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人物探訪|アレクサンダル・ヴチッチ

13年続いた統治が、駅の屋根とともに揺らいだ

2024年11月1日の午前11時52分、セルビア北部の都市ノビサドで、改修を終えたばかりの鉄道駅の庇(ひさし)が歩道に崩れ落ちました。16人が亡くなりました。

それから21か月がたった2026年8月1日、同じ駅の前に市民と学生が集まり、事故発生時刻に合わせて16分間の黙とうを捧げました。この時点でもなお、刑事責任を負った人物は誰もいません。

この事故は、単なる建設事故として処理されませんでした。それはセルビアという国の統治のあり方そのものへの問いに変わり、10万人単位の街頭デモを生み、13年続いた与党支配を初めて世論調査で逆転させ、2026年6月27日、1人の政治家に「数週間のうちに辞任する」と口にさせました。

その政治家の名前が、アレクサンダル・ヴチッチです。

1993年に23歳で議員になり、1998年にはスロボダン・ミロシェヴィッチ政権の情報相としてメディア規制の先頭に立ち、2008年に党を割って親EU路線に転じ、2012年から副首相、2014年から首相、2017年から大統領として、事実上セルビアの最高権力者であり続けてきた人物です。

この記事では、この人物がどこから来て、どうやって権力を築き、いま何に直面しているのかを整理します。善玉と悪玉を割り振るための記事ではありません。バルカン半島の小国で、1人の政治家がどのように権力を集め、そしてどのように揺らいでいるのかを、日付と数字で追いかけるための記事です。


1. 1970年、ベオグラードに生まれる

アレクサンダル・ヴチッチは1970年3月5日、当時のユーゴスラビア連邦、セルビア共和国の首都ベオグラードで生まれました。

1988年にゼムン・ギムナジウム(ゼムン高等学校)を卒業し、ベオグラード大学法学部に進み、1994年に卒業しています。

彼が20代に入る1990年前後という時期は、ユーゴスラビアという国が解体していく時期と正確に重なります。1991年にスロベニアとクロアチアが独立を宣言し、1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナで戦争が始まりました。ヴチッチが法学部の学生として過ごした数年間は、彼の国が周辺との戦争と国際的な孤立に沈み込んでいく数年間でした。

政治家としての出発点を理解するうえで、この時代背景は決定的です。1990年代のセルビアで政治的に台頭するというのは、民族主義の言葉を使いこなすということとほぼ同義でした。そして若きヴチッチは、その言葉をきわめて有効に使いこなした人物でした。

2. 23歳で急進党へ

ヴチッチは1993年、セルビア急進党(SRS)に入党し、同じ年に国民議会議員に選出されました。23歳です。

セルビア急進党は、ヴォイスラヴ・シェシェリが率いた強硬な民族主義政党でした。大セルビア主義を掲げ、周辺諸国のセルビア人居住地域をセルビアに統合すべきだと主張し、当時のセルビア政治のなかでもとりわけ強硬な位置にありました。

ヴチッチは入党の翌1994年、24歳でこの党の書記長に就任します。そして2008年に離党するまで、14年間その地位にありました。20代半ばで大政党の実務トップに就いたという事実は、彼の組織運営の能力と、政治的な上昇速度の異様な速さを示しています。

3. 1998年、情報相。メディアを縛った2年間

1998年、ヴチッチはスロボダン・ミロシェヴィッチ政権の情報相に就任しました。28歳でした。

この時期のセルビアは、コソボ紛争が本格化し、1999年にはNATOによる空爆を受けることになる、まさに国際的孤立の最終局面にありました。そして情報相ヴチッチの仕事は、その局面で国内の情報空間を統制することでした。

在任中に導入されたメディア規制法は、政府に批判的な報道機関に対して高額の罰金を科し、外国メディアの活動を制限する内容を含んでいました。実際に複数の独立系メディアが罰金や閉鎖に追い込まれています。ヴチッチは、当時から強権的な情報政策の中心人物と見なされていました。

