父は、平和のために戦場へ行った ――1100年の魂が、私に流れている――落合ひろひと(本名:落合紀英、落合家第四十代)
序章:私は、戦争が嫌いだ
――父と母から注ぎ込まれた、生々しい記憶
落合家第四十代目として生まれた私は、
平安の世から続く1100年の血脈を背負って、
今この時代に生きている。
私は、戦争が嫌いだ。
しかしそれは、漠然とした平和主義ではない。
テレビのニュースで戦争の映像を見て眉をひそめる、
そういう種類の感情ではない。
私の「戦争嫌い」は、
もっと深く、
もっと肉体的な場所に根を持っている。
父から聞かされた話がある。
戦場で敵兵から逃れるため、父は死体の山の中に身を隠し、部下にも同じように指示した。やがて敵兵が火炎放射器を向けた。焼かれた死体から、肉汁が滴り落ちてきた。父は精神力でその臭いと熱に耐え続けた。
しかし、恐怖に耐えられなくなった部下の一人が、
ふらりと立ち上がった。その瞬間、銃声が響いた。
これは映画の話ではない。
私の父が、実際に体験した話だ。
母から聞いた話もある。
幼い母が防空壕へ逃げる途中、背後から機銃掃射が襲いかかった。手を繋いで走っていた友達と、とっさに伏せた。銃弾の嵐が頭上を過ぎた後、母は生きていた。しかし、隣の友達は、首に弾丸を受け、即死していた。母の首元では、お守りの石に弾丸の破片が当たっていた。お守りが、母の命を救った。
母はこの話をする時、いつも泣いた。
手を繋いでいた友達の体温が、
まだ手に残っているように…と。
私は子供の頃から、こういう話を聞いて育った。
父は戦争映画を見せながら解説してくれた。
「これは実際とはかなり違う」
「これはそのままだ」と。
映画が美化している部分を、父は容赦なく指摘した。
本当の戦場は、もっと臭く、もっと痛く、もっと惨めなものだ、と。おかげで私の中に、戦争の凄惨さはまるで自分の体験のように刻み込まれた。
父はいつも言った。
いかに人の争いとは醜いものか。
人間の業の深さを、父は私に伝え続けた。
それは説教ではなかった。
父自身が見てきたものを、
息子に伝えずにはいられない…という
切迫した誠実さだった。
だから私は、戦争が嫌いだ。
人間の業の醜さを、骨の髄まで知った上で。
しかし——と、ここで私は立ち止まる。
戦争を誰よりも憎んでいたあの父が、
なぜ自ら進んで戦場へ赴いたのか。
その問いに答えるためには、まず落合家という、
1100年の歴史を持つ一族の物語から
始めなければならない。
その歴史の最も近い場所に、一人の男がいた。
私の父——落合源太郎。
1100年の歴史を持つ落合家の四十代目として生まれた私が、なぜ戦争を憎みながら、
戦場へ行った父を誇りに思うのか。
その問いの答えを、これから語っていく。
第一章:震災の少年
――すべてを失った日から、知恵が始まった
私の手元に、一本の巻物がある。
桐箱に収められたその巻物を広げると、そこには墨で書かれた無数の名前と、その生涯の記録が縦横に連なっている。落合氏系譜図——落合家の家系図だ。
その最初の名前は、人皇五十九代、
宇多天皇から始まる。
平安時代に即位した宇多天皇を祖とする「宇多源氏」の血脈は、近江国坂井郡落合邑に根を張り、「落合」の姓を名乗るようになった。
鎌倉時代には武士として記録され、
南北朝の動乱を生き抜き、室町から戦国の世を越えて
——落合家の歴史は、日本の歴史そのものと重なり合っている。
私が小学生の時、
父に連れられて滋賀県の沙沙貴神社を訪れた。
宇多源氏の総本社として知られるその神社で、
私は大家系図と対面した。
宮司さんから説明を受けた。「この大家系図は、落合家の直系の方しかご覧になれません」と。大家系図には、父・落合源太郎の名まで記載されていた。
1100年の歴史が、この国の神社に公に刻まれている。それを目の当たりにした時、幼い私の胸に、
言葉にならない何かが込み上げてきた。
自分という存在が、ただ今この時代に偶然生まれてきたのではなく、長い長い時間の流れの中に、
