フィリピンママ、からの追憶(後編)
前半では、私が昭和の中学生の頃にはんなりと人生が交差したフィリピンのお姉様方、そして1990年代の終わり頃20代後半の大人になった私がフィリピン人留学生のご家族と触れ合ったお話をしました。今回は、その後の意外なフィリピンつながりと、仕事きっかけで初めてフィリピンの地を訪れたときの経験から、シンガポールで感じたフィリピンについてお話します。
Y2K - アンニュイな雰囲気のフィリピーナ歯科助手
2000年代の初め頃、名古屋市内中心部のある歯科に通っていました。先生は前衛的な日本人の男性で、スタッフのほとんどが外国人というセッティングでした。中でも印象深いのが、いつもモリモリ明るいペルー人の受付係(たまに助手)と、しっとり物静かでやけに色気のあるフィリピンネキの助手。通院を完了したのがちょうど年末に近いというタイミングで、なぜか私は患者代表(?)としてこの歯科医院の忘年会に呼ばれたのです。1件目はサルサバー。もうここが、居酒屋とか料理屋みたいな一般的な忘年会会場ではない。ペルーネキはかなりボリューミーでグラマラスな人だったのですが、さすがラティーナ(?)、めっちゃサルサが上手いので、「やだ上手!どうしたらそんなにくるくる踊れるの?」ときいたら「Cintra(腰)よ、cintra!」と教えてくれました。私には再現はできなかったけどw
じゃあ2件目に行こう、と向かったのがフィリピンパブ。三十路のロコヒロコ、未到の地。今やそういったお店に入店しても補導されないお年頃。アドラちゃんと電話で話した14歳のあの日から随分と成長したものです。促されるまま、みなさんと一緒にテーブル席に着くと、紫のドレスを着てお客さんとカラオケをデュエットするホステスさんの後ろ姿。華奢で美しい背中の線。曲が終わってその人が振り返ると、なんと、例の歯科助手ネキでした。副業していたのですね。…ん?歯科助手が副業?こういう本業と副業の組み合わせもあるのか、と世界が広がった気がしました。
先生とフィリピン妻と、私は実は同じ屋根の下にいたらしい
患者代表で忘年会にお呼ばれした上にお車代まで頂いた御礼がてら、治療が終了してすっかり行かなくなった歯科医のオフィスに肉じゃがのお裾分けを持って尋ねていった日のこと。患者が入っていない時間帯だったらしく、先生に招き入れられてしばしおしゃべり。そこで先生とのお互いに知られざるご縁があったことがわかりました。なんと、先生は以前フィリピン人の奥様と一緒に、三重県の、よりによって(?)私の実家がある分譲マンションに暮らしていたことが判明!天井こそ別とはいえ、同じ屋根の下!なんというご縁!私がアドラちゃんと電話で話していた時、先生と奥様も同じ建物の別の階のお部屋にいたのかもしれません。
2008年秋-ついにフィリピンに召喚される
さらに数年後。私は転職のためにリロケして横浜で暮らしていました。その頃街で見かける外国人はロシアネキと、土地柄米兵が多かった気がします。仕事でマニラのベンダーとのやりとりがあり、ある日シンガポールの上司から「ヘイ、ロコヒロコ。明後日からちょっとマニラに行ってきてくれる?」と言われました。48時間ノーティス…毎日激務で疲れており、ただ淡々と出かけました。実はこれが初フィリピン。初めての国に訪れるというのはいくらかワクワクするものなのですが、この時点でむしろしんどい。疲労と、おそらく今思えば燃え尽き症候群のような状態でほとんど何の感情もなく淡々と出発しました。
けれどもいざ現地に到着してみると、なんだかすごく甘い空気感。熟れたバナナやパイナップルがそのまま空気中に薫っているよう。パラダイスに来ちゃった?と思いました。誤解のないように説明すると、実際に匂いがしたわけではありません。実際の嗅覚で感じるのは、埃っぽさや、酸化した油の匂い。けれども一種の共感覚みたいなものというか、雰囲気に匂いがあればまさに南国フルーツの熟れた甘い匂いだと感じました。東京からリモートでやり取りをしていたマニラのベンダーは概してのんびりしていて「大丈夫そ?」と心配になることも多々あったけれど、その空気感の中ではそれがまっとうなのかも、と思いました。