この2年間は、その後の彼のキャリアを通じて繰り返し持ち出される経歴です。批判する側は「メディアを黙らせた人物が、いまも同じことをしている」と言い、擁護する側は「30年近く前の、別の時代の話だ」と言います。どちらの言い分にも一定の根拠があります。事実として言えるのは、彼が情報と世論の扱い方を、きわめて若いうちに、きわめて過酷な環境で学んだということです。

2000年10月、ミロシェヴィッチ政権は市民の蜂起によって崩壊しました。ヴチッチは政権中枢にいた人物として、そこで一度、政治的な敗者になります。

4. 2008年、党を割って出る

その後の8年間、セルビア急進党は野党として存在し続けましたが、政権に戻る道は見えませんでした。セルビアの有権者は、EUへの接近を望むようになっていました。

2008年、ヴチッチはトミスラヴ・ニコリッチとともに急進党を離れ、セルビア進歩党(SNS)を結成します。そしてこの新党は、旧来の民族主義政党とは決定的に異なる看板を掲げました。EU加盟を目指す、経済改革を進める、汚職と戦う、というものです。

大セルビア主義を掲げた党の書記長が、親EU政党の指導者になる。この転換をどう評価するかは、ヴチッチという人物への評価そのものです。

好意的に見れば、これは現実主義です。1990年代の路線ではセルビアは孤立と貧困から抜け出せない、と彼は判断した。そしてその判断は、有権者の判断とも一致していました。政治家が時代の変化に合わせて路線を変えることは、必ずしも背信ではありません。

批判的に見れば、これは看板の掛け替えです。1990年代に使った民族主義の言葉と、2008年以降に使った親EUの言葉は、いずれも権力を取るために選ばれた道具にすぎない。信念の転換ではなく、市場の変化への適応にすぎない、という見方です。

どちらが正しいかを断定することはできません。ただ、この転換以降のヴチッチが、セルビア政治で他の誰も持たなかった強さを手に入れたことは事実です。それは、民族主義的な感情に訴えることも、EUに向けて協力的な顔を見せることも、どちらもできるという柔軟性でした。

5. 副首相、首相、そして大統領

2012年の議会選挙でSNSが勝利すると、ヴチッチは副首相に就任しました。国防相も兼務し、実質的に政権の中心になります。

2014年には首相に就任しました。そして2017年4月2日の大統領選挙で、第1回投票の過半数を得て当選します。当時の暫定結果では得票率は55%前後でした。

2022年4月の大統領選挙では再選され、最終的な得票率は60.01%でした。同時に行われた議会選挙でもSNSが第1党を維持しています。

ここで押さえておくべきなのは、セルビアの制度上、大統領は本来それほど強い権限を持たないという点です。セルビアは議院内閣制に近い体制で、行政の実権は首相にあります。

にもかかわらず、2017年に首相から大統領に移ったヴチッチは、権力を失いませんでした。むしろ強めました。理由は単純で、彼が与党SNSの実質的な指導者であり続け、首相も閣僚も彼の影響下にあったからです。

制度上の役職ではなく、党と人事を握ることで権力を維持する。この構造こそが、ヴチッチ体制の中核です。そして同時に、批判の中心でもあります。

6. ヴチッチ体制とは何か

国際的な評価機関の見方は、かなり厳しいものです。

フリーダム・ハウスは、セルビアを完全な民主主義国ではなく、ハイブリッド体制あるいは移行期体制に分類しています。V-Demは「競争的権威主義」と位置づけ、過去10年で大きな民主的後退を経験した国の1つとして扱っています。

批判の中身は、大きく3つに整理できます。

1つ目はメディアです。国営放送と主要な民間メディアの多くが政権寄りであり、ヴチッチ本人のテレビ露出量が極端に多いと指摘されています。野党指導者が主要放送に登場する機会は限られ、選挙期間中の情報環境が公平とは言いがたいという批判です。