必然として存在しているのだという感覚だった。
近代に入り、第三十七代・良三は上狛村の村長を務めながら蓄電池の製造において独自の発明を成し遂げ、特許を取得した。
そして先祖代々の領地を農夫の人々に惜しみなく分け与え、私財を投じて木津に橋を築き、上狛駅を作った。上狛駅がまだ国鉄だった時代、駅の正面には良三の写真の額縁が掲げられていた。私が小学生の頃、その額縁を実際に見たことがある。
良三の長男・俊夫はその発明を受け継ぎ、東京に製造工場を設立した。事業は成功し、落合家は富裕層となった。父・源太郎が小学生だった頃、登下校は運転手付きの乗用車でなされていたという。
まだ自家用車が珍しかった時代に、である。
しかしその繁栄は、突然終わりを告げた。
1923年9月1日、午前11時58分。
関東大震災が起きた。
マグニチュード7.9。東京・横浜を中心に、死者・行方不明者は10万人を超えた。
近代日本が経験した、最大の天災だった。
その日、東京には落合源太郎がいた。
まだ小学生だった。運転手付きの車で送り迎えされ、不自由のない暮らしをしていた少年が、その日を境に、全てを失った。
父・俊夫、41歳。死去。母・べんもまた…
同じ日に逝った。
一日のうちに、父と母の両方を失った。天涯孤独となった少年は、姉と妹の手を引き、命からがら京都へ帰り着いた。落合家の富も、東京の工場も、豊かな暮らしも——すべてが、あの日の炎と瓦礫の中に消えた。
しかし源太郎は、立ち止まらなかった。
父は、智慧を巡らせた。
普通に魚を売っていては時間も労力もかかり、学校に行けない。そう考えた源太郎は、まだ夜も明けぬうちに卸市場へ出向き、新鮮な魚を仕入れた。それをリアカーに乗せ、富裕層の家を一軒一軒回る。御用聞きをして、買い手が現れたら、その場で相手の望み通りに——刺身用に、煮物用に——手際よくさばいて売る。
やがて顧客がつき、
学校が始まるころには完売していた。
いかなる状況でも、その時の最適解を瞬時に見出す。この才覚は、少年の頃からすでに、源太郎の中に宿っていた。
昨日まで車で送り迎えされていた少年が、夜明け前から市場へ走る。
しかし源太郎にとってそれは、落差ではなかったのではないか。
武家の子として父から武士の教えを受けて育った源太郎にとって、逆境こそが本物の人間を作る場であることを、血の奥底で知っていたのではないか。
やがて姉は教師となり、妹は嫁いだ。
家族を守り抜いた少年は、帝国陸軍士官学校へ進み、48期生として首席で卒業した。
その同期の中に、三笠宮崇仁親王殿下がいた。
父がいつも三笠宮殿下と語り合っていたこと——それは、戦争のない平和な世の中をつくる、ということだった。
当時の日本において、それは口にしてはならない思想だった。軍国主義が全てを覆い、戦争こそが国家の使命とされていた時代に、二人の青年将校は、密かに平和を夢見ていた。
歩兵や伍長の地位では、多くの人を救えない。
だからこそ、高い地位へ行く。
そして部下を絶対に死なせず、家族のもとへ返す——父はそう心に誓っていた。
そして私は、後になって一つのことに気づいた。
父が全てを失ったあの日——9月1日の、翌日。
9月2日は、私の誕生日だ。
父はある日、子供の頃の記憶を辿りながら、静かに私に呟いた。「あの運命の日の次の日が、紀英の誕生日なんだなぁ……」と。その言葉には、長い歳月を経た者だけが持つ、深い感慨が込められていた。
私が生まれたのは1964年——昭和39年。
東京オリンピックが開かれ、東海道新幹線が開通した年だ。
焼け野原から奇跡の復興を遂げた日本が、世界に向けて扉を開いた、その年に私は生まれた。
9月1日に全てを失った父の、翌日に生まれた息子が、日本が新たな時代へと踏み出した年に産声を上げた。
これを偶然と呼ぶには、あまりにも出来すぎている。
1100年の血脈は、こうして静かに、しかし確実に、
次の世代へと引き継がれていく。
第二章:不抜の精神
――箸と木刀、そして竹藪の静寂
落合家には、家宝があった。
