生きたかった誰かの1日かもしれない。

母からのメッセージを、
確かに受け取ったような気がした年だった。

そして、時は少しずつ流れていく。
出会いは形を変え、命はつながっていった。

次回⑦:新しい命へ──国際結婚、そして父になるまで。
母から受け取った“生きること”の意味を胸に、
新しい日々が始まる。


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