2つ目は権力の個人集中です。制度上の権限を超えて1人の人物に決定が集まり、閣僚も自治体も党の人事を通じて統制されるという指摘です。

3つ目は選挙の質です。投票そのものが不正だという主張ではなく、選挙に至るまでの環境、つまりメディアへのアクセス、公的資源の動員、有権者への圧力といった部分が不公正だという指摘が繰り返されてきました。

一方で、支持する側の評価もあります。ヴチッチ政権下でセルビアは一定の経済成長を実現し、外国からの直接投資を集め、インフラを整備しました。1990年代の混乱と孤立を知る世代にとって、安定と成長は軽い価値ではありません。実務的な指導者だという評価は、単なる宣伝ではなく実感に支えられている部分があります。

この2つの評価が同時に成り立っているのが、ヴチッチという政治家です。そして2024年11月1日、その均衡を壊す出来事が起きました。

7. 2024年11月1日、11時52分

ノビサドはセルビア第2の都市で、人口はおよそ30万人です。その中央駅は、2021年から2024年半ばにかけて大規模な改修工事を受けていました。投じられた費用はおよそ1,600万ユーロと報じられています。

改修工事には、中国鉄路国際公司(CRIC)と中国交通建設(CCCC)を含む中国企業のコンソーシアムが関与していました。セルビアが近年進めてきたインフラ整備の多くは、中国企業の施工と中国の資金によるものです。この駅もその1つでした。

2024年11月1日、駅正面の屋外の庇が、そこにいた人々の上に落ちました。死者数は当初12人と報じられ、その後14人、最終的に16人と整理されています。

当局と施工関係者は当初、崩落した部分は改修工事の対象外だったと主張しました。しかしその説明は、市民の納得を得られませんでした。改修を終えたばかりの公共施設の一部が落ちて16人が死んだという事実は、説明の細部よりも先に、人々の中で1つの結論を形づくったからです。

つまり、公共事業のどこかが腐っている、という結論です。

8. 16人という数字が、政治を動かした

抗議はまず、事故原因の解明と責任者の処罰を求めるものとして始まりました。しかし数か月のうちに、要求はより広い問題へと拡大していきます。公共事業の発注過程の不透明さ、汚職、そして政府による情報の隠蔽疑惑です。

運動の中心を担ったのは学生でした。大学の封鎖、行進、徒歩やサイクリングによる長距離の移動、地方都市を巡る集会。これらが1年以上にわたって続きました。

セルビアの抗議運動には過去にも大規模なものがありましたが、この運動には特徴的な点がいくつかありました。

1つ目は、明確な指導者を置かなかったことです。学生たちは全体集会での合意形成という方式をとり、特定の人物を前面に出すことを避けました。これは、政府が「野党の扇動だ」というかたちで運動を政治的に仕分けることを困難にしました。

2つ目は、要求が制度的だったことです。「政権打倒」という抽象的なスローガンより先に、事故に関する全文書の公開、暴力を振るった者の訴追、拘束された学生の釈放といった、具体的で検証可能な要求が置かれました。

3つ目は、持続したことです。抗議は数日で終わらず、季節をまたぎ、年をまたぎました。

規模も大きなものでした。2025年3月15日にはベオグラードだけで少なくとも30万人が参加したと報じられ、事故から1年となる2025年11月のノビサドには約16万人、2026年5月にも首都で18万人が街頭に出たとされています。人口700万人規模の国で、首都に30万人が集まるという事態の重みは、そのまま受け取るべきです。

9. 2025年3月15日、30万人と「音」

この運動の性格を象徴する出来事が、2025年3月15日のベオグラード集会で起きました。

集会では、事故の犠牲者を追悼するための黙とうが行われていました。その最中、突然の大きな音が発生し、群衆が動揺して散開したのです。

その後、政府が音響兵器、いわゆるLRAD(長距離音響装置)を群衆に対して使用したのではないかという疑惑が広がりました。当局はこれを一貫して否定しています。ただし内務相イヴィツァ・ダチッチは、2021年に米国製のLRADを取得していた事実自体は認めました。治安機関と軍は、その日に使用したことを否定しています。