刀と、甲冑だ。
幼い私がそれらに近づこうとすると、父は静かに、しかし毅然として制止した。「触れてはならぬ」と。その声には、命令ではなく、深い敬意が込められていた。
刀と甲冑は、単なる道具や飾り物ではない。
1100年の歴史を生きてきた落合家の魂が、
そこに宿っているのだ、と。
しかしある日、父は小学生だった私を呼んだ。
そして、その刀を持たせてくれた。
ずしり、と。
その重さに、私は思わず声を上げそうになった。
刀とはこれほどまでに重いものなのか。その重量の中に、かつてこの刀を手にした幾人もの先祖の存在が、凝縮されているような気がした。
父は静かに言った。
「刀は振り回すためにあるものではない。
刀は本来、抜いてはならぬものだ。
抜いて良い時は、死ぬ覚悟をした時のみだ」
そして父は、一つの言葉を教えてくれた。
「死中に活を求める」
死を覚悟した者だけが、
本当の意味で生きることができる。
その言葉の重さを、幼い私は全身で受け止めた。
父は剣道を教えてくれた。
師範代であるだけでなく、
本物の剣術を極めていた父の教えは、苛烈だった。
父はいつも言った。
「いつでも、自分に隙あればかかってきなさい」と。
ある日、私はその言葉を試してみた。
食事中の父を狙った。
父が箸で食事をしているその瞬間を見計らい、
こっそりと木刀を持ち出した。
イタズラ心と、少しの好奇心と——まさか食事中の父には敵わないだろうという、子供らしい計算があった。
木刀を振り上げ、父の頭めがけて振り下ろした。
次の瞬間…
木刀が止まった。
父の箸が…
木刀を受け止めていた。
しかも、木刀はびくともしなかった。
まるで瞬間接着剤で固定されたように、
うんともすんとも動かなかった。
食事の手を止めた様子すら、なかった。
父は静かに箸を置き、私を見た。
怒りの表情ではなかった。
穏やかな、しかし深い眼差しだった。
「邪念と気配は、人に伝わる」
父はそう言った。何かよからぬことを思えば、その邪念と気配は、相手に必ず伝わる。だから私は、お前が木刀を持ち出した瞬間からわかっていた——と。
そして父は続けた。
「一切の邪心を取っ払い、無垢な心と誠実で
清らかな心には、強い魂が宿る。
その魂が、揺るがなく強き精神へと成長していく」
堅忍不抜——いかなる困難にも動じず、志を曲げない、不屈の精神。
父が私に伝えたかったのは、剣の技ではなかった。剣を通じて、人間としての在り方を教えようとしていたのだ。
そして、もう一つの記憶がある。
私が小学生の頃、家は名古屋の瑞穂区にあった。周囲を山に囲まれた環境で、生き物が大好きだった私は、父によく山へ連れて行ってもらった。ある日、いつものように父と山へ入り、竹藪の前で父は立ち止まった。そして静かに、刀を抜いた。
その瞬間、空気が変わった。
まるで時間が止まったような静寂が訪れた。風も、虫の声も、全てが遠ざかったような静けさだった。次の瞬間、父は動いた。テレビのチャンバラとは似ても似つかない、踊りを舞うような静かで美しい動きで、太い竹がストンストンと次々に切れ…
竹藪に一瞬で道ができた。
竹藪の終わりまで…一瞬で…
私は…息をするのも忘れて…
その光景を見ていた。
あの静寂と迫力と、踊りのような美しさは、今も私の脳裏に焼き付いている。
剣とは、力で振るうものではない。
魂を整えた者の体から、自然と流れ出るものだ——父はその日、言葉ではなく、体でそれを見せてくれた。
後日、父は一冊の本を私に手渡した。
『葉隠』だった。
「葉隠」——「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉で知られる、武士道の真髄を記した書だ。
箸で木刀を受け止めたあの体験と、
竹藪の静寂の記憶が、
葉隠の言葉を血肉として理解させてくれた。
死を恐れない者だけが、
本当に生きることができる
——この教えは、後にノモンハンの荒野で、父自身が体現することになる。
そして、あの竹藪の静寂の中に、
私の「魂の声」の原点があったのかもしれない。