実際のところ、仕事を通して数年の間に何名もの優秀なフィリピン人と出会いました。ユルいのと、能力の高さは別の話なんです。3日ほどの短い滞在だったのですが、あの甘い空気感の出どころは割とすぐにつかめました。人です。人が優しい。歯科医の先生がフィリピナ推しだったのがなんだかわかる気がしました。タクシーの運ちゃんはおしゃべり好き、警備員もニッコニコ、職場でもみんなリラックス、いやむしろ楽しそう、空港の荷物検査職員まで人懐こい。「微笑みの国タイランド」というけれど、フィリピンだって負けてない。そして一番印象的だったのは、空港に集まるたくさんの人々。出発ロビーには、搭乗者1組に対して「団体」と呼べるほどの人数がお見送りに来ていました。素朴で優しい光景。この時、アドラちゃんや、近所の見知らぬフィリピーナのお姉様方、そしてアンニュイ歯科助手ネキのそれぞれのストーリーが解像度を増したように感じました。
平成末期(2017〜2018年)ラッキープラザのジョー
その後再度転職した私は、数年後さらにその会社のシンガポールオフィスに異動することになりました。この会社の東京オフィスに勤務していた時に週一回の家事代行サービスをお願いするようになってQOLが爆上がりしたので、シンガポールでも落ち着いたら信頼できて猫にも安心な通いの家政婦さんを探そうと思いました。ところがシンガポールでは家政婦は原則住み込みという決まり。とは言え、家政婦さんも週末はお休みで自由に出掛けられます。それで中には週末は別のお家でアルバイトをする家政婦さんもいるのです。同じオフィスの日本人の友人が、別の同僚のお宅の住み込みの家政婦さんが週末バイトをしたいとのことで紹介されてお願いしていたのが、週1家事手伝い界隈で大人気だったフィリピンネキのジョーです。そのお友達の家にも猫がいて、猫の安全とジョーの人柄の良さにお墨付きがあったので、もし負担でなければうちもお願いできないかしらと打診しました。それで毎週土曜日にお掃除に通ってくれるように。ジョーがお掃除をしてくれている間、私は出かけるようにしていたのですが、戻ると時々まだいて雑談をします。なんでも、旦那さんが負担でしかなかったので離婚して、自分は出稼ぎをして貯めたお金でフィリピンにお店を持つのが目標とのこと。
ジョーは私のことを「ロコヒロコマーム」と呼ぶので「マームはつけなくていいよ」と言ったのですが、私たち日本人が西洋人の名前にも「さん」をつけがちなのと似ている気がします。私も今でこそ平気で目上の人や初対面の人をファーストネームで呼び捨てにしますが、最初はまあまあ抵抗がありました。そう言えば、前職の同僚ラウルがマニラで「ミスター・ラウル・サー」(どんだけ丁寧w)って呼ばれて居心地悪そうだったのが面白くて、一緒になって「ミスター・ラウル・サー」って呼んでいじった、なんてこともありました、そう言えば。楽しかったね、あの頃も。
で、話をシンガポールに戻します。当時(今もかな?)、日曜日のシンガポールの風景の一つに、ラッキープラザ(フィリピン系テナントの多いショッピングモール)に集うフィリピン人というのがありました。ジョーのように家政婦さんとして働いているフィリピンネキたちで、モールの内外がいっぱいになります。なんかうっすらと、ピクニックをしているのを見た気がするのですが、あの辺にそんな場所あったっけ?と今ストリートビューを見てみたら、公園みたいな場所はないんですよね。記憶違いかな?それとも植え込みみたいなところに座っていたのかも。土曜日は外で働いていたジョーも日曜日はこちらでお友達ネキたちと憩いの時間を過ごしていたそうです。

私がシンガポールを去ってまもなく、ジョーは目標額を達成してフィリピンに戻ったというニュースが届きました。
最後に
今回も記憶の糸が手繰り寄せられるままに、何の落とし所もない昔話をお届けしました。「フィリピン」縛りで。最後にもう一つだけ、ランダムな記憶をシェアさせてください。
「フィリピン系のテナントの多いラッキープラザ」と書きながら思い出したんです。私の亡くなった母がよく、「非ピリン系のバファリン」を「フィリピン系のバファリン」と言い間違えていたことを。以上。