真相は、独立した検証がなされないまま今日に至っています。

この出来事が重要なのは、音響兵器が使われたかどうかそのものよりも、多くの市民が「使われたかもしれない」と信じたという点です。政府の否定が信用されないという状態は、統治にとってきわめて深刻な症状です。ヴチッチ政権が13年かけて積み上げた情報環境の支配は、この局面で逆に作用しました。政府の言うことを信じない人々を、大量に生み出していたからです。

10. 対EU、対ロシア、対中国。3方向への綱渡り

国内が揺れる一方で、ヴチッチの外交は一貫した特徴を持ち続けてきました。どこにも完全には与しない、という特徴です。

セルビアはEU加盟候補国であり、加盟交渉を続けています。しかしその交渉は長く停滞しています。2026年7月時点で、ヴチッチ自身が停滞の主因は「ロシアへの制裁に参加していないこと」だと述べています。

セルビアはウクライナ戦争に関する国連決議には賛成票を投じてきました。しかし、EUによる対ロシア制裁には加わっていません。この立場を、10年以上にわたって維持し続けています。

理由はいくつもあります。歴史的な同胞意識、正教会という共通の宗教的背景、そしてコソボ問題で国連安全保障理事会のロシアの拒否権に依存しているという現実的な計算です。加えて、エネルギーの現実があります。

そして中国です。セルビアは近年、中国からの投資とインフラ融資を積極的に受け入れてきました。鉄道、高速道路、製鉄所、鉱山。ノビサド駅の改修に中国企業が関与していたことも、この文脈にあります。

EUに加盟を申請しながら、ロシアへの制裁には加わらず、インフラは中国資本で建設する。この3方向への綱渡りは、ヴチッチの外交手腕を示すものであると同時に、どの方向からも完全な信頼を得られないという構造的な弱さでもあります。

11. NISという急所

その綱渡りが、いちばん危険な形で表面化しているのがエネルギーです。

セルビア石油産業(NIS)は、同国唯一の製油所を運営し、国内の燃料需要のおよそ80%を賄っている企業です。そしてこの企業の株式は、ロシアのガスプロム・ネフチがおよそ44.9%、ガスプロムがおよそ11.3%を保有し、セルビア政府は29.9%にとどまります。つまり、国のエネルギーの中枢がロシア資本の支配下にあります。

米国はこのNISに制裁を科し、ロシア系株主の持分売却を求めています。制裁が完全に発動すれば、原油の調達、国際決済、保険、輸送のすべてが止まり、セルビア国内の燃料供給に直撃します。

このため、米財務省外国資産管理室(OFAC)は原油輸入を継続するための一時的な適用除外を繰り返し延長してきました。直近では2026年7月31日に再延長され、期限は2026年8月28日とされています。

つまりセルビアは、数週間単位で更新される猶予に、エネルギー安全保障を預けている状態です。

NIS自体の業績は、2026年上半期の純利益が98億ディナールで、前年同期の36億ディナールの損失から回復しています。しかし問題は収益性ではありません。所有構造と対外決済です。ロシア資本を追い出せば、ロシアとの関係が悪化する。追い出さなければ、米国の制裁が本発動する。この二者択一を、ヴチッチは先延ばししながら生き延びてきました。

3方向への綱渡りという外交スタイルの限界が、いちばん露骨に出ている場所がここです。

12. コソボという解けない結び目

もう1つ、ヴチッチが動かせない問題があります。コソボです。

コソボは2008年に独立を宣言しましたが、セルビアはこれを承認していません。この非承認は、セルビア国内政治において譲れない一線とされてきました。同時に、EU加盟にとっては最大の障害です。EUは加盟の条件として、コソボとの関係正常化を求めているからです。

2023年2月27日、EUの仲介によって関係正常化に向けた合意(ブリュッセル合意)がまとまり、同年3月18日には北マケドニアのオフリドでその実施付属文書が合意されました。ただし欧州議会の文書によれば、ヴチッチは両合意への署名を事実上拒否しています。合意しつつ、署名はしない。この態度そのものが、彼の置かれた位置を示しています。国内には承認したと見せられず、EUには拒否したと見せられないのです。