第三章:ノモンハンの一週間
――戦車1000台、部下を逃がした夜
1939年、夏。
モンゴルと満州の国境地帯、ノモンハン。
地平線まで続く荒野に、日本軍とソ連軍が激突した。
ソ連は当時世界最強と言われた機甲部隊を投入し、日本軍は圧倒的な火力の差の前に、壊滅的な損害を被った。後に「ノモンハン事件」と呼ばれるこの戦いは、日本陸軍が経験した最大の敗北の一つとして歴史に刻まれている。
その荒野に、陸軍中佐・落合源太郎がいた。
砲兵エリートとして、父は高度な射撃計算能力を持っていた。砲兵とは、単に大砲を撃つ者ではない。
距離、角度、風向き、気温——無数の変数を瞬時に計算し、最適な射撃諸元を割り出す、高度な知的能力を要する専門職だ。
父はその分野において、群を抜いた能力を持っていた。
ある日、父の陣地はソ連の戦車に包囲された。
その数、1000台。
地平線の果てまで、びっしりと並んだ鉄の巨体。エンジンの轟音が大地を震わせ、砲塔が陣地へと向けられた。どこを見ても、鉄と炎の壁だった。
幼い私がその写真を見せてもらった時、背筋が凍りついた。
父が悠然と撮影したというその写真には、地平線を埋め尽くすソ連の戦車群が、まるで無限に続くかのように写っていた。
あれほど戦慄した写真を、私はその後も見たことがない。
その写真は引越しを繰り返すうちに失われてしまったが、あの戦慄は今も私の胸の中に生きている。
しかし父は、逃げなかった。
父はまず、部下全員を呼んだ。
そして「命令書を届けてこい」という名目を作り、一人ずつ、全員を陣地から送り出した。
誰も死なせない…
家族のもとへ返す…
それだけを考えて…
士官学校に入った日から、父が心に誓い続けてきたことだった。
どれほどの状況に置かれても、自分が正しいと信じることを、
曲げない。
部下の命は、自分の命よりも重い。
一人残った父は、砲兵の知識を最大限に活かした。
さも多くの兵がいるように見せかけながら、陣地を維持し続けた。精緻な砲兵陣地に、ソ連軍も無策には攻め込めなかった。睨み合いが続いた。
そして父は、その緊張の中で悠然と写真まで撮った。
死を覚悟した者だけが持つ、あの静けさで。
1週間、たった一人で。
1日目、2日目、3日目——
時間が経つにつれ、食料も水も尽きていった。しかし父は動じなかった。竹藪の中で時間を止めたあの精神が、ノモンハンの荒野でも父を支えていた。
「死中に活を求める」
かつて父が私に教えてくれた言葉が、あの陣地の中で、文字通り生きていた。
4日目、5日目、6日目——。
ソ連の戦車群は、依然として陣地を取り囲んでいた。包囲網は解けなかった。しかし父もまた、動かなかった。
戦争とは、敵を倒すものだと、世間は言う。
しかし父にとって戦争とは、
部下を生かして返すものだった。
その信念のために、父は一人、
1000台の戦車と向き合い続けた。
平和を願う男が、
戦場で最も孤独な時間を過ごした。
その逆説の中に、落合源太郎という人間の、
全てが凝縮されている。
そして、運命の7日目の夜が訪れる。
第四章:神の声
――7日目の夜、敵陣を歩き抜けた男
7日目の夜が来た。
食料も水も尽き、体力は限界に近かった。1000台の戦車は、依然として陣地を取り囲んでいた。包囲網が解ける気配は、どこにもなかった。
人間的な計算をすれば、もはやここまでだった。
しかし父は、その夜、
神の声を聞いた。
父がその話を私にしてくれた時、私はまだ幼かった。
神の声、という言葉の意味を、完全には理解できなかった。しかし父の表情は、いつもと違った。遠くを見るような、しかし確かな何かを見ている眼差しだった。
「声が聞こえたんだ」と、父は静かに言った。
「行け!」 と。
その声に従って、父は立ち上がった。
真っ暗な夜の荒野へ、一人で歩き出した。
敵陣の真っ只中へ、向かって。
竹藪の前で刀を抜いた時のあの静寂——時間が止まったような、あの感覚と同じものが、父の全身を包んでいたのではないか。
邪心を取り払い、無垢な心で、ただ声に従って歩く。