そして2023年9月24日、コソボ北部のバンジスカで武装衝突が起きました。バンジスカ入口付近の橋が封鎖されているという通報を受けて現場に到着したコソボ警察が、約30人の重武装集団に襲撃され、警察官1人が死亡、襲撃側の3人が死亡しました。この事件は、セルビアとコソボの関係を決定的に悪化させました。

コソボ問題は、ヴチッチにとって解けない結び目です。承認すれば国内の民族主義的支持基盤を失い、承認しなければEU加盟は進まない。彼が取ってきたのは、決着させないという選択でした。

13. リチウムという新しいカード

一方で、セルビアには最近になって新しい交渉材料が生まれました。リチウムです。

セルビア西部のヤダル谷には、リオ・ティントが「欧州で最高品位かつ最長寿命のリチウム・ホウ酸資源」と位置づける鉱床があります。年間5万8,000トンのバッテリーグレード炭酸リチウムの生産を想定する報道があり、投資額はおよそ24億ドル規模とされています。

この計画は、2022年1月にいちど頓挫しました。環境団体を中心とする大規模な抗議を受けて、セルビア政府がリオ・ティントの許認可を取り消したのです。

しかし2024年7月11日、憲法裁判所が2022年の取り消し決定を違憲と判断しました。政府は7月16日にヤダル・プロジェクトの空間計画を復活させます。そして7月19日、EUとセルビアは、持続可能な原材料、電池バリューチェーン、電気自動車に関する戦略的パートナーシップの覚書に署名しました。

この一連の動きの意味は明快です。EUは電気自動車と電池のサプライチェーンを中国に依存しない形で確保したい。セルビアには欧州最大級のリチウム鉱床がある。この需要と供給が一致すれば、セルビアはEUに対して新しい交渉力を得ます。

ヴチッチにとって、リチウムはコソボやロシア制裁とは違う、前向きな交渉カードでした。ただし国内では、環境への懸念から根強い反対が続いています。そしてこの反対運動は、2024年秋以降の反政府運動と地下水脈でつながっていきました。政府が国民の声を聞かずに巨大プロジェクトを進める、という構図が共通しているからです。

14. 経済の実像

デモとエネルギー危機の一方で、セルビア経済そのものは崩壊していません。

2026年第1四半期の実質GDP成長率は3.2%でした。通年の見通しは、複数の機関の予測で2.8%から3.2%の範囲に置かれています。ヨーロッパの水準としては悪くない数字です。

失業率は8.9%です。ただし雇用の内実には陰りが見えます。同じ2026年第1四半期に、就業率は50.7%へ低下し、雇用者数は前年同期比で5万人以上減少しました。成長率は保たれているのに、働いている人の数は減っている。この組み合わせは、成長の質に疑問を投げかけます。

ヴチッチ政権が長く維持してきた正当性の根拠は、まさにこの経済でした。1990年代の混乱と2000年代の停滞を経て、安定した成長と外資の誘致を実現した政権である、という自己規定です。2027年にはベオグラードで国際博覧会(EXPO 2027)の開催も予定されており、大型インフラ投資はその象徴でした。

しかしノビサド駅の崩落は、その根拠の中心に穴を開けました。インフラを作ることが政権の正当性なのだとすれば、そのインフラが人を殺したとき、正当性そのものが問われるからです。抗議運動が急速に政治化したのは、この論理的なつながりがあったためです。

15. 2026年6月27日、辞めると言った日

2026年6月27日、ベオグラードで開かれた親政権集会で、ヴチッチは支持者に向けてこう述べました。自分はあと数週間しか大統領ではない、その後は辞任する、と。あわせて、早期の大統領選挙と議会選挙を実施する意向を示しました。