暗闇の中を、父は歩き続けた。
やがて、闇の中から人影が現れた。
数人のソ連兵の見張りだった。
彼らはロシア語で「ヤァ」と手を挙げた。
父も、ロシア語で手を挙げて応えた。
7カ国語を操る父にとって、それは自然な動作だった。
暗闇と距離が味方した。
深夜の闇の中で、
日本人とロシア人の区別はつかなかった。
兵たちはすれ違い、父は敵陣を悠然と抜けた。
父は中国へ入った。
そこには、かねてより縁のある恩師がいた。
医師であり、病院の院長を務めるその先生は、父を迎え入れ、病院で働く場を与えてくれた。
恩師は名医だった。
父はその恩師のもとで、漢方をはじめとする様々な東洋医学を、実践の中で学んだ。西洋医学の知識と技術を持ち、さらに東洋医学の深みを加えた父は、やがて病院の中で優秀な名医として信頼を得るようになった。
中国人医師として、父は多くの人を治療した。
やがて敵兵が潜伏場所へ踏み込んできた時、助けられた中国人たちが命懸けで父をかばった。
愛が、命を救ったのだ。
終戦を迎え、父はようやく日本へ帰還した。
しかし日本では、父はすでに戦死者だった。
戸籍は抹消され、前妻は別の人と再婚していた。
生きて帰ってきた男が、書類の上では死んでいた。
これほどの皮肉があるだろうか。
しかし父は、ここでも動じなかった。
堅忍不抜の精神は、戦場だけでなく、
戦後の混乱の中でも父を支え続けた。
やがて戸籍を取り戻した父は、
新たな人生を歩み始めた。
海運業を始めれば、船が沈んで玄界灘を泳いで生還した。貿易業へ転じ、そこで出会ったのが、貿易会社の秘書をしながら絵を描き続けていた女性——私の母、茂子、雅号・慶子だった。
宇多源氏の末裔である父と、
平家の血を引く母が出会った場所は、
山口県下関市——壇ノ浦だった。
壇ノ浦。1185年、源氏と平家が最後の決戦を繰り広げた、あの海峡だ。800年の時を経て、壇ノ浦で再び出会った源氏と平家。母はよく笑いながら言っていた。
「私の家系は平家だったから、
源氏と平家の結婚だったのよ」と。
父は母を、日本画の巨匠・小倉遊亀先生に師事させ、院展系の日本画家へと育て上げた。
「美術建築」という当時、新しい分野で会社を興し、
「東京スタジオ」という屋号で設立した。
土木から設計、建設までを父が担当し、そして内装の壁に母が絵を描くという当時にはない革新的な手法で、名古屋に多くの建物を手がけた。
そして1965年、父は一冊の本を世に出した。
「忘れられた二つの可能性」——副題は「宇宙の構造と生命の神秘とにメスを入れる新しき哲学的探究の試み」。
著者名は「落合陌州」。
父が哲学者として名乗った、もう一つの名だった。
その本の表紙と裏表紙には、赤ちゃんの絵が描かれていた。
生まれたばかりの私を、母が描いた絵だった。
砲兵エリートにして哲学者にして実業家にして、妻の芸術を支えた男が、息子の誕生の翌年に宇宙哲学書を世に出した。その表紙を、妻が我が子の絵で飾った。
私はその本を今も手元に持っている。
終章:魂の声
――1100年が、今、唄になる
私が生まれたのは、長い戦いの末だった。
母には骨盤が開かないという問題があり、
最初の子は父が「廣一」(ひろひと)という
名前まで決めていたのに、
母のお腹の中で命を落とした。
しかし父は諦めなかった。
医学と哲学と愛の全てを注ぎ込み、
次の命——私という細胞を、丹念に育て上げた。
私は、戦争が嫌いだ。
序章でそう書いた。
今も、その気持ちは変わらない。
しかし今の私には、序章を書いた時とは違う、
深い確信がある。
父は、戦争が好きだったのではない。
平和を愛していたからこそ、戦場へ行った。
部下を死なせたくなかったからこそ、
高い地位を目指した。
2.26事件への参加を断ったのも、
神の声に従って暗闇を歩いたのも、
中国で人々を助け、助けられたのも——
全て、
生きることへの、
人を生かすことへの、
圧倒的な意志があったからだ。
父もまた、愛と平和を、
誰よりも深く願っていた。