彼の任期は本来2027年半ばまでありました。1年近く前倒しして退く、という宣言です。

この発言をどう読むかは、いくつかの解釈が可能です。

1つ目は、追い詰められての撤退という読み方です。1年半以上続いた抗議運動と支持率の低下を受けて、これ以上の消耗を避けたという見方です。

2つ目は、逆に主導権を取り戻すための攻めの手という読み方です。抗議運動が求めていたのは選挙の実施でした。それを政権側から先に切ることで、時期と条件を自分で選ぶことができます。運動の側が体制を整える前に選挙に持ち込めれば、まだ勝てるという計算です。

3つ目は、ヴチッチが過去にも似た発言をしてきたという事実に基づく、慎重な読み方です。彼は劇的な言葉で政局を動かす手法を繰り返し使ってきました。実際、2026年8月時点でも、正式な選挙日程は確定していません。辞任も実行されていません。

現時点で言えるのは、この宣言が本気であれ戦術であれ、13年続いた体制が終わりに向かう局面に入ったことを、当人が公に認めた瞬間だったということです。

16. 世論調査が示した逆転

そしてこの宣言の直後、政治的な地形の変化を示す数字が出ました。

CRTAとスタンフォード大学の共同調査(2026年6月)によれば、投票先を決めている有権者のなかで、学生運動から生まれた「学生リスト」が44.9%、与党セルビア進歩党(SNS)が35.7%でした。連立を組んできたセルビア社会党(SPS)は3.8%にとどまっています。全体では未定が12%、投票しないと答えた人が9%でした。

SNSが世論調査で野党側に明確に抜かれたのは、2012年に政権を取って以来、初めてのことです。しかも抜いたのは既存の野党ではなく、街頭運動から生まれた政治勢力でした。

ただし、この数字を過大に読むべきではない理由もあります。

1つ目に、9ポイントの差は、選挙戦の展開で十分に埋まりうる差です。2つ目に、セルビアの選挙環境には前述の構造的な問題があり、支持率がそのまま議席に反映される保証はありません。3つ目に、学生運動から生まれた政治勢力が、実際に統治能力を持つ政党へ転化できるかどうかは、まったく別の問題です。指導者を置かないという運動の強みは、政党としては弱みに変わります。

17. 2026年8月、いま起きていること

2026年7月には、ノビサド駅の事故をめぐる裁判手続きが再開されました。被告には元建設相のゴラン・ヴェシッチらが含まれます。

2026年8月1日、事故から21か月にあたるこの日、ノビサド駅前に人々が集まり、11時52分に合わせて16分間の黙とうを行い、交差点を封鎖しました。犠牲者16人の名前が掲げられました。

そして2026年8月7日時点の報道では、大規模な抗議運動そのものは1年以上を経てようやく沈静化した、と総括されています。ただし政府への不信は残り、責任追及の要求は続いています。

沈静化したという表現は、正確でもあり、不正確でもあります。街頭の人数は減りました。しかし運動が生み出した政治勢力は世論調査で与党を上回り、裁判は続き、大統領は辞任を口にしました。運動はエネルギーを失ったのではなく、街頭から制度の側へ移動したと見るほうが実態に近いように思われます。

18. 1人の政治家として、何が評価され、何が問われているのか

ここまでの事実を踏まえて、アレクサンダル・ヴチッチという政治家を評価するとすれば、どうなるでしょうか。

まず、能力そのものは疑いようがありません。23歳で国会議員、24歳で大政党の書記長、28歳で閣僚。2000年に政権崩壊で一度は敗者になりながら、8年後に新党を立ち上げ、その4年後には政権中枢に返り咲きました。そして13年以上にわたって権力を維持しています。これは偶然でできることではありません。

彼の最大の技術は、相反するものを同時に成立させることでした。民族主義者にはコソボを譲らない指導者として、EUには交渉可能な相手として、ロシアには友好国として、中国には歓迎する投資先として、そして国内の有権者には成長をもたらした実務家として振る舞う。それぞれの相手に別々の顔を見せながら、どの関係も切らずに維持してきました。