そのことに気づいた時、私は初めて、
父と自分が深いところで繋がっていると感じた。
表現の形は違う。父は砲兵の計算式と哲学の言葉と医学の技術で世界と向き合い、私は音楽と声で魂を唄う。しかし、その根にある願いは、同じだ。
争いのない世界。
魂が自由に輝ける場所。
人が人を愛することのできる時代。
父が竹藪で見せてくれた、踊りのような剣さばき。
あの静寂の中に、私の魂の声の原点があった。
邪心を取り払い、清らかな心から発せられるものだけが、本当の意味で世界に届く。
剣であれ、声であれ、その本質は同じだ。
1100年の魂が伝えてきたものは、
剣でも砲でもなかった。
それは——声だった。魂の声だった。
宇多天皇から始まり、
近江の地に根を張り、
戦国の世を生き抜き、
近代の激流を越えて——落合家の魂は、
幾度も死線を潜り抜けながら、
今ここへと流れ着いた。
祖父・俊夫と祖母・べんは、関東大震災で41歳の若さで逝った。
しかしその息子・源太郎は、
魚の行商で家族を養い、
士官学校を首席で卒業し、
ノモンハンの荒野で1000台の戦車と一週間向き合い、神の声に従って暗闇を歩き抜け、
中国で人々を助け、
玄界灘を泳いで帰り、
壇ノ浦で運命の人と出会い、
哲学書を世に出した。
その父の元に、
9月1日の翌日——9月2日に、
私は生まれた。
私が生まれる前夜、母は夢を見た。
大きな五本指の金色に輝く龍が、
赤ん坊を手に天へ昇っていく夢を。
翌日、朝から夜の十時まで続いた難産の末、
私は自らの意思で産道を潜り抜けた。
そして生まれた瞬間、私は叫んだ。
鷹のように口を尖らせて、真っ赤になって。
今でも、その叫びを覚えている。
これが私の、この世での第一声だった。
声を出すこと——発声することが、
私の使命なのかもしれない。
そう感じた瞬間だった。
やがて0歳の終わり、
母と北鎌倉の山道を歩いていた時、鶯が鳴いた。
その声に、私は「ハッ」とした。
声とは、こんなにも美しく響き渡るものなのか。
叫ぶことしか知らなかった私が、初めて「発声」の美しさを知った瞬間だった。
夜になると父は、ガウンの懐に私を抱えて、
耳元で哲学を語り聞かせてくれた。
言葉はまだわからなかった。
しかし、父の意思は伝わった。
言語と意思は、別々に伝わるものなのかもしれない。
母がアトリエでクラシック音楽をかけながら絵を描く傍ら、私はいつの間にか箸を持ち、タクトを振るようになっていた。
ドヴォルザークの「新世界より」が流れる中で。
母は笑って言った。「まるでカラヤンみたい」と。
声と音楽は、私が言葉を覚えるより先に、
すでに私の全身に宿っていた。
産声を上げた瞬間から、鶯の声に震えた瞬間まで——私の「魂の声」への旅は、生まれたその日から、
すでに始まっていたのだ。
宇多源氏の血を引く落合家の魂と、平家の血を引く木村家の魂が、壇ノ浦で出会い、一つになって生まれた私が、今この時代に声を響かせている。
源氏と平家が800年の時を経て和解し、
その子供が唄っている。
沙沙貴神社の大家系図に、源太郎までの名が刻まれている。次にその名を刻むべき者は、私だ。
しかし私が刻むべきものは、名前だけではない。
1100年の魂が伝えてきた、その声を——この時代に、精一杯に響かせることだ。
父よ。
あなたは平和のために戦場へ行き、
神の声に従って暗闇を歩き抜けた。
私は平和のために唄い続ける。
魂の声に従って、この時代の闇の中を、歩き続ける。
箸で木刀を受け止めたあなたの静けさが、竹藪に道を作ったあなたの清らかさが、1000台の戦車の前で動じなかったあなたの不抜の精神が、今も私の声の中に生きている。
1100年の命のバトンを受け取った者として、
この声を、この時代に、精一杯に響かせる。
それが、落合家四十代目・私の、使命だから。
平安の世から流れてきた川は、今日も流れている。
その川の声を、私は唄い続ける。
※この作品は、創作大賞応募用に短縮しております。
完全版は、創作大賞終了後、改めて公開いたします。