しかし、この技術には代償がありました。すべての方向に顔を向けるということは、どの方向にも完全には踏み込まないということです。EU加盟は進まず、コソボ問題は決着せず、ロシア資本のエネルギー支配は解けないまま、猶予の延長を数週間ごとに求め続けています。

そしてもう1つの代償が、統治の質でした。権力を1人に集め、メディアを管理し、党を通じて人事を握る。この構造は短期的には効率的です。しかし、公共事業のどこかで手が抜かれたとき、それを内側から止める仕組みが働かなくなります。ノビサド駅の庇が落ちたのは工学的な事故ですが、21か月たっても誰も責任を負っていないという事実は、政治的な現象です。

批判者が言う「権力の個人集中」と、支持者が言う「決められる政治」は、同じものの表と裏です。そしてセルビアの人々は、2024年11月1日にその裏側を見ました。

19. これから何を見ておくか

セルビアの今後を追いかけるなら、確認すべき点は4つに絞れます。

1つ目は、選挙の実施時期と、その条件です。いつ実施されるかだけでなく、選挙管理と報道の環境が改善されるかどうか。学生リスト側が求めてきたのは、選挙そのものより公正な選挙環境でした。

2つ目は、ノビサド駅事故の裁判の行方です。元建設相を含む被告に対して、実際に有罪判決が出るのかどうか。ここは、司法が独立して機能しているかどうかを測る、もっとも直接的な指標になります。

3つ目は、NISの株主構成です。米国の適用除外がいつまで延長されるのか、ロシア系株主が実際に撤退するのか。ここが動けば、セルビアの対外的な位置取りが変わったことを意味します。

4つ目は、ヴチッチ本人の去就です。辞任するのか、しないのか。仮に大統領を退いたとしても、党の指導者として権力を維持する道は残されています。役職と権力は別物であることを、彼自身が2017年に証明しています。

20. まとめ

アレクサンダル・ヴチッチは、1990年代の民族主義の側から出発し、2008年に親EUへ転じ、2012年から2026年まで実質的にセルビアを統治してきた政治家です。

その統治は、経済成長とインフラ整備という実績を残し、同時にメディアの管理と権力の個人集中という批判を積み上げてきました。彼は国内政治でも外交でも、相反する立場を同時に維持することで生き延びてきました。それは技術としては見事なものでした。

しかし2024年11月1日、改修されたばかりの駅の庇が崩れて16人が亡くなったとき、その均衡が崩れました。事故そのものより、その後の対応が問題でした。21か月たっても刑事責任を負う者がいないという状態が、政府の説明を信じない市民を大量に生み出したからです。

2026年6月27日、ヴチッチは辞任を口にしました。2026年6月の世論調査では、学生運動から生まれた政治勢力が与党を9ポイント上回りました。街頭のデモは沈静化しましたが、運動は制度の側へ移りました。

この先セルビアで何が起きるのかは、まだわかりません。ヴチッチが選挙で勝ち返す可能性も、退場する可能性も、どちらも残っています。

ただ、この事例が示していることは、セルビアの外側にいる私たちにも意味があります。統治は、選挙で勝つことだけでは維持できないということです。権力を集めて効率を上げる仕組みは、うまくいっているうちは強く見えます。しかし、その仕組みのどこかで人が死んだとき、説明を信じてもらえる回路が残っているかどうかが問われます。

16人が亡くなり、21か月がたち、誰も責任を負っていない。この3つの事実の並びが、13年続いた統治を揺らがせました。政治において、数字はときに議論より強いのです。


参考文献・出典

※ 本記事の数値と日付は、上記の各出典の公表時点のものです。ノビサド駅崩落事故の死者数は報道の経過とともに12人、14人、16人と更新されており、本記事では最終的に整理された16人を採用しています。抗議集会の参加者数は主催者側と当局で推計が異なる場合があります。2026年の早期選挙の日程、ヴチッチ大統領の辞任の実行、NISに対する米国の適用除外の再延長については、本記事執筆時点(2026年8月9日)で確定していません。

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